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9/30
「明日はオレとやろうな」
こういう時の則さんは
本当に優しい顔をする。
一日の終わりをそれで過ごせたから
翌朝の目覚めもいい。
「さあ、行こうか」
朝焼けで赤く染まった桟橋からボートが離れる。
帰り際に釣りをしながら帰ってくるので
ロッジの近場のポイントに誰も見向きもしない。
僕としては
オリエンタルな顔になろうとも
二日目の夕方、佐藤さんと攻めた止水域が気になるところだが
そちらに舵を切るガイドは誰もいない。
いつか、ここだけのポイントで
フルにイトウだけを狙ってみたいなと
思いだけを残して上流を目指す。
30分は走っただろうか。
開けた河原があるポイントにボートは腹をつける。
僕はタックルを手に飛び降り船が揺れないように押さえる。
「やっていいぞ」
則さんは降りない。
僕がボートから下流にキャストしながら下っていくのを
ずっと見ている。
3日間どれだけのことを学んだか見ているようだ。
どちらかというと
廣瀬さんのスタイルで丁寧に攻めていたと思う。
則さんは見ているだけで何も言わない。
ということは及第点はとっているのだろう。
今朝の魚のご機嫌はあまりよろしくなく
ひとつ目のポイントではアタリすらもなかった。
ガイドに呼ばれボートに乗る。
わずかに上流に上がっただけで釣りを始める。
景色は変わらない。
よほどココのポイントに自信があるのだだろう。
今度は則さんも降り釣りを始める。
ザブザブと品のない音をたてて川に入るも
ひと度、釣りを始めると
しなやかな美しいキャストをする。
トゥイッチの入れ方も滑らかだ。
ピシッ!とロッドが立った。
それはまるで日常の出来事のように
スムーズに魚を寄せる。
リールの巻もゆっくりだ。
魚と会話しているかのように。
本日一本目の魚は
ネットに入った。
そして、僕が見ていたのを知っていたように振り向き
「な、言っただろ?」
なんにも言ってはいなかったはずだけどね。
ゆくゆくはこんなオジサンになりたいものだと
関心しながら、とりあえず頷いた。
釣り好きたちと外国の川に滞在して4日目ともなると
河原のランチタイムも随分とダラけて賑やかになる。
その中にも溶け込んではいたが
ひとりだけ、ただひとりだけ
愛知のプロショップのオーナーさんとは
まだ話ができなかった。
ピリピリするのも嫌なので
即即と用意されたランチを頬張り
目の前の川でロッドを振っていた。
午後からも上流へ向かう。
今日は河口にあるいつものロッジでなく
中流のロッジに入る予定だ。
いくつかのポイントを回ったあと
本流がいくつもの流れに別れる場所についた。
上流に向かって右はフラットな河原が続き
左には倒木やブッシュが川面を覆っていた。
ブラックバス釣りをやっていると
どうしても左の込み入ったポイントに目が行くが
でかいイトウを釣りたい僕は
本流を狙うためにど真ん中をトレースした。
後ろをみると則さんは倒木の間を狙っている。
やっぱりバスマンだなと笑いながらキャストを続けていると
「おのやまーーー!」と
則さんの怒ったときに聞く怒鳴り声に近い声。
ロッドはグンッグンッと叩かれている。
大きい!と感じると同時に
僕はタックルを岸辺に置いて駆け寄った。
つづく
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9/29
「おまえ誰だ!」
則さんから突然言われた。
何言ってんだろと聞けば
顔が別人になっているらしい。
鏡がないからデジカメの画像で確認すると
顔が腫れ上がっている。
佐藤さんと止水域で遊んでいたため
蚊の猛襲を受けてたみたいだ。
遊びに夢中で気がつかなかったが
テンガロンハットのツバの下に相当溜まっていたみたいだ。
ロシアの蚊には日本の防虫剤は効かないのだ。
気を取り戻して
今日は九頭竜川の主、廣瀬弘幸さんと同行だ。
則さんは必ずボートの割り振りのときに
一番に僕の名前を言って誰かにつける。
あとの割り振りを聞いたことがない。
この三人のエキスパートを僕にみせることを考えていたみたいで
全員の釣りを学べということだ。
廣瀬さんの釣りは
2人とはまったく違った。
あくまでも僕の私感だが
前日の佐藤さんがデカい魚に的を絞って
誘い出す釣法とするならば
彼は魚が居るべきところを的確にトレースして
魚の鼻先にルアーを送り込む。
静かで淡々と、確実に。
美しい釣りだ。
僕は何度も見とれていた。
僕にはない美しい釣り。
同い年というのもあって話も合い
一日中、和やかに釣りができた。
この三人衆とはほぼほぼ同年代。
同じ年月を生きてきたのに
このロシアでのビッグトラウトにおいて
圧倒的な差を見せつけられた。
正影さんはそのトラウト部門を仕切り
佐藤さんと廣瀬さんは
名前を冠したロッドまで出ている。
しかし悔しいとか、挫折感はまったくなく
むしろ清々しい。
まったくザウルスって会社は
どんだけ凄い釣り師の集まりなんだ。
ディナーが終わって則さんが言う。
「明日はオレとやろうな」
三日間、三人を見て勉強し
そこそこ魚を釣ってもきた。
明日は見せつけてやろうと暖炉で温まった部屋に戻り
ベッドに入る。
悲劇の4日目が待ち受けてるともしらずに・・・
つづく
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9/28
季節は初夏といえど
ロシアの夜は寒い。
暖炉に白樺の皮をくべ火をつける。
この木の皮は油を含んでいるので
着火剤として使われる。
ふたつベッドが用意された部屋に僕が入り
後から来たのは佐藤偉知郎さん。
先に入って荷物の整理を終えてゆっくりしていたので
佐藤さんの荷解きを見ながら話していた。
ジップロックで几帳面に整理されていた荷物をみて
遠征慣れしているのがよく分かる。
それ以来、それこそ今日に至るまで
僕の荷物のパッキングや釣り道具の整理は
彼のそれ、そのままである。
話を聞くとやはり初日は川の状態があまり良ろしくなく
明日は回復してるといいねと話しながらライトを消した。
そう、明日は佐藤さんと同行することを
ディナーの席で則さんから告げられていた。
僕は朝イチから驚かせられることになる。
北国の朝は早い。
寝坊したかと勘違いして飛び起きるぐらい
九州に比べて明るくなるのが早い。
朝もやの中をボートがけたたましく走り出す。
今日は丸一日の釣行なので
ぐんぐん上流へ進んでいく。
それまで針葉樹の森の中を蛇行していた川が急に開け
緩やかな流れに変わる。
水深はさほどないけれど
水底には大きなゴロタ石が見て取れる。
遡上する魚の群れを寸断し
ボートはそのポイントの中程に付けられた。
佐藤さんがボートから下流に入ったのをみて
僕は上流に歩いていく。
その日の一投目。
気負わず優しくキャスト。
昨日と同じ12センチのミノーに抵抗を感じたとき
川の流れる音しかしないその場所で
大きな違和感を感じた。
ビューーッ、ビューーッ、ビューーッ!
