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10/29
展示会シーズンも終わると
春バスの遠征の準備に入る。
則さんに連絡すると
「俺は今年は行かないよ」とあっさり返答。
こちらも「あっそ」とあっさり返してやった。
「その代わりよ〜」
ん、なんか楽しそうな話かけだ
「その代わり、ロシアには先に入っているからなぁ」
「あとで来いよ〜」
ということは飛行機の関係上
2週間以上はコッピ川に滞在しているってことだ。
この人、やっぱりトラウトが好きなんだ
美人通訳もいるしね・・・。
ということで
その年の春バス遠征は
去年と同じフィールドへ向かいました。
則さんはいないのに
カメラマンは津留崎さんという違った緊張感。
そしてこの時に
同行してきたザウルススタッフに笠井くんがいたのです。
笠井くんはステッピンフラッターの製作者。
ザウルスの工場や則さんのロッジで何回か会ったことはありましたが
じっくり話すのは今回が初めてでした。 なんかウマが合って
毎晩、夜遅くまで寝っ転がって話してたな。
笠井君がステッピンフラッターのウエイト設定の話をするとき
目がマジなんですよ。
それも怖いぐらいにね。
その時の印象が強くて
そこで僕は彼の紹介を「鬼才」としたんですよ。
したと思ってたんですよ。
変換ミスで「奇才」になってたという。
気づいたときにはその「奇才」が浸透していて
まあこっちでもいいか!それもそれっぽい!
ということで訂正はしませんでした。
そのあとも彼との付き合いは変わらず続きます。
釣りという遊びをしていると
永く付き合う友達が突然できます。
この2ヶ月後に行くロシア釣行もそうでした。
もちろん、他の趣味でもできるものなのでしょうけどね。
笠井くんと会った時に生まれた言葉があります。
それからよく使う言葉です。
「大切なのは付き合った時間じゃない、密度だよ」
実に臭い言葉ですが
僕はこの言葉を大きく感じる人生を歩いています。
つづく
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10/28
関東展示会が終わり
日常に戻りました。
関東展示会では業者様だけでなく
一般ユーザーにも対応してましたが
関西、九州展示会では各営業所でやるので
業者様だけの開催になります。
九州は2月の月末
僕は最終日の最後の最後に顔を出しました。
営業所に入ると
疲れきった則さん。
まあしかし、営業所がしっかりニンニク臭いところをみると
焼肉からの飲み過ぎってところでしょう。
僕が行っても
ぐがーっとイビキかいて寝てました。
ウッドのホッツィーの新色、ボーンカラーを見てると
「おのやま、そろそろ行こうか」
突然起きた。
どこに行くかというと
ここ福岡から長崎のザウルスキングに行くと言ってます。
展示会を見に来たっていうか
僕は迎えにきたんです。
車の中がニンニクの香りで充満したまま
佐世保にあるうちの店に着きました。
情報を知った何人かのお客さんが
サインや写真をお願いします。
僕も最初に会った時は
あんなふうにキラキラしてたのかな?
いや、すぐにガツンと落ちたんだった。
そんなこと考えながら
ニヤニヤしていました。
うちの会社の事務の皆さんが
だご汁を作ってくれてたので
店でワイワイだご汁パーティー。
さあ、そろそろ長崎空港に送るかって時に
「佐世保の海が見たぞ」とゴネるものだから
すぐに車に飛び乗って
佐世保名物の九十九島の風景を見せに連れていき
そのまま空港へカッ飛んで送り届けました。
空港の時点では
ニンニク臭もなくなっていましたが
則さんと塚本常務が長崎空港を歩いているのは
なかなか異様な光景でした。
よくよく考えると
九州営業所から福岡空港に行って
すぐに関東に帰れるのに
佐世保経由の長崎空港発って
よく来てくれたもんだ。
今年も良いスタートだ!
と、そのときは思いました。
つづく
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10/27
最大の難関、トークショーが終わると
まるですべてが終わったように
プラプラと歩き回ったり
則さんのデリバリーバンに乗ったりして遊んでいた。
ただの目立ちたがり屋ではない。
ちゃんと意味があったのだ。
千葉で仕事をするのなら
ネット通販をやっている僕としたら
ひょっとしたらお客さんに会えるのではないかと
期待していた。
僕を見つけやすいようにしていたんだ。
結果、
則さんに捕まってしまうというお粗末さ。
「おい、今年はロシア行くぞ!」って話になる。
こうやさんも行かれるらしい。
戻って正影さんと佐藤さんに聞いたが
ふたりとも今年は分からないという
なんとも「行かない」よりの返事であった。
会場真ん中に設置された水槽では
矢木さんがルアーを動かしていた。
覗いてみると
バナナの形をしたルアーで
どちらが前だろ?と思っていたら
長めのスライドバーが付いてる背中が前だった。
結ばれたラインと直角を保つ浮き姿勢なんて
前代未聞だろ!と驚いたのを覚えている。
初日が終わって
関東の友人たちと居酒屋に行ったが
寒さか疲れか、どうも調子が悪く
口数すくなく大人しかったと思う。
釣りをしていたほうが楽しい。
そう思った。
その時はね。
よく
「あの人、釣りjに行ってないでしょ?」
って言われる。
だからなんだと思う。
そういう釣り人は
自分が釣ることぐらいしか考えきれない。
釣りに関わるというのは
なにも魚を釣ることだけではない。
たとえば
釣り雑誌の編集者もそう
忙しくて釣りに行ってられない。
釣り場の環境や魚を守る人がいる。
若い釣り人も育てる人がいる。
みんな釣りに関わっている。
みんな未来を見据えた釣りに関わっている。
その日、イベントの司会をして
人前に出るのが好きとまでは言わないが
人前に出るのは苦ではないので
漠然と、本当に漠然と
そういうプロデューサー的な関わり方をしたいな、
そう思ったんだ。
でもその時は
すぐにでも帰って、釣りをしたかったけどね。
つづく
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10/26
2003年スポーツザウルス展示会が始まりました。
司会はこの僕。
決められていたのは
ある程度の流れだけで
台本があるわけでもありません。
もうこうなれば、やるしかないのです。
各釣りのトーク順番は
ブラックバス部門、トラウト部門、ソルトウォーター部門の順で
僕と各エキスパートの掛け合いでした。
最初に始まったブラックバス部門。
自分が一番やり込んでいる釣りだし
則さんを調子付かせて話をさせるのは得意だったので
問題ないと思っていましたが
始まった途端、
「俺は今日、風邪を引いてて話せないんだ」
と困った則さん。
急遽、呼ばれた林さんを含めて3人でやってると
美味しいところでは声が出る則さん。
まあ、難なくクリア。
次にトラウト部門。
僕と正影さんと佐藤さんの3人。
これは2001年にロシアに行ったメンバーなので
その時の思い出話をもとに
僕がトリアで聞いて感心した話を問いかけました。
正影さんのトラウトに対する思いや
佐藤さんのイチロージャーク開眼までの話。
これはお客様に満足頂いたと思います。
やはり「過去の経験は必ず役にたつ」です。
しっかり手応えを掴んで
いよいよ最後の難関に望みます。
その時の僕といえば
ソルトウォーターの釣りは
河口のシーバスと磯のヒラスズキぐらいで
船からのオフショアフィッシングはやっていませんでした。
そこにきて業界の超大物
チャーマス北村さんとの掛け合いなんて
どうすればいいのか・・・不安しかありません。
しかもお話どころか今回が初対面です。
北村さんと僕がお客さんに向かって座ります。
僕がぎこちなく
北村さんがザウルスカタログで語ってることを持ち出します。
すると北村さんのとんでもないトークが始まりました。
「ああ、俺もさぁブラックバス釣りたまにするんだよ」
そこからどこそこで
こんな釣り方して、あーで、こーで・・・
「シーバスもさぁ、あそこで釣ったのは・・・」
オフショアの話はなく
僕が普段やっている釣りの話ばかりでした。
僕のレベルに合わせてくれてのでしょうけど
お客さんとしては北村さんのオフショアの話を聞きたいわけで
僕は相槌を打ちながら
お客さんの表情をチラチラみてヒヤヒヤしていました。
何回か、オフショアの話を振りましたが
まったく相手にされず
終始、ブラックバス釣りとシーバスの話でした。
最後の最後に
「イソマグロ100kgの夢、期待してます」の言葉にも
「ああ、そんな簡単じゃないんだよなぁ」
いや、その簡単じゃない話を聞きたかったんですよ!
