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12/24
中学生の頃
明日は大事なテストがあるという事で
普段はまったく勉強しないものだから
朝まで一夜漬けの勉強をするタイプだった。
しかし
晩ご飯も食べた
お風呂も入った
さあ、勉強始めるかってところで
必ず机の上の整理を始める。
上が片付いたら
本棚や引き出しの中まで整理を始める。
途中、手にとったマンガ本を読んでしまう。
そして朝になる。
忙しい時ほど
何か別のことを始めてしまう。
そういう悪い癖があった。
「永遠のスタンダード、バルサ50」を
大急ぎで仕上げてる時もやってしまった。
店舗の大改装。
陳列棚の整理どころの話ではなく
床板から全部換えた。
といってもほとんどを
仲間たちやお客さんたちがやってくれた。
ありがたい話である。
そして僕は東京へ。
今回は観光も美味しいものも何もない。
出版社にカンヅメで校生作業だ。
校生は間違い探し
目で追うとスラスラと流してしまうので気づかない事が多い。
だから声に出して読む。
さすがに人前では
「あとがき」を声に出して読みきれなかったが・・・
2日間みっちりとやって
僕の本作りは終了した。
今回、急いでいたのには理由があった。
バルサファイブオーの商標権利は
当然、スポーツザウルスにあるのだけど
そこが倒産して権利が空白な時に発売しようという事だ。
許可申請や挨拶回り、契約金の問題など
ややこしい問題をこなさなくて済む。
そしてもうひとつ
編集長Eさんの頭にはひとつの案があった。
「Vo.2がVo.1を超えたことはない」
これはどれにでも当てはまる方式で
分かりやく言うと
映画のVo.1がヒットして
Vo.2を出してもVo.1の売り上げを超えない。
そういう事だった。
編集長Eさんは
Vo.2でVo.1を超えてやろうと考えていた。
最初に出版する
「永遠のスタンダード、バルサ50」は
その歴史書として文字中心の本にし
Vo.2はルアーの写真集を出して
Vo.1を超えようと考えていた。
ワクワクするような話にすぐに飛びついた。
表紙は僕の好きなホッツィートッツィーに決まり
あとは印刷の仕上がりを待つだけになった。
つづく
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12/24
4月も半ば
一週間ほど集中してやっていた原稿書きを
いったん中断して
釣りの遠征の準備にとりかかる。
いつもの山口のダム。
年々シビアになっては来てるけど
50センチアップを今年も見れた。
釣ったのは僕でなく
前席に乗っていた編集長Eさん。
風も止んだ夕暮れのワンド。
減水して顔を出した石垣。
そこを通したルアーに強烈なアタック。
あんな激しい出方、久しぶりだった。
時間の余裕があるバス釣りは
本当にいいものだ。
もちろん、編集長Eさんがいるってことは
ちゃんと仕事ってことだ。
そして、その遠征中に
一回目のザウルス債権者会議があった。
則さんも出席していて
会議に出席した債権者でもある友人がいうには
もう、しどろもどろだったそうだ。
則さんの
「俺が良いって言ってんだから、いいんだよ」
と強気の言葉を吐くのを知っているから
しどろもどろだったと聞くと
倒産させたのは本人と分かっていても
ちょっと心配になる。
「なんか俺、騙されてんじゃねーかな」
と弱気の言葉も頭に浮かぶ。
そういう事を考えながら帰る道のりは
通い慣れた道のはずなのに
永く、永く感じたものだった。
つづく
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12/23
岡山から帰ってきて
僕は一心不乱に原稿を書き続けた。
原稿を書く極意は
とにかく無心で、大量に書く。
まずは一気に書く。
一度ピリオドを打った文章というモノは
増やす事より減らす事の方が容易なのだ。
と、編集長Eさんに教わった。
それ以降、沢山の寄稿の仕事をやっているけれど
今でもこの教えを守っている。
しかし僕はどちらかというと
釣行記の方が得意だ。
自分が体験した風景や時の流れを
文章にするほうが面白い。
説明文はどうも苦手だ。
設定した目次の半分ぐらいを書き上げた時だったか
則さんから聞いた話を文章にした時だったと思う。
急にほろっと涙が落ちた。
その話を聞いてた時の風景が頭に浮かぶ。
しかめっ面から始まって
最後にニカッと笑う則さん。
ずるいよ、その笑顔。
しばらくボーっとしていた。
声、聞きたいな・・・
でも電話はしない。
この本を作っている事は内緒にしていたし
原稿を終わらせるまで電話も控えようと決めていたからだ。
僕は今まで書き上げたモノを保存して
新しいフォルダーを作りにかかった。
今の想いを指先からキーボードに伝える。
まるで何かに取り憑かれたように叩く。叩く。
ありえない程の短時間で
一気に書き上げたその文章は
見直してみても削除する部分がなかった。
フォルダーに名前を入れ保存する。
それをメールに添付して出版社に送信する。
この本は早く出版したかったので
原稿書きと編集作業を同時に行っていました。
ですから
ひとつの目次項目が完成する度に
出版社に送っていたのです。
すぐに編集長から携帯に電話がありました。
「なんか、着てますが?」
と冷めた声。
ああ、急に書きたくなって・・・と僕。
「まだまだ先は長いっすよ」
怒られた。
僕が道半ばで
短時間で一気に書き上げたフォルダー名は
「あとがき」
そうなのです。
あの本の「あとがき」は
「あと」でなく、途中で書いたものだったのです。
つづく
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12/22
まだ春の声も届かない
寒さが残る日。
出版社から大きな仕事を頂いた。
バルサファイブオーの本を出してみないか?