なんだろうとリールを巻きながら辺りを見回した。
視界に入るのは自然しかない。
そこに佐藤さんがいて
リールのベールを起こしキャスティング態勢だ。
音は止んでいた。
なんだろうなと思いながらも
釣りを再開しようとした時だった。
ビューーッ、ビューーッ、ビューーッ!
衝撃だった。
音の主は佐藤さんだった。
ヒザを使ってロッドを上下に大きく振っていた。
空気を裂くほどのチカラで。
それがあの有名なイチロージャークだった。
正直いうと
あんなに激しく動かして魚は食えるの?と思った。
僕は今回の釣行でずっと同じ部屋だったので
夜は佐藤さんに質問攻めの毎日だった。
彼は川に潜ってサクラマスが小魚を狙うシーンを確認していた。
いや、サクラマスに追われる小魚を見ていた。
逃げ惑う小魚はもの凄いスピードで逃げるが
直線で逃げる距離は1メートルほど、それ以上はない。
そこでターンをするそうだ。
その動きをミノーで演出すると
イチロージャークの動かし方になる。
それだけではない。
そのためにそれ専用のロッドブランクやガイド設定が必要となる。
イチロージャーク専用のロッドのガイド位置を見たことがあるだろうか?
必要以上に先端よりのガイド設定は初めて見たときに
最後のガイドを付け忘れたのではないかと思うぐらいだ。
エキスパートとはここまで理論を構築できる。
衝撃だった。
衝撃だったのはそれだけではない。
あるポイントでのことだった。
僕の釣り方はショートトゥイッチ。
小刻みにロッドの先端をはね上げてミノーを躍らせる方法。
僕はこれで沢山のガラムーシャ、白鮭を釣った。
日本で釣る何年分もの白鮭を一日釣って得意顔だった。
だけれども
同じポイントで佐藤さんのイチロージャークには
大きいオスのシーマしか釣れなかった。
あきらかに
彼は魚を選んで釣っていた。
大きく、体力があるオスのシーマだけを狙って。
かなわない、この人たちには、かなわない。
認めざるおえない現実を突きつけられた瞬間だった。
夕方、
ロッジ近くの湿原が広がる流れのないエリアを探る頃には
冗談を言いながら釣りをしていた。
そこで彼のロッドをひったぐる強烈なアタリ。
針がかりしたのなら彼のロッドさばきから逃げるられるわけがない。
上がってきたのはタイメン。
イトウだった。
80センチほどの立派なイトウに僕は見とれた。
子供の頃に釣りキチ三平で一番好きな物語。
憧れのイトウだったからだ。
釣りたい!釣りたい!
イトウを釣りたい!
僕のその日の残り少ない時間、
真剣にキャストを続けた。
釣りたい!釣りたい!
立派なイトウを釣りたい!
釣りキチ三平みたいに
ネズミのカタチをしたルアーも使ったさ。
バス用のラージマウスだけどね。
しかし僕のルアーにかかってくるのは
30センチ程のマルタウグイばかり。
それはそれで奇跡だと佐藤さんは言っていた。
いや、笑っていた。
その日のうちに
僕のあだ名は
「ガラキング」、「マルタキング」になってしまった。
つづく。
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9/24
柔らかな砂地に足をつけ
遠くロシアの地にたどり着いた。
ヘリの巨大な羽根を動かすローターのチカラが
まだ勢いのあるうちに下を通るのは
なかなか勇気がいる。
目の前には先ほど上空から見た
赤い帯をなして上流を目指す
幾千の鱒の群れが泳ぐ川。
それが気になりながらも
大量の荷物を降ろしロッジへと運び込む。
空は青い。
乾いた空気に潮の香がうっすらと混ざり
日本なら大ニュースになる
ゴマフエアザラシの家族が流れに漂っている。
時間はゆっくりと流れているけれど
みんな無言でいそいそと釣りの準備を始める。
まだ日没まで時間がある。
日暮れ前の釣りを楽しもうという魂胆だ。
生活物資はそのままで釣りの準備を終え
河原から突き出た木製の桟橋には
ガイドがひとり操船する長い木製のボートがあり
これに釣り人ふたりずつが乗ってポイントを巡る。
全員揃ったら則さんが真っ先に言う。
「おのやまは正影と乗れ」
正影さんをみるとあまり良い表情ではない。
折角来たロシアの川で初日に初心者とかよ
そういう面持ちだ。
彼は一瞬僕から目を離し誰かを見たのを
見逃さなかった。
「行くよ」
しばらくはその言葉だけだったと思う。
彼は通い慣れてるために仲の良いガイドのボートに乗り込んだ。
僕も慌ててあとに続く。
ロシア、コッピ川の釣りは
ガイドの操船するボートで鱒と一緒に遡上しながら
ポイントごとに岸につけて河原から釣りをする。
5艇のボートが上流へ向かう。
1艇、また1艇と岸につけるために隊列から離れていく。
僕らのボートのガイド、ミーシャはまだつけない。
初めての僕でも分かるぐらいの良さそうなポイントに見向きもしない。
僕らと並行して赤い鱒の群れはそこを泳いでいるのに。
20分ほど走っただろうか。
青い大河は徐々に狭くなり
最初の大きな流れの合流点にボートを寄せた。
正影さんは流れ込みの下流を攻めに回った。
ならばと僕は上流側に周りキャストを始める。
2投もすると周りが見えてくる。
絶対アソコなんだよなと川幅10メートルぐらいの真ん中にある
一番太い流れが落ち込むポイントを見ていた。
川に足を入れる。
冷たい。
ウエーダーの外側からその冷たさが伝わってくる。
轟々と音を立てて流れこむ水は上流何百キロと旅をしてきた水の集まりだ。
そのほんのひと月前はきっと氷だったに違いない。
アソコへ。アソコへ。
そのポイントだけを見つめて進む。
「気をつけなよ」
正影さんから声がかかる。
大河の流れは太く冷たく、そして勢いがある。
ひと度気を抜けば足をすくわれる。
中央のポイントまで届くところに近づき
キャストを始める。
ルアーにかかる抵抗が半端なく強い。
「ガツンッ」