と、まだツッコミも入れれる関係じゃなかったので
グッと飲み込みました。
もう惨敗でした。
三部門のトークショーの閉幕。
どっと疲れました。
しかし、この時
北村さんとの出会いは
のちに僕の支えとなることになります。
そのお話はもう少し先のこと・・・
つづく
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10/23
とうとう2003年を迎えた。
「おまえ、2月の8、9日くるんだろ?」
正月早々に則さんからの電話だ。
2月8、9日は
千葉県木更津のスポーツザウルス敷地内で
関東展示会が開催されることになっていた。
バス、ソルト、トラウト
その年のザウルスの全てを
ここで発表するという。
カタログでお馴染みのテスター陣も勢揃いだ。
「おまえ、ホテル取らなくていいからな、ロッジにくればいい」
僕だって久しぶりに友人たちとゆっくりしたいと伝えると
急に話を変えた。
「司会、頼むぞ」
そうなのだ。
この展示会の司会をやるように言われていたのだ。
当時の僕はバスのことなら話せるけど
ビッグトラウトも一回言っただけ
ソルトも近場のシーバスは話せるけど
オフショアはやったことがない。
普通ならここでモジモジするかもしれないが
ポジティブな僕は楽しそうなので一発快諾をした。
どうにかなるさ。
前日の夜、羽田に降り立つ。
横浜の友人が迎えに来てくれた。
その日は彼の家に泊まって
早朝、海ほたるを走って千葉に入る。
工場地帯にはいると
深いグリーンの壁に恐竜の絵が書かれた社屋が見えた。
このグリーンもこだわってんだろな。
なんて呑気に駐車場に入っていくと
則さんのフォルクスワーゲンのデリバリーバンが止まっている。
やはり雰囲気ある車だ。
赤いスタッフジャンバーを着た社員さんたちが
忙しそうに動いている。
会う人、会う人に挨拶しながら行くものだから
気になる社屋内の会場までなかなかたどり着かない。
そしてガレージの入口にあと一歩のところで
ラスボス登場。
「なんだ来たのか」
則さん、呼びつけたのアナタでしょ。
新しい車買ったから見てみろよって
打ち合わせとかあるんだから。
緑色のダイハツ・ミジェットを指さした。
タイミングよく、今でも付き合いがある社員のOさんに呼ばれる。
社屋のの中にはいると
2003年のタックルがずらりと並び
中でも一番に目を引いたのが
ザウルステスター陣の私物の展示だった。
Oさんから展示会の流れの説明を聞きながらも
それが気になって仕方が無かった。
そして驚いた。
僕は司会進行とだけ思っていたのだけど
バスは則さん
トラウトはロシアに行った正影さんと佐藤さん。
ソルトはあのチャーマス北村さんと
掛け合いで進めてくれという。
こいつは困った。
バスは則さんに話を振ってしゃべらせるとして
トラウトも三人で思い出話から進めればいい。
しかしだ、
大物、チャーマス北村さんとの掛け合いはどうする。
北村さんといえばオフショアで超重鎮。
何を切り出すか・・・
カタログでよく見る文字
「イソマグロ100kgへの挑戦」
これしか思い浮かばなかった。
こいつは困った。
打ち合わせを終えて外に出ると
則さんはラーメン大王のこうやさんと話をしていた。
挨拶すると
「おお、キミか!」
下げてた頭を上げて、ニカッっと笑う
実はこの「おお、キミか」は
ザウルスキングを始めてから
今でもそう
よく人に言われるワードなのだ。
何をどう言われているのか知らないけれど
悪い風には取れないので
僕は結構気に入っている。
ひとつ、ふたつ話したあと
僕の知らない話題が出たので
これ幸いと
気が利くふりをしてその場を離れ
喫煙所で凄いオーラを出していた
正影さんと佐藤さんのところに行き
同世代の三人でグダグダとしていた。
お昼も近くなると
駐車場に車が入りだし
お客さんたちが大勢押しかけてきた。
「お待たせしましたー!」
2003年スポーツザウルスが動き始めた。
つづく
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10/22
この年、年末にむけて
ラージマウス・セラフのオリジナルカラーの設定準備をし始めた。
前年、最初にリリースしたボーンシリーズは400本。
その夏、7月3日にはレッドフロッグが300本
そして2002年の1月7日に
セラフのプラスティック素材の特徴をいかしたクリアボディーに
パロットとチェリーコーチドッグを塗った
アンクルスミスとホッツィーで100本と
どれもすぐに完売していた。
レッドフロッグは
それまでフロッグカラーといえばグリーンベースばかりだったけれど
文字通り、レッドカラー。
その当時はそんなカエルなんてなかった。
余談だけど
のちにガウラクラフトがレッドフロッグを初めて塗るときに
「レッドフロッグをやっていいか?」と、ちゃんと断りの連絡が入った。
もちろん、これに商標や意匠登録をしていた訳ではないので
僕の色目でもなんでもないが
ちゃんと筋を通して来てくれたのがとても嬉しかった。
クリアはあったけれど
クリアをいかしたカラーリングも当時はなかったが
それから見るようになった。
クリアチェリーコーチにそっくりさんも出てきたね。
ラージマウスのセラフに関しては
あとあと揉めそうなので
他のショップさんにも声をかけて
同じ条件で進めさせて欲しいと営業サイドから連絡があったので
もちろん独り占めする気もなかったが
何か、差をつけてやろうと
ネズミだけに革紐で作ったシッポを製作して製品につけることにした。
レッドフロッグとクリアパロットは前作と同じカラーで
レッドヘッドの白い部分が蛍光グローと
ヘドンタイガーのトラ柄を塗い
合計で200本用意した。
シッポ効果もあってか
やはり即完売となった。
その販促効果が伝わったのか
翌年のラージマウスBIGファーフィニッシュには
シッポがつく。
僕にとっては
実釣的にも営業的にも
セラフシリーズには、かなりお世話になったが
年末に来年度のセラフの生産の中止が発表された。
確かに巷の釣具屋さんでは
売れずに残っているのをよく見るようになった。
それはセラフだけでなく
バルサシリーズも見かけるようになっていた
このあたりから
どうも怪しい風が吹き始めることになる。
そして、あの2003年を迎える。
つづく
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10/20
ロシアから帰国した則さんから電話がありました。
「おまえに話すのは気の毒だけどよ〜」
その年のコッピ川は
10年に1度といわれるぐらいの
ビッグラン、多くのサクラマスの遡上があったそうで
大きさも桁外れだったそうだ。
まあ、そんあもんだ。
この頃の僕は朝夕、夜中と
バスやシーバス、とにかく釣りに行ってました。
まるで行けなかったロシア釣行のウップンを晴らすようにね。
スピニングリールを沢山買ったり
ナバロの16フィートカヌーを買ったり
道具もだんだん増えてくる。
「お前のナバロは安定性は良いけど直進性がイマイチだな
俺のオールドタウンは逆だけどな」
則さんとカヌーの話もできるようになった。
ブランクの色に赤や緑のフィリプソンカスタムが登場したのも
この頃でしたね。
グリップのウッド素材は
ギブソンのレスポールなどに使われているカーリーシカモア材だ。
幾らだったかな?7、8万円だったかな?