もちろん、ひとつ返事だった。
ファイブオーには
バスコ、スミス、アルファ&クラフト、
そしてスポーツザウルスと
販売されてきた会社がある。
それごとにまとめてみたい
そういう想いがあったからだ。
まあ一番の目的は本を書くという
やったことがない事への憧れだった。
開高健、則弘祐、西山徹さんらに
近づけるとも思ってはいなかったが
釣り師の彼らがやってきた
本を書くという仕事をやれるのは
とても嬉しかった。
4月の初め
春バス遠征の前に
僕は友人と岡山に向かった。
岡山の委託販売をされているショップさんに
ファイブオーコレクターを集めてもらっていた。
僕のもとにも
友の会の有志たちがルアーを送ってくれ
かなりの数が集まっていた。
岡山で編集長Eさんとカメラマンと合流。
この編集長は 深い付き合いはないけれど
僕を出筆の世界に上げてくれた恩人だと
今でも思っている。
岡山のショップに
もの凄い量のファイブオーが集まった。
友人とカメラマンはひとつひとつを写真に収め続け
僕と編集長は歴史を文字にしてまとめていった。
自分ではかなりの知識があると思っていたが
こんなに沢山のファイブオーがあると
その知識を覆す個体まででてくる。
本にも書いているが
そこで気づいたのは
ホッツィートッツィーの2フッカーの製造年だった。
ホッツィーの2フッカー時代に
エアブラシで吹かれた目玉と
塗料をハンコみたいに押して描く目玉が
目の前に並べられた。
また
ルアーの背中にある文字
「BALSA-50」
この「0」の文字に大小があるのを見つけたのも
この時だった。
これだけの量が一堂に揃ったから
出てきた歴史の跡だった。
何度も何度も原稿が書き換えられる。
編集長に
大丈夫か、この人。と思われただろう。
強く残る思い出に
そこそこの知識と
大量の資料を所持していたので
安心してこの仕事に望んだが
一番大事なそれら全てを
まとめておくことをやってなかった代償は
ヘビーに僕にのしかかっていた。
本はノリでは書けない。
とくに解説や歴史書では尚更だ。
いい経験をさせてもらった。
宿泊したホテルの中も含め
みっちりファイブオーの歴史を考察した2日間だった。
もちろん、それで終わりではない。
そこで終わったのは、ほんの目次程度で
僕は夏休み前に
大量の宿題を言い渡された状態だった。
しかし考えてみれば
倒産や再建の問題を抱えていたときに
頭の中のすべてを大好きなルアー、
バルサファイブオーで満たしたのは
いいリセットになったのかもしれない。
次から次に出てくる事実に
翻弄されながらも
スッキリとして佐世保に帰ることができたんだ。
つづく
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12/21
2004年。
僕の仕事始めは
正月の間に買いあさった
値引きされたザウルス商品を
ネットショップにアップすることからだった。
同時に○ちゃんねるを覗いてみる。
まあ、座右菌さん、ひどい書かれようだ。
ひとり
「あの人はそんな人じゃない」と
反論の書き込みをした人がいる。
たぶん友人のHくんだ。
彼ならこの話題で噛み付きそうだ。
ありがたいけど
ここの掲示板で本気にならなくてもいいよ。
ありがとう。
そういう、ぶつぶつと言いながら
仕事をする事が増えた。
僕はこういうの
楽しんで見れる人だけど
まともに受ける人は大変だろう。
誹謗中傷で自殺する人がいるというのも
わからぬではない。
たぶん
自分のことが書かれていてショックかもしれないが
それを皆が見て、皆からそう思われることが
もっとヘビーに感じるのではないだろうか。
顔や名前を隠してる人が言うことを
気にしなくてもいいだろうにね。
そうこうしていると
ザウルス未発売分のひとつめ
デッキベストが入荷した。
ベストタイプの拡張式救命具で
Sports Saurus Inc. と刺繍が入っている。
制作会社が完成品を納入できないまま
困られていた商品だ。
ザウルス社が全国に出荷する分の量だったので
なかなかの数だったが