僕が操る12センチのミノーが何か当たった。
その何かを考えさせる暇をもらえずに
ラインがリールからけたたましく引き出された。
本能的に脇をしめロッドを立てる。
ググッ
ググッ
太い流れに乗って生命が躍動する。
ググッ
ググッ
怒りに満ちたその生命体をいなし
流れをかわし
ゆっくりと、ゆっくりと、
確実にゆっくりとラインを巻き取る。
観念したのか
足元まで寄ってきた生命体はチカラを抜いた。
河原に引き上げたのは60センチのシーマ。サクラマスだ。
正影さんが釣りをやめて駆け寄ってくる。
「初物だろ?おめでとう」と
強面の顔がニカーっと笑った。
僕は釣り人としての器量をここで判断する。
一緒に釣りに行って
「人の釣った魚を喜べるか?」
一緒に行った相手だけが釣れて
今日は楽しかったねと喜べるか?
僕は喜べない人やフテクサレる人とは
それ以降、釣りに行かない。
それはプロ根性としてどうなんだ?と言われれば
そんな根性はカケラもいらない。
話を戻そう。
僕が釣れてからというもの
彼とは同年代というのもあってか
お昼までとは打って変わって沢山話しをしてくれた。
「ここのポイントはこういう攻めの順で・・・」
「あそこがビデオで釣れた所・・・」
「ほら、熊の足跡、デカいぞ、気をつけろ」
「おー怖い〜」とか言いながら
ふたりでおどけて笑っていた。
日暮れ前、桟橋に帰って来たのは僕らが最後だった。
先に帰りついたメンバーの見守る中、
荷物を降ろしながら正影さんが大きな声で言う。
「ザウキンにやられちゃったよ!」
その日の釣果はみんな芳しくなかったみたいで
そのひと言でどよどよっとした。
僕はけんそんしながらも
それがとても心地よかった。
正影さんがいう
「サウナ行こうぜ」
「はい」ではなく
「おー」で僕は答えた。
つづく。
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9/24
ハバロフスクは快晴。
澄んだ湿気のない空気が
滑走路を包んでいた。
およそ2時間の窮屈なフライトを終え
入国審査を受ける。
英語圏ならなんとか理解できるも
ロシア語なんて
「ダー」と「スパシーバ」しか知らないのに
何かを聞かれたらどうするという不安。
東洋人がアメリカ人のようなカウボウイハットをかぶり
釣竿を入れるためのケースはまるでバズーカ砲。
それが数人揃えば怪しさもひとしおだ。
それらを払拭する最後の手段は
笑顔。
難なく空港を出て街に出る。
北国のロシア人は太陽の貴重さを解っているらしく
露出の高い出で立ちは「ごちそうさま」クラスである。
その日はホテルで一泊し
明朝、国内線の飛行機で
間宮海峡に面した港町、ソフガバニへ向かう。
国内線のおんぼろ飛行機は揺れに揺れ
とうてい後部座席まで行って
タバコを吸おうなんて気にもならなかった。
なんとか無事に
ソフガバニのデコボコの滑走路にタッチダウン。
そこから小型バスで移動して
森林警備隊のヘリが待つヘリポートへ向かう。
いや、子供たちが遊ぶただの原っぱだ。
その真ん中にヘリが待っていた。
荷物を乗せながら
ガイドを通して機長に伝えてもらう
「これパンクしてるよ」
機長の返答を持ってガイドが帰ってきた。
「ヘリは空を飛ぶものだから関係ないそうです」
そうだね、確かにそうだ。
ガイドがふたり付いていたのだけど
二人共言葉少なめだ。
そうもそのはず
先週、同じヘリが墜落して
9人が亡くなったそうだ。
秋田空港での出発前の則さんの挨拶が頭をよぎる。
「とにかく生きて帰ること」
冬眠明けの子連れの熊に襲われたり
川原から一歩、藪にはいると
皮膚から入って脳に達するダニがいたりだとか
街には怖いロシア人がいたりとか
いつも命懸けなのである。
ベーリング海峡を挟んで
アメリカ側は管理された自然。
ロシア側は手つかずの自然。
危険度合いは比べようがない。
それゆえ、魅力的なのでもあるが。
数名の無口な青い顔の一行を乗せたヘリは
ふらふらと舞い上がり
爆音とともに突き進む。
地上の未舗装の道路を車で行けば
12時間かかるという行程を
30分でクリアして
夕方の釣りに間に合うように突き進む。
飛び立ちて
町が小さくなるあたりから
眼下は急に原生林だけになる。
目を遠くにやっても原生林だけである。
日本では考えられない景色の上を飛ぶ。
丸い窓から覗いて則さんが言う。
「コッピ川だよ」
左の窓から覗けばシベリアの海。
右の則さんの肩ごしの窓を覗けば
延々と続く深い森の中を蛇行する青い川。
着陸のために旋回しながら高度を落としていくヘリ。
窓から今日から始まる釣りのステージを見ていた僕は
ありえない光景を目にした。
北の海から間口の狭い河口があり
そこから遠くうっすらと見える山へと向かう青い川に
赤い線がくっきりと見える。
何百、いや何千、何万という数の遡上する鱒の群れだった。
僕のココロを震わせるのは
釣り人の魂か
自然を愛でるココロか
僕はとうとう
ロシア、コッピ川に降り立った。
つづく。
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9/23
6月22日
福岡から秋田空港に降り立つ。
荷物をピックアップして出口を出て
国際線の出発口を目指すと
異様な人たちの集まりが目に入った。
ザウルスパーティーだ。
真ん中に則さん。
その横に愛知のショップオーナー。
そしてそこのお客さん達。
そしてザウルスのカタログでよく目にしていた人たちがいる。
「トラウトの鬼」と呼ばれる正影雅樹さんは
もう普通じゃない雰囲気だ。
横にはイチロージャークで有名な青森の佐藤伊知郎さん。
芸能人のオーラが出ていた。
そして「九頭竜川の主」と呼ばれた廣瀬弘幸さん。
ザウルスのスター、いやトラウト界のスター軍団だ。
いいのか?いいのか?