当時としてはその金額に驚いたけれど
今となっては逆に安かったんじゃないかなと感じる。
9月になると
春の遠征でテストされていたマイティーフラッターが発売された。
やはり製作者やテスト風景などを知っていると
格別の想いがある。
道具というものはまったくもってキリがない。
2002年
この年の9月11日に
アメリカで同時多発テロが起きました。
ニューヨークのワールドトレーディングセンターに
旅客機が突っ込み崩落するシーンをテレビでみてて
こんな映画みたいなことが実際に起きるのだと驚愕した。
実はある意味
この同時多発テロの被害者でもある。
アメリカから仕入れた
則さんと同じタックルボックス
アムコ3060
やっとの思いで手に入れたが
墜落したどれかに乗っていたみたいで
結局手元には届かなかった。
そんな2002年の秋でした。
つづく
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10/19
2002年
この年の春は多忙な日々をこなしていた。
先の遠征が4日間。
その次の週に田辺哲男プロが来られた
ハウステンボス・シーバストーナメント。
その次の日が
佐賀県松浦川で開催された
山根さんが来られた五壱杯と
飛び回っていた。
もちろん、平日はサラリーマンだ。
ゴールデンウィークも明けた頃
とうとう身体が悲鳴を上げた。
体の左半分に発疹がでて
痛くて痛くてたまらなかった。
「ヘルペス」、帯状疱疹になってしまった。
去年、2001年のシベリア釣行で
メーターオーバーのタイメンを釣ることができなかった。
2002年のザウルスカタログで
124センチのタイメンを抱いた正影さんの勇姿が出てるが
僕が帰ったあとの上流でタイメンが沢山釣れたこと。
どうしても、この手で抱きたかった。
だから、去年に続き
ロシア行きを決意して予約を入れていた。
泣く泣く、キャンセルの連絡を
愛知のプロショップのオーナーさんにいれる。
去年、帰ってきてから
毎年、ロシアへ遠征することは
仕事も金銭面も大変ではあったけれど
通いつめて分かること、見えてくることもあるはずと
準備を進めていただけにとても残念だった。
実際、
ロシアから帰ってきてからというもの
80センチを超えるシーバスを
よく釣るようになった。
ネイティブの鱒が沢山いるところで
色んな釣り方が試せた。
川の流れの見方、
ルアーの着水ポイントからトレースのライン。
誘い方に、食わせ方。
数を釣れば
やり取りのスキルだって上がる。
国内でのビッグトラウトの
数少ないチャンスをものにできるように
通いつめようと決めたその最初の年にコケるという。
まさしく僕らしいといえば、らしい。
その旨を則さんに恐る恐る連絡したら
「そんなん大したことねーよ、行くぞ!」
と軽くあしらわれた。
だから行きたいのは山々なんだって
2002年の梅雨は
僕のココロ模様でした。
つづく
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10/15
遠征から帰ってきてからしばらくしたある日
それは注文のメールに混じっていた。
メールを開くと
地元のアングラーからだった。
メールの内容は
千葉県のチェロキーなどが来て
釣りをしていただろ?
ちなみにチェロキーでなくレンジローバーだけどね。
要するに
そこで釣りをするな。
釣りに来るな。
我々は地元の人に酒などをもっていって許しを得てる。
このダムを守っている。
そういった内容だったが
どうしてザウルス社にいうのではなく
うちに長文のメールをよこしてきたのかな。
僕はダムを管理するところや
川を管理する漁協に連絡を入れて調べたが
当時は釣りをしてはいけないという事実も
特定の人だけに権利を与えていることもなかった。
逆に
ブラックバスをガンガン釣って
持って帰ってください。
との事だった。
だから相手にしなかったのだが
僕の話を聞いた血の気の多い連中が
「俺たちが話をつけてきますよ」と相手に会いに行った。
結局、その人は山口ではなく福岡の人だった。
結果、話の内容は覚えていない。
話がついたわけでもなく
相手の車とナンバーぐらいを覚えてたぐらいだ。
それからも幾度かそのダムに釣行した。
ある時
ダムの堰堤からボートを降ろすスロープまで
途中から車一台がギリギリ通る未舗装の
カーブの先が見えない道になるのだが
突然、ボートを牽引したランドクルーザー80が止まっていた。
ナンバーをみて報告があった車とすぐに判った。
そして
立ちションしていた。
キミの釣り場を守っている愛とはそんなものかと失笑した。
そのダムは今でも釣りはしていいみたいだけど
エンジンの使用は禁止になっていると聞いた。
たとえば僕らなら
2、3日はロッジを借りる。
温泉センターも利用する。
食料だってそこで調達するし
船外機や車の燃料だっていれる。
そこにお金を落とすのだ。
ブラックバス釣りを観光資源にする考え方は
本当にいい事だと思う。
水質のことを思えばエンジン禁止にするのも分かる。
でもあの広大なフィールドは
手こぎやモーターだけでは範囲が限られている。
エンジン船でしか行けないあのワンドや岬
ルアーの記憶を忘れたビッグバスや
ルアーを知らないヤンチャなバスが
すくすくと育っているのだろう。
山深く広大なフィールド。
昼間は風が吹くけど
夕方前にピタッと止むんだ。
そうするとそこのバス達が本領を発揮する。
荒々しく野生の姿を見せてくれる。
その谷間の深さゆえ
すぐに暗くなる。
釣り人たちは自分のキャストしたルアーも見えなくなっていくなか
もう少し、もう少しやらせてくれと思うんだ。
とても素敵なダムなんだ。
つづく
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10/15
「な、言っただろ?」
釣ったバスを優しくリリースをして
柔らかい笑顔で僕を見る。
こういう子供っぽいところも
たまに見せるから憎めない。
「さあ、帰るか」
おい!