愛知のショップとうちの2店舗で
なんとか売り抜けた。
2004年も変わらぬ忙しさでスタートした。
つづく
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12/18
12月31日。
ザウルス倒産報道から7日目。
いつもより慌ただしくその日を迎えた。
ずっと頭から離れない言葉を
少し隅っこに追いやって
注文を処理していた。
先にも書いたが
倒産した会社の商品が
こうも定価で飛ぶように売れていくのは
ザウルスは、あらためて凄い会社だったんだ。
さすがに大晦日ともなると
午前中で荷造りがすむぐらい。
苦情も嫌がらせも
後片付けと一緒にすませ
鍵をかけ店を出る。
うちの赤い大きな恐竜の看板をしばらく見ていたら
頭から離れない言葉はセンターに出張ってくる。
同じ方向に向かっているその道は同じ道なのか。
とにかく
しばらく日常から離れたかったので
そのまま福岡の実家へ車を走らせた。
高速道路を走る。
ランドクルーザーは税金が高いが
その分、安心も与えてくれる。
時間にして1時間半。
CDもかけずに無音でずっと考え事をしていた。
ザウルス再建だけでなく
これから自分は何を売って行くのか
○ちゃんねるに書き込みがあった
「座右菌おわた」を思い出す。
まあ元々則さんやファイブオー、ザウルスが好きで始めた店。
名付け親も則さんだし
これで店を終わらせてもいいかな
なんて軽い考えではあった。
走行時間、1時間半のうちの
ほんの一瞬だけどね。
実家に着いたが上がりもせずに
気になっていた事を確認しにいく。
うちの実家の周りには
いがいと釣り具屋がひしめき合っている。
倒産したザウルス商品を
どう扱っているのか知りたかった。
もとよりザウルス倒産を知っているのか。
僕はいつものザウルスキャップではなく
黒色の無地のニット帽を深々と被って店を回った。
ザウルスの商品は
自分が毎日接しているから
広い店内であろうともすぐに見つけることができる。
小物やルアー類は定価、もしくは1割引程度だが
ロッドなどは保証が効かないために
3割引、4割引、半額を見つけた。
「あるじゃない、来年から売る商品!」
僕は次から次へと店を周り
ごっそりとザウルス商品を買いあさった。
倒産会社の商品はタイミングよく
年末年始のセールに乗っかって
肩身の狭い思いをしていた。
という事は
情報は回っているということだ。
狭い業界、当然といえば当然だ。
肩身の狭い思いをしている
大好きなザウルス商品を
救い出してやったぜ。
といえば善人っぽいな。
なんて一人、大晦日の夜に
最後の店に入る。
その店を最後にしたのは理由があった。
その店はチャーマス北村さんを呼んで
ジギングセミナーなどを開催されていた店で
ザウルス推しの店だったからだ。
歳末セールに賑わう店内に入り
ザウルス商品を探す。
見つけるも、見つけるも
歳末セールの黄色の値札シールはついておらず
小物もルアーもロッドも
通常の白い値札シールのままだった。
もしかして倒産を知らないのかもしれない。
定価では僕も買い占める気はないので
自分用に好きなものだけをレジに持っていく。
お金のやり取りをすませ
紙袋を受け取るときに
僕よりも年上ぐらいの店員さんに話しかけられた。
「ザウルス、好きとね?」
その言葉と口調、
そしてその冷ややかな目で
ハッキリと判った。
やはり倒産を知っている。
「ハイ、大好きです!」と元気よく答えると
店員さんは話を続けず背中を向けた。
「哀れだね、何も知らずに」と笑われたか
「俺もだよー、ちきしょう」と泣かれたか。
どちらにしろ
ザウルス商品を定価で売っているということに
好感が湧いてきた。
自分の好きなものが大事にされているのは嬉しいことだ。
僕は語りが続くのを恐れて
そそくさと店をでて
ザウルス商品が満載の車に乗り込んだ。
こうして僕の2003年は幕を閉じた。
あとで知ったのだが
数えで「前厄」の年だったそうだ。
つづく
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12/17