ビッグトラウト、海外のトラウトの経験がない
僕がココにいていいのか?
誰かにそれを聞けば
「うん、ダメでしょ」と即答されるようなことだから
とにくオドオドしないように踏ん張って置くことしかできない。
50万も払ってこんな渦の中にきたのかよ。
今更、自分の行動に笑うしかなかった。
「お、小野山さーん」
八郎潟でともに楽しんだ友の会の○ちゃんが
明るく声をかけてくれた。
彼はもう、あれからすぐにザウルスに同行をはじめ
ロシア釣行は今回でもう3回目となる。
心強い。
「おう来たか」
則さんが僕に気づく。
ちょっと安心した。
則さんが僕をみんなに紹介する。
「長崎の小野山だ」
深く丁寧に一礼する。
「こいつはバスマンだから、みんなよろしく頼むよ」
言わなくてもいいでしょうよ、と思いながらも
そう言われればバスマンの意地を見せてやらなきゃね。
とにかく僕はオドオドしながらピリピリしていた。
目立った行動をしないよう、迷惑をかけないよう
そして嫌われないようにね。
いつも○ちゃんの影についていた。
ショップのオーナーさんは
則さんのそばにいるし
正影さんはいつも睨んでくる。
僕がショップをやっているから
お客さん達にも違う意味で話しかけづらい。
九州の西の果てて
自由奔放に暮らしている僕には
気持ちが悪くなるほどだった。
ロシア、ハバロフスクへ向かう飛行機に乗る。
機内は色気ムンムンのロシア人女性に
ダブルのスーツを着た強面の日本人男性のセット。
ロシアの夜を楽しみにしているおじさんの団体。
普通の観光客なんていやしない。
僕らが普通に見えるほどの異様な機内だった。
「タバコ吸いにいこ!」
口数の少ない僕を○ちゃんが気に留めてか誘ってきた。
いやいや機内禁煙だろうに。
とにかくも
この狭い機内でココにいるとおかしくなりそうなので
○ちゃんについて機内後方についていく。
最後尾、トイレのドアの前で
ロシア人が数人が屯していた。
そして全員がタバコを吸っていた。
それが許されるのがロシアの航空会社なのか。
僕の知っている常識なんて
ほんのちっぽけなモノだった。
タバコを吸えるか吸えないかの
大したことではないけれど
他にも世界には沢山の理解できない常識がある。
自分の常識を人に押し付ける馬鹿らしさを
こんなところで知ることになる。
「郷に入れば郷に従え」
オドオドとピリピリを解くために
2本続けてタバコをゆっくりと吸った。
ただ、あの席に戻りたくなかったからかもしれないが・・・
つづく。
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9/18
6月が来て雨も多くなり
九州独特のジメジメ感が増す中、
僕は晴れ晴れとロシアへの釣行の準備をしていた。
もちろん、サラリーマンなので
一週間以上も仕事を任せることや
初めての海外釣行ということで
不安も少なからずとあったのも事実。
釣行費は当時のレートで
出発して帰ってくるまでで50万円。
なかなかのものだ。
手持ちのクレジットカードでキャッシングをした。
冬眠明けの子育て熊やダニなど
恐ろしい要素があったけれど
キャッシングして釣りに行くことが
一番怖かった。
ああ、プロ集団と付き合うと
人生崩す人がいるっていうのは
こういう事かな。
もちろん掛かる費用なんてそれだけではない。
タックルも何種類も揃えなきゃならないし
フィッシングベストやウエーダーなどのウエア類だって
それ相当のものを揃えると
とんdめおない額になる。
ましてや・・・
ターゲットとなる魚種も
いままで狙ったことのないサクラマスやイトウ。
そして海外遠征。
まったく道具を持っていないので
全部揃えると旅費と同じぐらいの金額がかかった。
でも、何かがそこにある気がしていたんだ。
この並ならぬ出費と準備。
残していく仕事へのフォロー。
出発の日が近づくにつれて
ため息の量も増えていく。
でも、きっと何かがある。
釣果だけでない、何かが。
しかし一番僕の中にあった曇り空は
愛知県にあるプロショップのオーナーさんとの関係だった。
僕なんかよりはるか前に
ほぼザウルスショップだったし
則さんや会社にも助言するような先輩ショップのオーナーさんだった。
正直いうと
ザウルスキングを始めるにあたって
かなり意識したショップだった。
もっと正直にいうと
僕のことを良くは思っていないだろうというのも思っていた。
今回の釣行を取り仕切っておられたので
度々連絡を入れるも
やはり、そんな感じが電話越しに伝わってきた。
熊やダニ、
釣果に健康、
カードローンに残していく仕事。
いろいろあったが
それが一番の不安材料だった。
つづく。
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9/17
2001年の春バスは
大分県の、といってもほぼ宮崎県に近い
北川ダムへの遠征だった。
則さんたちが到着する前に
前入りしてチェックをいれたのだけど
これがまた減水期とはいえ
素晴らしいローケーションのダム湖だった。
初場所はいつもワクワクする。
しかも熊本のメンバーが50センチアップを釣り上げて
僕らは大いに盛り上がった。
ルアーはファンキーモンクだったかな。
次の日、早朝から車に則さんとカメラマンを乗せて
湖面へ向かう。
車の中は
「おまえ、ルアー400本を一瞬で売ったんだって?」
という明るい話題を期待していたが
そんなの微塵もなく
フィリプソン問題の暗い話題だった。
あの頃は則さんの頭はそればかりだったかもしれない。
カメラ艇を後ろにつけて
僕が操船するボートに乗る則さん。
釣りの話より愚痴の方が多かった。
たまに弱ってるなと感じるときもあったぐらいだ。
結局その日は釣果に恵まれず
僕は仕事の都合で帰ることになった。
次の日から僕に代わり
前日50アップを釣り上げた熊本のメンバーが