しかしお腹が空いているからそれもアリだと
ボートを反転させる。
取材を受けるときには
あまり釣行中に物を食べない。
コンビニの白いビニール袋などは乗せない。
まだ明るいうちにスロープへ帰り
片付けをしていると各艇帰ってきた。
僕の大好きなルアー
ダンプティークリンカーの製作者であるYさんも
プロトルアーで50センチアップを釣っていた。
この時のプロトルアーが
のちにマイティーフラッターとして発売された。
かなりハイポテンシャルなダムだとここで認識する。
則さんも機嫌がいい。
移動はなさそうだ。
ロッジに戻り宴の用意をする。
飯を作り、酒を喰らう。
釣れた日の釣り人の話は尽きない。
フォトグラファーの津留崎さんと話していたら
同郷で大学の先輩だった。
「こんなに博多弁を話したのは久しぶりバイ」
すっかり標準語がなくなった津留崎さんだった。
それからというもの
今でも、どこで会っても
「なんばしよっとや?」と切り出してくる
お茶目な大御所である。
2日目も3日目も
お酒を飲みすぎて朝のいい時間帯に出船しなくても
バスはよく釣れた。
夕方だけでもいいのではないか?って思うぐらい
よく釣れ続けた。
4日目には午後から移動なので
則さんを乗せた僕のボートは
午前中に写真撮りだった。
最上流部のクリアウォーターで撮影で
津留崎さんの真骨頂、半水中写真だ。
このショットで
翌年の2003年ザウルスカタログに
僕は載ることができた。
顔半分だけどね。
でも僕にとっては十分。
その時の感動は
今でも薄れることはなく
しっかりと覚えている。
しかし人間というのは欲でできたモノ。
次は釣った魚をもって載りたいなどと
どこまでも想いは果てないものなのだ。
片付けを終え、山を越え
ザウルスチームを空港まで送り届けて
九州へ戻る。
ひとりになった車の中では
上手くいった取材に終始ニヤニヤしていた。
この釣行で事件が起きるとも知らずに・・・
つづく
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10/14
船首が木に差し掛かる。
則さんはテンガロンハットを右手で押さえて下を向く。
突撃。
キキキキキ
船底からきしむ音。
どちらの物かは分からないが
どうやら水面直下にも枝を伸ばしているようだ。
エレクトリックモーターのチカラではボートも前に進まなくなる。
則さんはまだ枝の中でじっとしている。
ちょっと笑いが漏れそうになるが
これだと僕自身に災難が降りかかってくるので
もう一度、モーターのアクセルを最速にいれる。
動かない。
仕方ない。
僕はモーターのアクセルから手を離し
右の枝を右手で手繰り寄せた。
ボートはきしみ音をたてながらも
少しずつ奥へと進む。
近づいた左の枝を空いてる左手で掴む。
後ろに仰け反りながら手繰り寄せる。
キキキ
船首が枝葉のジャングルの中から突き出た。
気を抜けばまた戻される。
僕はもう一度チカラを入れて寄せたあと
両手を一度離してもっと奥の枝を掴み
仰け反った。
則さんがジャングルから出た。
と同時にロッドをもって立ち上がる則さん。
僕は枝葉のジャングルの真っ只中。
則さんが後ろを振り返って
コソコソ声で伝えてきた。
「居る、居るぞ」
枝葉の中から狙っているポイントを覗く。
ここでは流れ込みの川幅は2メートルぐらいだが
木々を越えたあたりからV字にぐっと狭くなっていた。
それでも奥行は7、8メートルはあるようだ。
木々やその枝のせいで溜まったのだろう
水面は落ち葉で覆いつくされ
魚にとっては絶好のシェルターが構築されていた。
「もうちょっと奥だ」
歯を食いしばり鬼のような形相をした僕は
もう一度、チカラを入れるが
そこからボートはまったく動かなかった。
「待ってろよ」
「このまま?」
後ろにある僕が入っている木々を気にしながら
立ったまま変なキャストをした。
ヒックリージョーはすぐに失速して2メートルも飛ばずに
着水、いや落ちた。
首をかしげながら
静かにゆっくり回収。
もう一度、変なキャスト。
今度は5メートルは飛んで静かに落ちた。
ヒックリーのラバーレッグをヒクヒクと動かすと
落ち葉に覆われていた水面が割れた。
ドンッ!
則さんのロッドが天を指す。
しかし先端は綺麗に水面に向かっている。
キキキ!
手づかみで固定しているボートが左右に揺れる。
キュルルル!
いつものやりとりよりハンドルを回すスピードが早い。
それもそうだ。
これだけの場所だから水中には障害物だらけだ。
バババババ!
ブラックバスが水面で暴れる。
ギギギギ!
ボートを安定させるため歯を食いしばる。
勝負は一瞬だった。
釣り人の肉太い手は
バスの下顎をがっつり掴んだ。
それと同時に辺はまた静けさを取り戻した。
僕はジャングルの中で
則さんの荒々しい息遣いだけを聞いていた。
森独特の静寂の中、
僕は両手を離した。
と同時に、ボートはゆっくりと出口へと流されていく。
則さんがジャングルの中に入る。
あ!