その日の夜。
2003年の最後の日を迎えるというのに
僕は頭を抱えていた。
それはもちろん
電話で聞いたあの言葉
「来年早々、ザウルスが再開」だ。
電話がかかってきたタイミングとして
ふたつ考えられた。
ひとつは
先に話した則さんとの電話で僕が
「来月から何を売ろうか」と言った事に
則さんが反応して話が回ったのか。
ふたつ目は
最初から決まっていた事なのか。
前者であって欲しい。
後者ならば故意的な倒産
「計画倒産」と言われかねない。
とは言え
ザウルスの復活は
僕の願いでも、みんなの願いでもある。
でも
債権者会議も始まってないのに
順番が違うような。
借金を返した訳でもないのに
道が違うような。
しかし
向かっているゴールは同じのような。
いや待て、違うゴールのような。
普段、深く物事を考えない僕は
大きく混乱していた。
ひとりでは
どうにもならなかったので
愛知のショップオーナーさんに連絡した。
オーナーさんも
「なんだそれ」と驚いておられた。
実はこの時
オーナーさんは違う動きをされていた。
ザウルスが2004年度に販売する商品を
制作会社に依頼したままで倒産したので
それらの会社は収めるところもないので丸損。
そこで作りかけで止まっている製品を
完成させてもらってコチラで販売しお金に替えるという事だ。
すごい人だと思った。
ザウルスがどこで何を依頼したか知ってるし
業界で信用されているから話もまとまる。
僕なんかザウルスの取引業者さんからは
怒られてばかりだったからね。
ザウルスキングのって言っただけで
電話を切られたこともある。
それぐらいファンの熱い思いとは裏腹に
業界ではその名前に拒絶反応が起こっていた。
それでも一番怒っている債権者の方々に
一週間以内に話を付けるなんて
個人の信用の何者でもないだろう。
こういう事を続けていけば
ザウルス再建は許してもらえるのではないか。
その道は絶対に間違っていない。
そう信じて進むしかなかった。
それにしても
「来年早々、ザウルスが再開」の言葉が
頭から離れない。
夜中までホットラインの更新を迷ったが
その事を書く事をやめ
異常なぐらいの短文で
その日のホットラインを更新した。
つづく
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12/16
12月30日。
ザウルス倒産報道から6日目。
携帯電話が鳴る。
画面をみると「則さん新」と出てた。
「はい、おのさんだよ」と出ると
笑ってもくれない。
が、昨日よりは幾分元気そうだった。
則 「おまえ一人、矢面に立ってんだろ?」
ああ、一人と思ってないので
なんちゃないですよ。
少しは落ち着いてますか?
則 「ああ、ありがとな」
会話は進まない。
どうしたんすか、今日は?と問うと
則 「だから、大丈夫かと心配してんだよ」
あ、有難うございます。
矢面なんか思っていないので大丈夫ですよ。
ただ、、、
ワザと間をもたす。
来月から何を売ろうかな〜あはは。
ここも目論見に反して
笑ってもらえなかった。
その時の話はそれぐらいだったかな。
会話も弾まないし
やらなければいけない事は山ほどあるし
それでその日の電話を切った。
次から次と注文が入ってきてたので
荷造りをしようかと立ち上がったら
また携帯電話がなった。
則さん何か言い忘れたかな?とみると
登録のない知らない番号だった。
とりあえず出る。
「あー○○です。元気ですか?」
ロシアに一緒に行ったオジ様のひとりだった。
「毎日、情報発信ご苦労様です」
ここのホットラインを見てらっしゃるのかな。
挨拶のやりとりをして話を続けると
「来年早々、
ザウルスは販売再開しますって
ホットラインに書いといて」
度肝を抜かれた。
つづく
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12/15
12月29日。
ザウルス倒産報道から5日目。
昨晩はどうしてこうなったのか?