則さんを乗せて取材に挑むことになった。
50アップを釣りあげた「モッテる男」だ。
しかし本当に「モッテる」と思わせてくれたのは
それよりももっと先、2002年になっての事だった。
2002年のスポーツザウルス社のカタログに
バーンっと則さんを前席に乗せて
操船する彼の姿が載ったからだ。
深く濃い緑の木々。
両サイドからせりたった岩盤。
その自然の造形に両手を広げる則さん。
その奥へボートを操る赤いジャンバーを着た彼。
素敵なショットだった。
正直、羨ましかった。
憧れのスポーツザウルスのカタログに載れるなんて
なんというシアワセだろうか。
羨ましかった。
「モッテる男」とはそういうモノである。
熊本の彼とは
今でも連絡を取り合う仲だ。
優しい顔に大きなカラダ
山盛りのご飯が似合う気のいい男だ。
今度、もう一度
この時の話をゆっくりしたいものだ。
あの時の僕は
そんなに喜んでやれなかったかもしれないから。
つづく
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9/16
2001年3月10日
僕にとっては待ちに待った
ココロが張り裂けんばかりの日でした。
インジェクションルアーのセラフシリーズで
ザウルスキングのオリジナルカラーの発売日でした。
ひと昔前は
ショップオリジナルルアーっていくつか存在していますが
それも創世記から支えてきたビッグな有名ショップさんでしたから。
ましてその頃はもうそういう設定は無かったので
お話を頂いたときは舞い上がりました。
工場側と何度も色合わせをして
ビッグラッシュとホッツィートッツィーの2機種に
当時ではカタログ落ちしていたカラーの
039ブルーボーン
041レッドボーン
この2色を設定しました。
90年代初めにビッグラッシュBIGサイズの専用カラーだった
そのカラーです。
各100本だったので計400本。
会社に届いた時は
もしかして下手打ったか?というぐらいの量でした。
しかし、蓋を開けてビックリ
400本はわずか1日半で完売。
スポーツザウルス社には
いくつかのショップ様から
ザウルスキングで売っているルアーを入れてくれと
連絡が入ったと聞いています。
あの頃は発送用の箱なども持ってなく
みんなで手分けして
近所のホームセンターなどを回って
ダンボールや箱をもらって
それを出荷ように使っていた頃で
通販業の大変さを痛いほど感じました。
それにしても
どこよりも先駆けて
自分の設定で色を塗ってもらったことは
とても嬉しかったな。
数日後には某オークションサイトに
出品されていて
すごい高値になったのを見つけて
複雑ではありましたけれど・・・
今でも僕は持っています。
つづく
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9/15
2001年
則さんからの年賀状にはこうありました。
謹賀新世紀。
高校二年生の夏。
初めてバスを釣ってから35年。
つくづくバス釣りをやっていて良かったと思える去年一年でした。
全国にバスが増え、と同時に息子のような友人がたくさんできました。
こんなことは35年前はとうてい考えられなかったことです。
云々・・・
則さんにとっても友の会との出会いは
貴重だったに違いない。
前に書いたけど
突然出てきたアメリカのフィリプソン問題では
今まで付き合っていた人たちが手のひらを返すように離れていった。
実は僕はこの時、隠密行動をしていました。
フィリプソンの登録商標とかで揉めていた最中に事が起こりました。
スポーツザウルスって
なんという王様ぶりだこと。
バルサファイブオーのすべてのルアー名など
まったく商標をとっていなかったのです。
この頃僕は
偽名でネットの中をウロウロしていて
ザウルスのことを「アチラ」と呼ぶ人を見つけてコンタクトをとりました。
その人と話し込んでいると
その未登録のままの商標を「コチラ」で登録してやろうという計画を聞き出し
ザウルス社に連絡し、弁護士さんが動いて
事なきを得ました。
結局は長年、それを使用して販売してきたので
他人に取られても対処はできるそうだんだけど
大好きなルアーが改名とかしたら
嫌ですよね。
あの時は真剣だったな。
普段、自分の書いたものを見直しもせずに
送信ボタンをすうに押してしまうけど
返信文面を何回も読み直して
ザウルスファンということを悟られないように
男であるkとを悟られないように
やり取りをしていた。
則さんにめちゃくちゃ褒められたな。
100点とった子供のように嬉しかった思い出がある。
そして「春バスを一緒に行こうな」
とお誘いをいただいた。
つづく
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9/14
楽しかった木更津の忘年会を終えて
地元に帰る。
前の夜、
則さんが言ったことが頭を支配している。
「お前をシベリア鉄道に乗せてやりたいんだ。
いいもんだぞ シベリア行こうな」
来年、ロシアへ釣りをしに一緒に行こうということだ。
則さんの言葉には魔法のチカラがある。
サラリーマンの身でも
行けそうな気がしてくるし
行かなきゃならない、そんな気持ちになる。
まあ、そんなやって人生をロストした人もいるらしいが
僕はそれを人生の何かにしたい。
帰ってきてからの営業周りは
初日からロシアの川のことで頭がいっぱいだった。
ネットショップのザウルスキングも
とにかくザウルス情報を発信することの
使命感に燃えてやっていた。
その頃には様々な人たちとも交流ができて
則さん、営業さん、工場の職人さん、
その取り巻きの人たち
またこの頃には
様々なルアーメーカーのファンサイトも存在していた。
バルサファイブオー好きだけでなく
他メーカーの応援サイトとの付き合いも増え