と思ったが今度はしっかりとバスの下顎を掴んで離さなかった。
美しい体高をもった50センチのブラックバス。
産卵を意識している頃か
お腹はでっぷりと大きかった。
カメラ艇が寄ってきて撮影が始まる。
あの最後のカタログ
翌年の2003年スポーツザウルスの表紙になったショットだ。
つづく
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10/13
その山口県にある山奥のダムは
2本の大きな川を塞き止めて作ってあって
その合流点にボートスロープがある。
各艇、スロットルを開けながら左右に散っていく。
則さんをフロントシートに乗せ
僕は舵を右へきった。
右からくる川のほうが起伏に富んでいて大きかったからだ。
後ろには津留崎さんを乗せた取材艇が続く。
風が湖面を波だて日もまだまだ高かったので
風裏のシェード絡みにポイントを絞って狙っていく。
いくつかポイントを回って魚の反応はなかった。
すると則さんがダーターでボコボコ言わせながら
僕に聞く。
「おい、去年のダムまでどれぐらいで移動できる?」
いやいや
いま、4艇を出したばかりだから
移動なんてとんでもない。
だから僕はぶっきらぼうに答えた。
「たくさん」
それは時間と苦労のどちらの言葉にもかかっていた。
もちろん返事はない。
本流を進んでいれば見逃しそうな小さなワンドを見つけた。
同時に則さんが指差す。
分かってますよ、と言わんばかりに急なターンをして
ワンドの入口に入った。
ワンドに入ったとたん
それまで耳をつんざいていた風の音が消えた。
この下には昔の集落が沈んでいるのだろう。
岬の先には古い木製の電信柱が立っていた。
集落があるということは
必ず生きた水源があるハズだ。
期待を胸にボートを奥へと進めていく。
左からせり出した大きな木を避けると
急にV字型に狭くなっていった。
次に現れたのは両サイドから中央に伸びる木々。
完全にボートの侵入を阻止する位置だ。
やはりだった。
その木の奥でさわさわと水が流れ込む音がしている。
さきほどまで勢力を誇っていた風も日差しも遮られ
ひとりなら心細くなりそうな
うっそうとした雰囲気をかもしだしていた。
則さんはヒックリージョーがセットしてあるタックルに持ち替え
木と木の中央に割っていれた。
ひくひくと静かに悶えさせていたヒックリーの下から
突然、水面が割れた。
「よし!」
と言ったのは僕の方だった。
これで移動はないな。
しかし、よく引いている魚だ。
上がってきたのは50センチにわずかに満たない
体高があるグッドコンディションのバスだった。
取材艇から声がかかる。
「もう少し後ろで撮影しましょう!」
「あいよ」と余裕の則さんの言葉で
僕もモーターのレバ−をリバースにいれる。
余裕の顔は一瞬で終わった。
ヒックリーを丸呑みしたバスは余力を残していた。
反転一発でフックアウト。
「おい、外れちゃったよ」
ヤバイ、また怒られる。
則さんはどんっとシートに腰を降ろし
さらに奥へ行けと言わんばかりに
視線はそこから動かなかった。
要するに
あの左右から張り出した木々の真ん中へ進めということだ。
僕は自分のタックルをすべてボートの内側にしまいこんで
流れ込む音だけがする
暗い暗い沢の奥へとボートを進める。
つづく
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10/12
2002年になり
また春のザウルス釣行で
九州を起点に動く。
今回は
山口県にあるダム湖に行くことになった。
瀬戸内海側にある山口の空港にザウルス一行を迎えに行く。
僕が乗ってきたボルボ240の助手席に乗り込んですぐ
「懐かしいなぁ、俺もこれに乗ってたよ」
則さんは車が好きだ。
その時、ボルボのワゴンも持ってたけど
240のほうが美しいと言っていた。
僕は憧れの人と会うことになる。
写真家の津留崎健さんだ。
以前から津留崎さんの写真が好きだった。
挨拶したときに
「ウォーターゲームス、持ってます」と言うと
「ああ、ありがとう」とクールな応対は
そういうヤツ、どこにでも居るよね
みたい感じにとれた。
ん〜クリエーターの人は難しいなぁ
それが最初の印象だった。
買い出しを済ませ
山をいくつも越え
ダムの下流にあるロッジに入る。
自炊ができて、しかも温泉つきという
快適なレンタルロッジだ。
日暮れまではまだ十分時間がある。
それぞれがタックルの準備や
夕飯の仕込みに動く。
遊び上手な男たちばかりなので
するすると片付いていく。
車4台に便乗して
ボートと釣り道具だけを乗せてsロッジを後にした。
ダムの堰堤からボートを出すスロープまで
途中から車一台がやっと走れる未舗装の道になる。
カーブの先も見えない。
時々、ボディーに枝があたる。
やっとの思い出広い駐車場に出る。
これから朝夕と2往復しなきゃいけない。
そこからさらにボートやエンジン、バッテリーなど
担いで湖面へと降りていく。
4輪駆動車がいるよなと
ブツブツと言いながら降りていく。
僕は取材艇にと
ひとまわり大きなボートに買い換えたから
これがまた一苦労だった。
ボートの準備を終え
古いエンジンの機嫌を伺っていると
則さんがブーツについた泥も落とさずにドカドカと乗ってきた。
「さあ行こうか」
そのいつもの合図で
春のデカバス狙いの釣りが始まった。
つづく
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10/09
11月になり翌月の入荷情報をアップする。
いよいよ10周年記念ルアーが登場だ。
同時に記念ジッポーラーターも企画された。
発案から携わっていただけに
しっかり売ってやろうと予約を開始した。
一週間も経たずに150セットの注文が入り
大丈夫かと九州営業所に連絡をいれた。
数日後、返答があった。
予約を一時中止してくれと。
あまりの反響に全国に行き渡るのかという判断だった。
僕はこの判断にしたがったフリをして
裏では予約を取り続けた。
結果、12月の入荷時に
とんでもない量の荷物が届く。
そこから2日かけて10周年記念ルアーを全国へ出荷した。
実jに300セット。ほとんどが予約ではけた。
この頃にもなると
この街の運送魚社間では噂になっていた。
月に一度、佐世保市に本社をおく
超有名テレビショッピング社の出荷数を抜く小さな釣具屋があると。
また、そこの荷物は1個あたりとても小さいく
大型家電などではないので楽だと。
運送業社間でうちの取り合いのケンカもあった。
そんなことだから
送料の値引きやら、梱包素材の無料提供など
とても優遇されたのだ。
それともうひとつ。
ザウルス社からの提案があった。
ロッドやジグ、ルアーなどを
委託で置いてもらえるようになり
あっという間にもの凄い釣具屋となりつつあった。
2001年はこうして上り調子で幕を閉じた。
つづく
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10/08
準備は整った。
10月27、28日と2日間に渡って開催する
50ミーティングin九州。
2日間だから川原でそのままキャンプの予定だ。
その前日からバスワールド誌の取材で
熊本のクリークに入る。