倒産させた経緯を聞かなかったことを
少々悔やんではみたが
実際、なかなか切り出せるものではないし
「オマエには関係ない」と言われればそれまでだ。
とりあえず愛知のショップオーナーさんには
電話があったことを伝えた。
その頃の目標というか想いというのは
まずは 迷惑がかかった債権者様に許してもらい
ザウルス再建。
仕事をまた続けてもらい借金を返していく。
それが完済したら
則さんをスーパーバイザーとして戻ってもらう。
それしかなかった。
愛知のショップオーナーさんは
とにかく業界や制作会社に顔が利く方で
僕は頼るしかなかった。
だからその時の僕にできることといえば
皆さんからお預かりしている
再建嘆願署名をひとりでも多く集めることだった。 それしかなかった。
なかった、なかった。と
本当に一筋の道しかなかったんだ。
ネット上でも
友人たちや他のメーカーのファンサイトも
署名運動のリンクを貼ってくれた。
手配りの運動であれば
途方もない時間が掛かるところを
ネットというのは一瞬で広まる。
なんとも有難いと感じた。
大阪の友人から電話が入った。
「○ちゃんねる見た?」
○ちゃんねるというのは
当時、もの凄い人気を誇っていた
掲示板スタイルの投稿サイトだ。
普段、見慣れてないし
ここ数日そんな時間もなかったので
試しに検索して覗いてみる。
「釣り」というカテゴリーの上位に
「ザウルス倒産」という文字を見つけた。
驚いた。
言葉は適切ではないが
ものすごく盛り上がっていた。
どうしてこんな事知ってるの?って話もあれば
これはないだろ、と思わず笑ってしまう投稿もあった。
ほとんどが後者だったが。
前後の文章から察するに
うちの店のことを「座右菌」と呼んでいらっしゃる。
則さんは「海苔」だった。
○ちゃんねるを見るのは
それから僕の日課となった。
インターネットの「便利」と「危険」を
同時に感じた日だった。
つづく
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12/14
12月28日、夜。
則さんから電話が入った。
今まで聞いたこともない元気のない声だった。
「則だけど・・・」から
話が出てこなかった。
僕から口火をきる。
今どこに居るんですか?は
たぶん、僕にも答えないだろうから
「電話、新しいの?変えたんですか?」
則 「ああ」
そしてまた無言が続く。
まったく掛けてきておいて何も言わないって、と
言おうとしたら
則 「何がなんだか分からなくてよ」と
弱々しく話始めた。
それまでイライラしてたけど
この一言で今の則さんの置かれた立場を理解した。
「ちゃんと飯食ってます?飲み過ぎたらダメですよ?」
少し強い口調で言う。
そして僕はそれを言いながら
ポロポロと涙が落ちてきた。
則 「ああ、あんまり入らなくてよ・・・」
それから則さんは淡々と話を始めた。
23日からの事。
それから今日までの事。
迷惑かけてる事。
僕は「うんうん」と
まるで子供の話を聞いているように答えるだけだった。
答えながらポロポロと涙を落としていた。
則 「なんか俺、騙されてんじゃねーかな」で
締めくくったので
でも、引き金を引いたのはアナタです。と答えると
何か電話の向こうで状況が変わったのか
また連絡するからと
コチラの返事も聞かずに電話を切った。
元気はなかったけれど
とりあえず生きていたのでホッっとした。
しばらくひとりで放心状態だったけれど
落ち着いてきたら
新しい携帯電話って用意してたのかな、とか
なんか近くに誰かいたよな、とか
色々と勘ぐってしまう僕がいた。
つづく
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12/11
12月28日。
ザウルス倒産報道から4日目。
けたたましく鳴る電話は
落ち着きを見せ始めたが
メールは相変わらず凄い量だった。
その日も朝から返信作業をしていたが
いつもとは少し違っていた。
それまで多かった
苦情、批判や問い合わせは僅かで
再建署名の連絡が多かったのだけど
突然、この日ぐらいから
商品購入のメールが多く入った。
24日から4日間。
倒産関連ばかりで注文はほとんど無かった。
強気で「このまま通常販売を続ける」と言ったものの
まったく売れなかった日が続いたので