人生で一番、友人が増えていた時ではなかろうか。
そうなると協賛依頼も数多くくることになる。
公言していたわけではないが
その手の依頼はなぜか僕のところに来てたようだ。
ご近所ではなく全国にメンバーがいる会だし
付き合っているのは僕。
知らないメンバーに負担をかけるのも嫌なので
僕ひとりで協賛を出していたのだけど
それが会で問題になった。
その時、どうして問題にされるのか
理解できなかった。
スポーツザウルス10周年記念ルアーもそうだった。
僕は友の会の忘年会で
則さんに進言したから
友の会でそれを進めようと思ったが
その話を出した時に
「それ小野山さんが言い出したこと」と
素っ気なく切られた。
そっか、ならば僕とザウルスとで話そう。
ポジティブな僕はなんのためらいもなく
一瞬でひとりで前進態勢になったけどね。
やはり
メーカーに気に入られた友の会から
ひとりだけショップを始めたことを
気いらなかった人もいたのかな。
いま思えば、年上の僕が
もうちょっと大人の配慮をしなきゃいけなかったんだな。
会が大きくなるにつれて
問題も多くでてくるのも
どの会も一緒だった。
そういうネット付き合いの難しさを感じた年でもあったな。
そしてミレニアムイヤーは幕を閉じる。
つづく
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9/11
2000年11月5日
この日は早くから
忘年会ということで全国各地から
会の人たちが集まってきた。
2000年はというと
2月のザウルス九州展示会、
7月に北山ダムでのセミナーと
バスワールドの宮崎取材
10月に福岡の遠賀川での50ミーティングなど
結構、則さんと一緒に居れたので
今年の忘年会は並木さんのバスワールドの取材もあり
去年の酒乱事件のこともあり
僕はおとなしくしておこうと考えていた。
実際はどうだったか覚えてないけどね。
10月中旬にあった
福岡での50ミーティングは
遠賀川の河川敷で
ザウルスの道具を体験できるようになっていたり
ボートで釣り体験ができたりと
メーカーがユーザーさんにしっかりと寄り添う
とても素敵なセミナーとなった。
初日の午後からは
地元誌の取材で則さんとふたりで出船。
とんでもなくデカいバスを出したけど
ランディング失敗で逃がしてしまうという失態。
則さんいわく
「おまえはツメがあまい」
らしい。
そのあとはちゃんと釣りましたけどね。
沢山、話しをして
沢山、笑って
ふたりで川バスを楽しんだな。
17時に帰ってきてくださいと
営業さんに言われていたのに
気が付くと18時30分。
護岸を埋め尽くす沢山のお客さんは
則さんが帰ってくるのを待っていた。
スミマセン・・・
則さんを独り占めして
ごめんなさい
でも、、、楽しかった。
そんな話も含め
僕は木更津のスポーツザウルス社での忘年会で
仲間たちに沢山報告をしていた。
あまりアルコールを飲まずに・・・たぶん。
そしてその日は
その年、たくさん則さんと接していたので
ちょっと控えめにちゃんとしてたと思う。
控えめにしていたのが良かったのかな。
突然、閃いたんだ。
僕が持っている
スポーツザウルスの一番古いカタログに
スポーツザウルス元年と書いてあったのを思い出した。
あまりアルコールが入っていない(たぶん)お陰で
完璧な引き算ができた。
今年2000年、引くことの1991年
ぴぴぴぴ
「則さーん!来年、ザウルス10周年ですよ!
何かやりましょう!」
「そうなのか!」の好反応。
そして、ザウルス10thアニバーサリー計画が
始動することになる。
つづく
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9/10
お客さんも帰って
則さんのロッジに静かな夜が訪れた。
ダイニングテーブルから
オーディオ横のソファに写り
猟銃を磨く則さん。
アメリカの山奥では
こういう光景が当たり前なんだろうな。
でも則さんって
どっぷりアメリカかと思ったら
意外とアメリカ嫌いだった。
学生のときに原子力空母の入港で
反対派として佐世保に来てたときの話も聞いた。
湾岸戦争が始まった時だって
アメリカという国が大嫌いだよって言ってた。
アメリカ人からアメリカ流の釣りを覚えて
それを日本に広めた人がそう言うものだから
返答に困ったものだった。
猟銃を構えて則さんが言う。
低い声で、淡々と・・・
「おい、おのやま
遠方から友が来るってんで
何時間もかけて古ちゃんが料理を用意してたんだ。
それを台無しにしたんだよ。
そういう”もてなし”ってのは
大事だし、大事にしなきゃならないんだよ」
ギリギリで1本釣っていい気になってたのかな。
「ザウルスと名がつく取材、仕事よりもですか?」
と、言おうとしたけれど
どうせ怒られるから黙ってうなづいた。
猟銃も手にしてるし・・・
でも当時の則さんの年齢を追い越した今、
それがとても大切な事だと感じてる。
釣りはまったく教えてくれないけど
人として円熟味を増すことをいつも教えられていた。
「おい、そこの林檎を剥いてくれ」
右奥のキッチンをみると
見たこともないような小ぶりの林檎が置いてあった。
不思議そうに眺めていると
「東北の天然に近い林檎だ、拾ってきたんだよ」
落ちてたのね。
かわいい見た目とは対照的な
硬いガリッとした赤い皮をナイフでそいでいく。
身はザクザクしてて水分もあまり出てこない。
「食ってみろよ」と即されて
人切れ口に入れる。
なかなかの噛みごたえだ。
甘さよりも酸っぱさが先にたつが
嫌な酸っぱさではない。むしろ懐かしい。
昔の林檎ってこんなんだったんかな?と聞くと
「そうかもな」とそっけない。
銃身のくすみのほうが気になるみたいだった。
ブサイクな8当分にして皿に盛って
則さんに持っていくと
「おれはいい」
食わんのかい!