そこでは10周年記念ルアーのプロトが持ち込まれた。
キャンプセットにボートを含む釣りセットにと
僕のランドクルーザー100は満タンだ。
その年のザウルスカタログに
勇姿が載った熊本の友人の案内でクリークを攻めるも
僕は冬ごもり前の雷魚の猛攻に合い
ブラックバスの顔は見れなかった。
しかし熊本ラーメンが美味かったので良しとした。
釣りを終え福岡に戻り
もつ鍋屋に入る。
そこは有名人が集まるお店で
壁には芸能人の写真が沢山貼ってある。
釣り雑誌だけど、一応、取材。
食べてる姿をライターさんがごっついカメラで撮るものだから
お店の人が芸能人かなんかと間違えて
カメラをもって飛んできた。
違います、違います。と丁重にお断りをしたが
今、思えば
写真を貼ってもらっておけば
いい笑い話のネタになったかな。
そのまま夜通し北九州に走り
会場となる河川敷で夜を明かした。
朝になり、ザウルスの営業の方々も到着して
設営の準備にとりかかる。
宣伝が効いているのか
お昼の開催なのにお客さんは早くから集まり始め
則さんと
「ブラックバス釣りの楽しみ方」の共同著者、山田周治さんも到着した。
会場には、といってもタープの下だけどね
今回の10周年記念ルアーセットをはじめ
ザウルスタックルや則さんの私物の展示も行われた。
則さんにあれやらこれやら言われたけど
今回は一般ユーザーさんに接してもらうために
少し離れていたけれど
ふと則さんのタックルボックスをみると
ネズミ型ルアーのラージマウスビッグのボディーに
ミッキーマウスと蜂柄にペイントされているのを見つけて
「コレ、使っていい?」と言ったら
「笠井が塗ってくれたんだぞー」ってダダこねた。
ミッキーマウスは気に入っていたらしいから
蜂柄を持ち出して
僕らは遠賀川にボートを出し取材の続きをこなした。
夜はタープにランタンの灯りの下でBBQ。
途中から降り出した雨も気にせずに
遅くまで宴は続いた。
この騒ぎができるのも河川敷ならではだ。
いがいと雨風が強くなってきたので
僕は車の中に入り
車を叩く雨音を子守唄にそのまま寝てしまった。
夜半にボートが流されて
雨の中、搜索にいくというアクシデントもあり
寝不足のまま朝を迎える。
朝になると夜中に降り続いた雨はあがり
イベントは2日目を無事に終了した。
その日、
広島から車を飛ばしてきたザウルスファンの方がいた。
彼はホッツィートッツィーの
たしかイエローコーチカラーだったと思うが
それに僕のサインをしてくれと差し出した。
ためらった。
そのホッツィーは生産数が少ない2フッカーだったのだ。
通常のホッツィー・オリジナルサイズのフックは
3本ついているのだけど
その昔、僅かな時期だけ2本だったことがある。
そのことを則さんにいつか聞いたことがあるんだけど
「ああ、オマエみたいなのが居てさ
2本にしたらどうでしょう?って言うからやってみた時があったな」
ということらしい。
それともうひとつ
2フッカーという名称は正式にはない。
あれは僕が擬人化して勝手に呼んでいたもので
それが広まったに過ぎないのだ。
則さんはそれをいつも不思議がっていた。
他にも
「オリオリってなんだ?」ってよく言ってたな。
それは誰が最初に言ったかは分からないけど
コレクターの間で通じやすい言葉が
一般的になった例なんだろう。
「あ〜あ、価値が無くなった」
周りから茶化されながらもサインをして握手する。
その広島から来た人は
今でも良い友人だし
ちょくちょく会ってもいる。
ルアーで繋がる縁
そういうのもこの釣りの魅力のひとつである。
沢山の笑顔や新しい出会いがあり
実り多き慌ただしい秋の週末だった。
つづく
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10/07
夏も盛期を迎えた頃
去年の年末に提案した
スポーツザウルス10周年記念ルアーの詳細が
本決まりとなった。
春頃から逐一、
決まったことや相談を営業のほうから受けていたが
ここに来て
ルアー3機種をホワイトコーチカラー。
そして最後まで決まらずにいた
出目バージョンでということで決まった。
もちろんこの時点ではシークレット。
アナウンスだけをして期待は膨らむことになる。
この頃になると
雑誌の原稿書きの仕事を
ちょくちょくと頂けるようになって
パソコンとニラメッコする時間が増えていった。
自分でも言うのも妙だけでど
原稿書きという仕事は
自分に合っているのではと感じていた。
いままで色んな仕事をしてきたけれど
この原稿書きは楽しかった。
則さんと出会う前、
僕が尊敬する人は
手塚治虫と開高健で
とくに釣りを覚えたての頃から開高さんの本を読みあさっていた。
世界中を釣りして
そのことを文章にし
飯が食えたらいいな。
そう思っていた。
僕が25歳だったか
駅の電光掲示板で開高さんが亡くなったことを知ったとき
「釣って文を書く」と
強く思ったのを思い出した。
規模は小さいけれど
同じようなことができた。
こうやって目標を達成できたことは
これまで、そしてこれからも
僕自身の原動力だ。
僕が寄稿した雑誌が出ると
いつも則さんが電話をかけてきてくれた。
僕の文章の内容や書き方には一切触れずに
たわいもない話題を話してきて
電話を切る直前に
「そういえば読んだぞ、じゃあな」で終わる。
おまえのやりたいようにやれ
そういう事だろう。
それ以降も一切触れられたことはなかった。
今思えば
何かしらでも言ってもらいたかった。
そう思う。
秋も深まり
10月末に福岡の遠賀川で開催される
ザウルス、50ミーティングの準備を始める。
記録を見返すと
提案者ということになっているが
そのあたりを僕はあまり覚えていない。
とにかく毎日必死だったんだろう。
つづく
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10/06
日本に帰ってきて
7月が始まった。
土産話というか
当然のことながらその月のホットラインは
ロシアのトラウトの話ばかりだった。
しかしその割にはデスクの周りには
バス用の道具が散乱していた。
その月の20日
生まれて初めて池原ダムに行くからだ。
池原ダムは奈良県の山奥にある
アーチ式の巨大なコンクリートダムで
数々のレコードフィッシュが釣れ
ブラックバス釣りの聖地と呼ばれていた。
ここで友の会の関西の人たちが
集会を開くというのでお邪魔させていただいた。
海に浮かぶ関西空港から
山道を延々と走り抜け
ダムの巨大な堰堤を見せつけられた時には
言葉が出なかった。
人間が作る巨大な建造物というのは
いつも圧倒されるが
そこに憧れや思い入れがあれば尚更だ。
まだ日は明るい。
70馬力のボートを貸してもらい
最上流を目指した。
どこまでもつづく岩盤
森の中を縫うように支流のひとつを登っていくと
突然、巨大な要塞のような人工物が現れる。
坂本ダム。
川幅の狭い切り立った岩盤をせき止めているから
堰堤というかビルのようだ。
このコンクリートの向こうには
満々と水が溜まっていると思うと
恐怖さえ感じてしまう。
たぶん、そんなに滞在しなくて
そそくさとエンジンに火を入れて下ったと思う。
釣りはそこそこにロッジへと向かう。
ザウルス好きの集まりだから