どうしたものかと思っていたのも事実だった。
実際、お店の方にも
商品を買いに来てくれる馴染みのお客さんも多かったし
「困っているだろうから、お金をおろして買いに来た」
と言ってくれる方もいた。
ザウルスのスタッフジャンバー、赤ジャンが
どんどん売れていく。
自分も着ているけれど
倒産した会社のロゴが大きくプリントされたものを
普通のケースなら買わないし、もう着ないよね。
あらためてザウルスの人気を知る。
メタルジグやルアーがまとまって購入されていく。
折れたら保証もないロッドが売れていく。
壊れやすいロッドに保証がついていないのは
メーカーとしてどうなんだ。
それを販売することはショップとしてどうなんだ。
それはユーザーのことを思ってない儲け主義でしかない。
その都度、現段階で保証対応はでいないので
保証書は付けることはできないと言うと
保証書は使わないけれど保証書は記念に欲しいと言われる。
ジグやルアーは仕方ないとしても
ロッドの修理対応ぐらいはやれたらいいよな。
そう考えていたら
僕の携帯電話に
知らない番号からかかってきた。
誰だろうととってみると
暗く、沈み込んだ声がした
「則だけど・・・」
僕は一瞬、声が出なかった。
つづく
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12/10
12月27日。
ザウルス倒産報道から3日目。
考えに考えて、そこから更に考えて
僕は単独で
スポーツザウルス再建運動を始めた。
まずは署名運動。
ネット上に署名フォーマットを置いて
それをプリントアウトして頂き
署名して送っていただくというスタイルだった。
お店に多くのお客さんがすぐに来て
署名をしてくれた。
ザウルス商品を使っていない釣り人も来てくれた。
反面、
このことをアップするや
いくつかのお叱りも受けた。
当然だ。
債権者会議も始めってはおらず
借金踏み倒されて、逃げられて
何が再建だ。
その意見は正しい。
また
直接うちに来たクレーム数う以上に
「あの長崎のザウルスはなんなんだ」と
友人や業界の知り合いの元に入っているのが耳に入った。
再建を望む熱いファンも沢山いるけれど
突然の終わらせ方に憤慨している人や企業も多かった。
甘かった。
いつも思い立ったらすぐに行動してしまう性格が
沢山の人や企業に嫌な思いをさせてしまった。
かけている迷惑を謝った。
けれども
債権署名運動は続けた。
これで終わらせれば、これで終わり。
再建できれば
迷惑がかかっている企業にご理解いただいて
今回の債権回収とこれからの売上げと
お金を回していけるようになれる。
そのプランを提示した。
さらに甘かった。
年の瀬に損失がでて
怒り溢れている時に
そんな絵空事
どこの誰だか分からない
長崎の田舎者の話など
誰も聞く耳を与えてくれなかった。
僕はザウルスファンには応援されながらも
釣具業界、ときに制作企業からは
一気に煙たがられる存在となってしまった。
つづく
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12/09
12月26日。
少し余裕ができたので
シベリアでお世話になった
愛知のプロショップのオーナーさんに
今後どうするのかを聞きたくて電話を入れた。
普通であれば
倒産した会社の商品は
早々に値段を安くして売り抜けるに限る。
がしかし
我々はザウルス社に食い込んだショップ。
それなりに強い想いもある。
社長も、営業も、
工場の作り手たちも知っている。
自分たちが信じて売ってきたザウルス商品を
倒産したからと言って
値段を落とすのは辛かった。
このまま通常販売を続けることにした。
それを決めたあとのことだ。
他のザウルス推しのショップの店長から電話が入った。
仲もよくなかったので少々驚いた。
「これからどうするんですか?」と聞かれ
いらぬ世話だと思いながらも
とりあえず先ほど話し合ったことを伝えた。
「分かりました。私もそれに合わせます」
との答えをもらった。
確かにそう言った。
それからまだ入ってくる
苦情や問い合わせに応対しながら夜を迎えた。
友人から電話。
ダイレクトメール会員登録をしているショップから
ザウルス商品ディスカウントのメールが入ったとの連絡。