いつも後から気付くんだけど
則さんって意外と不器用なところがある。
いつもは命令口調で上から言われるけど
たまにこんな時があるんだ。
僕が感じたのは
その人のことを思って
押し付けないでいてくれるんじゃないかなって。
ブイブイしてた頃の則さんはどうだか知らないけど
僕が出会った頃というのは
フィリプソンの問題や
バスブームに陰りが見えてきたぐらいの時で
言葉は悪いけど
それまで仲がよかった人に裏切られたり(と感じたり)
人が離れていったりで
淋しかったんだと思う。
そこに応援する友の会がでてきたり。
僕みたいな鉄砲玉がでてきたりで
ココロの中の隙間のピースにピタッたハマったんじゃないかな。
その辺は話し込んだわけじゃないから
僕が1対1で付き合ったときに感じたことだ。
「今日、釣れてよかったな」
突然の嬉しい不意打ちに
うん、と一言だけ返して
ニマーーっと笑い則さんを見る。
「明日は早くからみんな来るんだろ?」
ほら、不器用だ。
そう明日は友の会の忘年会がまたここで開催される。
2階の寝室に上がる雰囲気だった則さんに
「ぼく、風呂入らないと寝れないんっすけど?
今日ほら、釣りも頑張ったし」
まだ言ってる。
「つかるのかよ」
「うん、つかりたい」
舌打ちもせずに左奥のバスタブにお湯を張り始めた則さん。
秋の夜のやさしい風や
程よく入ったアルコールのせいではなくて
友達を大事にする
不器用で優しい熊みたいな人なんだよ。
僕は今でもそう思っている。
つづく。
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9/9
ロッジの、いつにも増して重たい扉を開けると
則さんの愛犬から吠えまくられました。
詳しくないので犬種は分かりません。
ただ狩りにつかう大きな犬です。
第一声が
則さんの「バカヤロー」だと想像していたから
大きな犬に慣れていない僕はビビりましたね。
ロッジには他にもお客さんがいて
もう食事をされていました。
則さんはこちらを向きません。
取材、なんとか一本出しました!との報告も
無視。
こんな時の無視は辛い。
怒鳴られたほうがよっぽどマシですよ。
僕は負けません。
たしか、何か冗談を言ったと思います。
無視。
となりで友人が小さな声で
「マズい、マズいって」とつつきます。
僕の存在を外しての宴は静かに続きます。
ま、いいか
諦めの早い僕は
ならば、食って飲んでやろうと
シーバスで有名な古山さんが作ったばかりの
鴨のローストか何かを大皿から自分の皿にとった。
たしか、どこかで則さんが猟でしとめたという話。
そうだ、ココで
「こんな美味い鴨は初めて〜」と
キャピキャピ声で言えばウケるかも!
ヌロンっとした柔らかそうなお肉からは
肉汁が溢れ出て、なんと美味しそうなことか。
明るく、明るく、いただきますの挨拶。
元気に、元気に頬張ります。
ガリッ!
周りが驚くぐらいの硬い音がしました。
ふんが!はんが!と
オッサンが鼻毛を抜くときに出すような
変な声を出したと思います。
それがまたなかなかの大きさ。
口の中に指を入れて取り出してみると
ナ、マ、リ???
鉛みたいな物でした。
それを見たとたん
「ガハハハハハハーーッ」
と豪快に笑う則さん。
「そりゃあオマエ、散弾銃の玉だ、ガハハ」
と笑いが止まらない様子。
「オレの弾だな」
「どうだ、美味いだろ?ガハハ」
ココはしてやられた感を出しておかないとね。
苦い顔で「う、うまいです・・・」
先ほどまでとは電圧が上がったように明るいロッジになりました。
ニコニコして料理を頬張った。
則さんは椅子から立ち上がり
シェーカーを振り始めた。
「ほら、飲め」と
お得意のマルガリータがでてきた。
ココは九州男児を見せておかないとと
一気に飲み干す。
「ったく、オマエは品がないなぁ」
とニコニコ顔。
「いい酒も台無しだ、ガハハハ」
もうここまで来れば大丈夫。
さて料理を腹いっぱい頂きましょう。
あの則さんが作ったパスタ
なんだったんだろ。
すっげー美味かったなぁ。
壁には魚の剥製に
無造作に置かれた釣り道具。
高そうなオーディオの金属感だけが今風で
あとは木の温もりに満ちたロッジ。
時間を忘れる空間だ。
夜のとばりとともに
誰かの気の利いた「そろそろ」という言葉で
素敵な時間も、おひらきとなった。
家主を残して挨拶をしながら皆表に出ると
家主が叫ぶ。
「おのやまー!」
ん?と振り向くと
「オマエはココに泊まっていけ」
監禁である。
夜はまだまだ眠らないようだ。
つづく
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9/8
2000年もまた
木更津のスポーツザウルス社で忘年会のお誘いを頂きました。
去年と違ったのは
バスワールド誌から取材をしたいと申し出があり
千葉の友人の並木さんが受けることになりました。
僕も忘年会前日に千葉に入り
その取材に同行。
その取材に来たのは
のちにトップウォーター専門誌を立ち上げることになる
エバトヒロシさんでした。
並木さんの取材が進み
午後、近所の川で釣りをすることに。
それは釣りクラブだから当然ですよね。
そして夜には
則さんがロッジで飯作ってるから来い!