ロッジには何十本というザウルスロッドが並ぶ。
何百というファイブオールアーが揃う。
関西のみなさんのおもてなしは凄かった。
これだけの人数の晩御飯を用意するのだから
大変な労力だっただろう。
僕は相変わらず酔っ払ってグダグダしてるだけだった。
20日ぶりに会った則さんとも
ロシアの件でギクシャクすることなく
池原の番人、浜松さんとも初対面だったが
気さくに接してもらって
素敵な夜を過ごせた。
釣果といえば
バシュッと元気よく出たが
ラインが足に絡んでいて、
そのまま足を蹴り上げて針がかりをさせたけど
船べりで逃げられた小さなバスの顔を見ただけだった。
なんというか、気持ちがふわーっとなる。
あの聖なる池原ダムの水と戯れたことは
とても素敵な時間だった。
その数年後
雑誌の取材で再訪したけれど
大きな自然にどっぷりと浸かるのはとても気持ちがいい。
また行きたい。
そう思わせるダムなんだ。
つづく
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10/05
中流のロッジについて一休みもそこそこに
1週間組みは帰りの身支度を始める。
プロショップのオーナーさんとそのお客さん2名と
そして僕の4人はココでコッピ川を離れることになる。
則さんをはじめ正影さん、佐藤さん、廣瀬さんは10日組で
カメラマンを連れてさらなる上流を目指す。
ガイドのマリオの運転する車に4人は乗り込み
針葉樹以外何もない未舗装の道路を
国内線で降り立ったソフガバニの空港を目指す。
来た時にヘリで飛んできた行程だ。
延々と続くダート道。
車中は3人の思い出話で盛り上がる。
僕はひとり頷くだけ。
お客さんふたりと仲が悪かったわけではないけれど
オーナーさんの手前、遠慮していたのもあるし
なにより先ほどの則さんとの事を引きずっていたのもある。
ちゃんとした別れの挨拶もしていない。
大きな原生林の中を走る、小さなココロ。
空港までの未舗装の道路を4時間。
4日間、大自然の中で釣りをしていた僕には
なかなかの試練だったが
これでは終わらなかった。
夕方にソフガバニの空港に到着。
先に空港に入っていたガイドが戻ってきた。
異様な雰囲気はすぐに判った。
「今日は天気が悪いから飛行機が飛びません」
ざわざわとするが悩んでいる時間はない。
明日のお昼にはハバロフスクの空港から
日本に帰る飛行機が飛び立つ。
ガイドたちが出した
ハバロフスクに戻るルートはふたつ。
シベリア鉄道か車をチャーターするか、だ。
街に戻って駅に行くと
いったい何両つないでいるのだってぐらいの
深い緑色の列車が停車していた。
憧れのシベリア鉄道である。
しかし調べるとハバロフスク駅に到着するのが明日のお昼頃。
飛行機に間に合わない可能性がある。
この素敵な案は音を立てて崩れていった。
車をチャーターしてもらう。
ここから夜通し走ったら明朝には着くらしい。
世話になったガイドのマリオに別れを告げて
また車である。
そして、
また未舗装の道路である。
未舗装の道路を4時間走破後に
飛行機で1時間半飛んでホテルでシャワーを浴びる予定が
未舗装の道路を4時間
そしてまた未舗装の道路をさらに12時間走ることになった。
さすがにもう話すこともなく
周りの景色すら見えないので車中は静かなものだった。
チャーターした車なのに
一番後ろに知らない女性が寝ていたのも気にならないぐらい
疲れていたし、これからさらに疲れるのも分かっていたからだ。
合計16時間の未舗装道路をこなし
早朝、ハバロフスクに着く。
日常なら山や海、川や湖が美しく思えるのに
冷たく立ち並ぶコンクリートの建物や
朝のラッシュの車の多さ。
けたたましく鳴るクラクションに
仕事へ向かう人たちの足音。
そこに落ち着きを感じた。
この時ばかりは街が美しく思えた。
街の雑踏をかき分けホテルに入る。
初日を同じくホテルはふたり部屋だ。
お客さんふたりだから、そうだよね。
プロショップのオーナーさんと同じ部屋だよな。
さてさて、どう接するか。何を話か。
あれこれと考えながら部屋に入ったが
ふたりともそのままベッドに倒れ込んだ。
ほんの僅かな仮眠のあと
遅い朝食を済ませてハバロフスクの国際空港へ向かう。
ソフガバニ以降は僕ら以外の日本人なんて会うことは無かったが
徐々に日本人の顔を見るたびに
その割合分だけ現実に返ってきている気になる。
発着ロビーでは釣り人らしき人が
赤いザウルスのジャンバーを着ていた僕に声をかけてきた。
「ザウルスさんですか?」
「則さんいるんですか?」
則さんはまだ川に残っていると言うと
とても残念そうだった。
彼らが入った他の川の釣果を聞くとサッパリだったらしい。
あらためてコッピ川の威力を思い知る。
ハバロフスクから新潟への国際線も
お世辞にも良い飛行機とは言えないが
16時間も未舗装の道路を走ってきた僕には
さほど問題ではなかった。
やはり何事にも「経験」というものは
その時の結果がどうであれ
役に立つものだ。
福岡への直行便がなかったため
一度、名古屋に行きそこで乗り換える。
そこまでプロショップのオーナーさんと一緒だった。
最後の最後まで、ぎこちなかったけど
別れ際に「またね」と言われて
右手を差し伸べられた時はとても嬉しくて
親指をぎゅっと奥まで入れて握手を交わしてもらった。
ザウルスショップの先輩として
面識ができたことは今回の釣行の一番の収穫だったかもしれない。
そんなに好かれてなくてもそれで良い。
そう思って福岡への機上の人となった。
地元に帰りタックルの整理もほどほどに
次の日から仕事に戻る。
九州独特の梅雨の湿気と戦っているとき
コッピ川ではメーターオーバーのタイメンが連発していた。
翌年、2002年のザウルスのカタログの
最初の見開きに124センチのタイメンを抱く正影さんの写真。
僕が掴みそこねた夢がそこにある。
北緯48.5度、東経139度
シベリア大陸の東海岸、間宮海峡に注ぐコッピ川
流域には、ほとんど住む人間もなく、
手つかずの原生林から流れ込む水は澄みきって、豊かだ
オホーツクの海から帰ってきた、無垢の野生のサクラマス達は
人間を知らない、恐れを知らない
日本で身に付けた 流れのミノーの魔性のダンスに
何の疑いもなく 次々と 激しく襲いかかる
しかもその一匹一匹が とほうもなく幅広く
厚い体にとほうもない力を秘めているのだ
則 弘祐 「トップウォータープラッガー 3 in Koppi River,Siberia」 より
つづく
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10/02
何も怒られたから涙がでた訳ではない。
ブラックバスのトップウォーターフィッシングを
友人に教えてもらったとき
バルサ50というルアーがあって
則さんという人がいて・・・
そこから始めたのだから
僕の釣り人生はアナタにあったんですよ。
ベイトキャスティングリールというモノを使って
毎回ライントラブルを起こして釣りにならなくて
それでも練習して通いつめて
初めてブラックバスを釣ったんですよ。
初めてABUアンバサダー5500Cを手に入れたとき
則さんと一緒のリールだと大喜びしたんですよ。
長い年月を経て