昼間話し合ったザウルス推しのショップだった。
電話の着信履歴からすぐに電話をかける。
「ザウルスキングの小野山だ」から
怒涛のごとく言葉を発し続けた。
たしかに
商品を仕入れてお金を支払えば
その人の物だから好きにしていいだろう。
しかし
安売りはしないと約束して
舌も乾かぬ間もなく裏で手を返していたことに激怒した。
怒りで電話をもつ手が震えていたのを覚えている。
その店長とは
それから10年後の2013年3月に開催された
KSF 九州ソルトウォーターフェスティバルで
スタッフをしていた僕の前に現れ
「あの時はすみませんでした」と謝ってきたので
僕も右手を出して握手し終わらせた。
手先だけの軽く浅い握手だったけれど
手を合わせた以上、終わらせた。
ザウルス倒産報道から2日目。
励ましやご心配に涙し
人の心に安堵があったり怒りに溢れたり
違った意味の忙しさを感じていた。
つづく
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12/08
とにかく、その年の25日は
パーティー気分がぶっ飛んでしまうほどの凄まじさだった。
励ましや心配の連絡も多かったが
「ザウルス」という名前で連絡がつくのはうちだけなので
知らないユーザーさんやいくつかのショップさんから
えらい剣幕でまくし立てられた。
電話をとるなり
「俺が修理に出しているロッドはどうなるんだ!」
いや、そこは僕に言われても・・・
「オマエ訴えるぞー!」
「弁償しろ!」
ちょっと違うような
釣具屋さんからも
「今後のアフターはどうなるんだ」
「お宅がちゃんとやってくれ」
それも違うような
「うちにザウルスのロッドが○○○本ある
詳細をファックスするから全部買い取ってくれ」
ええええ
電話は鳴りっぱなし
出て謝る。
それの繰り返し。
でも全部受けて立ち続けると決めてたから
全部ちゃんと応対したし
当事者のつもりで謝り続けた。
「ほら見たことか
だいたいお前らのやり方は・・・」
という馬鹿げたクレームなどもあったね。
そのうち債権者の方々からも電話が入るようになる。
ザウルス社から制作を依頼した商品の未払いとか
作っている途中だとか
そういう方々からだった。
ある制作会社からは
「あの社員を連れて出てこい」と
かなりの口調で責められた。
そりゃそうだよね。
年末に予告なしで飛ぶんだから
皆さん血相を変えるに決まっている。
なんで僕が怒鳴られるんだろ?
なんで僕が謝っているんだろ?
一瞬考えたが
そんな暇もなくかかってくる電話やメールに
慣れてくる頃には
やっぱりザウルスって凄いメーカーだったんだ。
強く感じた。
と、同時に
僕は西の果てにある釣具屋、いちショップ。
確かに社長や社員さんたちと仲がいい。
ザウルス社が倒産して
僕に連絡が集中しているって事は
僕が凄いのではなく
ザウルス社とか則さんとかのフンドシで
僕は相撲を取っていたのかな。
そう思うようになった。
その後、もっとそれを感じるようになる。
ザウルスキングのホームページのカウンターは
それまで毎日600件ぐらいだったのが
24日から6000件を超えるようになった。
一瞬、僕もしばらくどこかに飛ぼうかなと思ったけれど
もう後戻りはできない状況まで追い込まれていたのも
確かだった。
つづく
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12/07
それはクリスマスの悪夢だった。
社員さんたちが集められ
則さんから話があったらしい。
らしい。というのは
当然、僕は社員ではないから
聞いた話になる。
泣いている人、肩を落としている人。
いがいと冷めている人。
社員さんの数名から電話で説明を受けた。
則さんの電話はつながらなかった。
確かその当時の年商が10億円ぐらいで
借金が9億円とかいう話だったと記憶しているが
今となっては定かではない。
しかし、その年商と借金のバランスで
倒産するのかな?と疑問には思っていた。
こういう情報が回るのは早いもので
社員さんたちとの電話が終わると
友人や釣り仲間から連絡が入り始めた。
ネットでも倒産情報として上がっていた。
僕はといえば
意外と冷静だったような記憶がある。
だいたいあまり凹む人ではないので
さて、明日から何をすべきか?
それを考えていたんだと思う。
と言いながらも、
明日からする何かは新しい仕事のことではなく
この倒産劇で何をすべきかを考えていたので
未練はあったんだろうな。
とにかく
明日からの忙しさは予測できていたので
クリスマスパーティーの余韻に浸りながら
早めに休んだ。
携帯電話の電源を切って寝たのは
初めてだった。
それは翌朝起きても入れず
店についてイスに座ってから入れようと決めていた。
店に着く。
変わるはずもないのに
なんとなく店が暗く、静かに感じる。
イスに座る。
パソコンの電源を入れる。
携帯電話の電源を入れる。
タメ息まじりの深呼吸をする。
まだ、何をするべきかの答えがないまま
パソコンのメールボックスは延々とメールが入り続けた。
ファックスを見ると着信用紙が長々とつながって出ていた。
とりあえず時間が欲しいので
店の固定電話の受話器は上げっぱなしにした。
パソコンのメールの着信が止まらない。
完全なタメ息をつく。
敗戦処理の投手はこんな気持ちでマウンドに上がるのだろうか。
永く、重い一日が始まった。
つづく
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12/02
2003年の12月
その年は寒かったが
釣りばかりしていた。
闇雲にするのではなく
落ち着いてポイントを読み
何のルアーをどのコースでトレースして
どこで食わせるかを毎投やっていたら
結果がついてきた。
僕は自分自身
釣りがズバ抜けて上手いと思ったことはないけれど
釣るためにはどうするかが
やっと分かってきたような時期だった。
年の瀬も押し迫った12月23日
工場の温排水が流れ込む漁港で
青物が釣れていると聞き
早朝から友人たちとジョンボートを港に降ろした。
エギングをしている釣り人を避けて
対岸に向かう。
護岸の置くから勢いよく流れてくる温排水に向かって
小さなシンキングミノーをキャストすると
すぐに40センチぐらいのヒラアジが釣れた。
同船者にもヒット。
これがなかなか上がってこない。
長い格闘のあと、ついにラインブレイク。
何やら、とんでもないサイズの魚がいるらしい。
となりのジョンボートの友人が
ポップスインガーでポコポコいわせていたら
ズドーーンっと水柱が上がった。
それをみて僕も自分で作った小口のポッパーに換える。
水面を軽やかにチョビッチョビッといわせていると
バシャッっと水面が割れた。
と同時にリールからけたたましくラインが引き出される。
柔らかいシーバスロッドは弧を描き
海面に浮いているジョンボートの向きさえ変えた。
護岸でのラインの根ズレを気にして
強引に寄せると青く銀色に光る長い魚体が上がってきた。
キャッチしたのは70センチのハマチ。
タモ入れした瞬間に歓喜の雄叫びをあげた。
ルアーでの初の青物が
自分で作ったポッパーだったから
それは嬉しかった。
このルアーは
2年後、自社ブランドのCODEより
ペット・チョッパーとして発売した。
ペットのような愛くるしいチョッとだけポッパーという意味だ。
だからその日は上機嫌。
報告するために則さんに電話するも出ない。
次の日はクリスマスイブ。
夜はパーティーの予定があったので
朝からダッチオーブンで鶏の丸焼き作ったり
買い出しに出たりで慌ただしくしていた。
携帯電話にはもの凄い量の着信があったことも
気づかずに。
つづく
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12/01
アムコボックスの件のように
則さんのタックルの話は面白かった。
中でも
バルサファイブローシリーズにある
プロペラ装着モデル、
ホッツィートッツィーやスマートアレック。
これらについているプロペラに刻印してある
「Balsa50」ネーム。
初期のものはブロック体ロゴで
のちに筆記体と変わる。
このことを友達と考察していたら
則さんが横から口を挟んだ。
「そんなんじゃないんだ」
この則さんの「そんなんじゃないんだ」のあとには
いつも重要な話がでてくる。
「俺が飲んでいたらさ
バランタインのボトルのラベルが目に入ったんだよ」
ちょっと遠くを見ながら
こういう話をするので憎たらしくカッコイイ。
バランタイン。
王室御用達のお墨付きを得た
150年の伝統を誇るイギリスの香り高きスコッチだ。
確かにそのラベルのロゴはファイブオーのアレだ。
そんな話を聞かされちゃ
シビレルよね。
なぜホッツィーは3フックから2フックになったのか?
そしてなぜまた3フックに戻ったのか?
これも僕が考察を解いていたら
「そんなんじゃないんだ」
きた!
「あれは丁度オマエ達みたいなのがいてさ・・・」
誰ですか?と聞きたかったが
ちょっと野暮かなと思いとどまった。
他にもHEDDONへの想いや
道具のアレコレを沢山聞いた。
今思うと
時代をリードしてきた、生き抜いてきた人から
直に話を沢山聞けてよかった。
この貴重な時間は
友達関係だからこそ
いつまでも続くものなんだろうな。
そう思っていた。
そして
今日のように
2003年の12月を迎えた。
つづく
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