アナタの背中を追ってこのロシアの地について来たんですよ。
「だからバスマンはダメなんだよ!」
この言葉は僕には辛かった。
今すぐ首にかけているこの則さんのニコンを
川の中央に投げ込んで沈めてやろうと思って首から外した。
できなかった。
そっと則さんのバッグの上に置く。
カメラを捨てなかったおかげで
その中の写真の一枚が
翌年のザウルスのカタログに載っている。
とりあえず魚にピントは合っていたようだ。
その後ろにいる則さんの目は
今でも見たくはない。
みんなボートに戻ってきた。
背中に則さんが乗り込む気配を感じていたが
僕は何もすることなく前を向いていた。
2艇のボートが併走して上流へ向かう時点で
この釣りが終わりに近づいていることを悟った。
前方に他のボートが集まっている。
左岸の内カーブの頭、
そこに広がる浅瀬にボートを寄せる。
プロショップのお客さんが
グッドサイズのイトウを抱いていた。
僕はみんなの輪から外れたところで
その羨ましい光景を見ていた。
満ち足りた歓喜の声に
花を添える祝福の声々。
その中のひとつの声に
「このサイズならペアリングしてるだろうな」
その声を聞き逃さなかった。
そうだ。
僕の諦めの悪さは超がつく一級品なのだ。
ボートからタックルを取り出し
川へ入った。
幾度も丁寧に攻めたが
魚からの便りはなかった。
諦めの悪さも
結果を出さなければ
ただの悪あがきである。
全員ボートに乗り込んで聞こえた言葉
「一気に行こう」で
この釣りが終わったということだ。
走るボート。
「おのやまー!」
後ろから声がかかる。
返事もせず
テンガロンハットを右手で抑えて
身体はそのままで横を向き
左耳だけを声のしたほうに向ける。
「うちのビデオで山火事の話をしただろ?、ココだ。」
ボートに乗ってそれまで船首しか見てなかった僕は
その体勢のまま左岸の森に目をやった。
黒い森。
そこは初夏の緑の葉を持たない黒く焦げた白樺の森だった。 大小の動物や昆虫さえの気配もなく
何百、何千もの黒い柱が空を差してまだ立ち続けていた。
だけど
その炭になった白樺の根元をみると
シダ類が幅をきかせて生き生きと広がっていた。
3年前の山火事から
何十年、何百年かけて
森は再生する。
そのチカラ強い緑色を
僕は忘れることはないだろう。
つづく
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10/01
「おのやまーーー!」
駆け寄った僕に見向きもしない。
それもそうだ
釣り糸はまっすぐ倒木の下へと向かっている。
呼びつけたものの相手にする余裕はないだろう。
倒木を交わして魚が一度、水面を割る。
でかい!デカいぞ!
しかも、なんとなく赤い。
そいつは2度ほど水面を叩いたあと
ふっとチカラを抜いた。
うまいこと手前の浅瀬に誘導する。
そして一発でネットイン。
と同時に則さんは
「ふんがっ!」って言った。
デカいオスのサクラマスだった。
体は婚姻色に覆われ
産卵を控えたメスのサクラマスなら
私に私にと寄ってきそうな立派なサクラマスだった。
水たまりのような浅瀬にネットに入れたまま
しばしその立派な魚を眺めていた。
「おい、おのやま」
ん?
「カメラマン呼んできてくれ」
はい?
呼んできてくれってアナタ
ここをどこだと・・・
ぶつぶつ言いながら自分のタックルもそのままだったので
本流の方に行きカメラマンがその辺にいないか見にでた。
いるわけないけどね。
まるで子供のお使いのように
「いませんでした」と報告する。
魚をみると荒々しいファイトの跡が見て取れた。
繁殖のために遡上してきた傷もあるだろうが
カラダは釣り糸による摩擦傷がついていたし
口をパクパクさせて酸素不足を訴えていた。
なにより、
眼光が弱っていた。
魚の写真で一番大事なのは「目」だ。
釣り上げてすぐの魚の眼光はまだ
「この野郎!放しやがれ!」という目をしているが
そこから魚の目は死に向かっていく。
この魚はもう先がない。
そう思ったときに則さんもそれを感じたんだろう。
「俺のカメラで撮るから、オマエ生かせてろ」
そう言って魚が入ったネットとタックルを僕に渡し
浅瀬から支流の流れの中で復活させろ、と
なかなかのご注文を残して
カメラを取りにボートへ歩いて行った。
流れのない浅瀬は水中酸素が少ない。
流れのある川に腰まで浸かって
雪解け水の冷たさを無視して両手で魚を抱く。
上流に頭を向けてエラに水を通す。
ビクッっと尾びれが動いたけれど
眼光は戻らない。
戻ってきた則さんが最初に立てた音が
「ちっ」
僕は魚を抱えた両腕を水につけたまま
どうして舌打ち?とばかり顔を上げた。
「なんだ弱ってんじゃないか!」
はあ?っと腹の底で大きく叫ぶ。
「まったく、こんな事もできないのか!」
腹の底で増幅された言葉は
そこから胃と食道を電光石火で駆け抜けて
口から打ち上げ花火のように飛び出した。
「はあああ?」
その言葉と反抗的な目がよくなかったのか
則さんと過ごした日々の中で
一番最悪な言葉を打ち付けられた。
「だからバスマンはダメなんだよ!」
僕は立ち上がり
抱いている弱りきった魚を川へ投げ放とうとしたが
もう一度川に腰を下ろした。
この言葉を言われたことは
今日に至るまで親しい友人の数名にしか話したことがない。
アナタを崇拝しているバスマンはどれだけいますか?
逆に
僕が魚を復活させきれなかったから
僕のせいでバスマン全員が罵倒されたのか?
確かに一時期バスから離れていた原因は
バスマンのマナーが原因のひとつだったかもしれないが
この言葉は僕にはキツイものだった。
どちらにしても
秒単位でも時間がたつにつれて
怒りよりも情けなさや悲しみのほうが勝っていった。
「まあいい」
全然良くない
「おい、おまえが写真を撮れよ」
と渡されたカメラがニコンの一眼レフ。
もちろんフルオートのデジタルではなく
フィルムを使うマニュアルものだ。
こんなの使ったこともないけど
もう「できません」は絶対に言いたくなかった。
あの言葉がもう一度出たら
僕は自分を抑えきれないと思ったからだ。
シャッター押しまくって
ちゃんと判ったフリして撮って
日本に帰ってちゃんと写ってなかったら
とんづら決めますか。
カメラを構える。
「おい、もっと寄れよ」
寄る。
「レンズ動かしてよー!魚にピント合わせてよー!」
半円が上下にズレててそれが合うだろー?」
返事もせずに言われた通りにする。
「ほら、どうした、押せよ!」
返事もせずにもくもくとシャッターを切る。
「おお、則さんやったじゃん!」
ビクッとして振り向くと
プロショップのオーナーさんだった。
ボートが来たことに全然気づかなった。
でも来て頂いてよかった。
ふたりっきりなんていつまで持つか分からない。
僕は賑やかな輪から外れて
ボートに乗り込んだ。
それが相当な雰囲気だったのか
プロショップのオーナーさんが僕のところに
輪から外れて寄ってきた。
「則さんにやられたか?」
僕は軽く頷いただけ。
「大丈夫さ、みんな一度はやられるんだ」
僕はテンガロンハットを深くかぶり
頷いた顔を上げなかった。
上げることができない理由が頬にあったからだ。
つづく
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