とのお誘いを頂いてたので
ちゃちゃっと釣って行けば間に合うだろうと
タカをくくっていました。
そうです。
こういう時には問屋が卸さないものなんですね。
遡上しながらよさげなポイントをみんなで打ち込んでいきますが
川は静かに眠っていました。
マズい。もう間に合いませんよと
ボートを反転して下りながらルアーを打ち込んでいくも
さっぱりブラックバスからの応えはありません。
あたりも薄暗くなり始めた頃、
高圧電線の下、ブッシュに囲まれた小さな流れ込み。
手前には孟宗竹だったか、細い竹が覆いかぶさり
とてもルアーを中に入れることはできない小川でした。
打てるところはすべて打った。そして居ない。
居るなら打てない所しかない。
パロット色のダンプティークリンカーを結び
高い軌道で奥へ放り込みました。
当然、ラインは竹に引っ掛かり宙に浮いたまま。
ルアーが上を向いて浮き上がらないように
ゆっくりリトリーブすると
カチカチと音を立てていたルアーが聞こえなくなると同時に
笹がゆさゆさを揺れ始めました。
きた!(と思う)とロッドを立てて強引に引き釣り出したバスは
30センチぐらいだったかな。
普段なら気にもとめないサイズだけど
その時は貴重な1本。
暗闇の川の上で
みんなでワーワー喜んだのを覚えています。
1本釣れていい気になったのか
僕は前回の宮崎での取材で
則さんが言った言葉を覚えていました。
取材ではこういうカッコイイ言葉が出るものなんだな。
いつか使えたらカッコイイだろうな。
僕が持つバスにカメラをかまえるエバトさんに言いました。
落ち着いて、低く確実に言いました。
「光量、だいじょうぶ?」
いかにも取材なれしたような
いかにもカメラに詳しいような口ぶりでね。
エバトさんは
「あー大丈夫っすよ」と軽く受け流し
シャッターを押して淡々と仕事をされております。
重い言葉も
軽いヤツが言えばこんなものです。
とにかく魚の写真はおさえられたので
僕らふたりはボートの片付けも任せて
則さんのロッジに急ぎます。
則さんが料理を作って待っているロッジ。
僕はなんとなく
釣るという仕事を完結させてきたのだから
釣りの神様は怒らないだろうと
またタカをくくっていました。
そしてポツンと灯りがともる
則さんのロッジに着いたのです。
約束の時間はとうに過ぎている。
いざ、釣り神様のロッジ、
いざ、恐怖の館へ。
つづく。
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9/7
入荷数は少なかったけど
最初のルアー抽選販売は続けることにした。
月末に来月分のオーダー表がきて
ホームページでアップ。
ご予約を受け付けて入荷後、個数を確認して
抽選をして発送のスタイルを続けた。
入荷してアップ、完売したら終わりが一番楽なのだろうけど
当時はバスルアーブーム。
なるべく手に入らない人に回してあげたかったからだ。
とは言うもの僕の人の子。
ルアーの抽選希望に
「当選したらロッドを一緒に買います」なんて書いてあると
当選させた事もあります。
ルアーを手にしてもらいたいという思いも
とにかく会社のいち部門として稼働していたので
売上を上げたいという思いも
両立させていかなければならない状況でした。
当時は大手ショッピングサイトもなく
釣り具屋のネット通販もすくなく
全国から凄い注文が入って来てましたね。
ファイブオーはたまに遅れて仕上がって来る分があって
営業さんもそれをまた振り分けるのも面倒なので
ごっそりうちに回してくれてました。
バルサ50オリジナルサイズのピンクコーチドッグは
通常1、2個の入荷でしたが
遅れて仕上がってきた分が全部うちに回ってきました。
たしか30個ほどあったと思います。
営業さんから
「売れなかったらなんとかしますから」と言われたものの
もちろん一瞬で完売しました。
一緒にと言ってはなんですが
その時、ウッド製のホッツィーBigが
売れなくてもの凄い数が余っていたんですよ。
いいルアーなのにね。
その相談も聞いていたので
うちに注文をくれてた人だけにメールを送って
秘密の販売ページでセットで売ったと思います。
ですから、うちだけに30個入荷したのは
バレてないはずです。
ここのホットラインも
オープン当初から書いているので
もう20年書き続けているのですね。
自分が驚いています。
スタート時は「ブログ」や「SNS」なんてシステムが無かったので
アップするのも随分と手間が掛かりましたが
九州営業所や関東営業所の営業の方々や
工場の方々、そして則さんから沢山の情報を集めていたので
スタート当時は書く苦労はまったくなかったです。
何よりもホットラインを読んでくださった方々から
「こうだ、ああだ」と反響のメールが嬉しかったですね。
そういうメールの返事も楽しい仕事でした。
自分が発信したことにダイレクトに思いを聞ける。
これは僕にとっては、楽しく、大きく、
ココを続ける大きな原動力になたことは言う間でもありません。
そしてミレニアムイヤー2000年の忘年会がまた開催されました。
つづく。
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9/3
もうひとつ
ザウルスキングのオープン前にあった。
セミナーと同じ7月にバスワード誌の取材。
宮崎県でやるということなので「来い」との事だった。
こうやって則さんがひと月に2回も九州に足を運んでくれるのは
新設された九州営業所の若い2人の努力にほかならない。
現地についてボートをセッティングし終わると
「オレはおのやまの船に乗る」と
則さんがドカドカと泥のついたブーツで乗り込んできた。
え、え、え
ってなものである。
サポート艇と思って来ただけに
メイン艇となってしまった。
あー新艇フルセット買ってよかった。
と内心思いながらも初の雑誌取材。
八郎潟の苦い思いをしたくないので
欲は捨てた。
操船に徹する。
ボートを湖面に滑らせる。
前席には則さんの大きな背中。
前が見えない。
雨が上がった山奥のリザーバーは
所々に立木や浮遊物がある。
それが真正面にあるとまったく見えない。
則さんがゆっくりと大きく手で進路を示す。
右手が伸びると「進路を右にとれ」の合図だ。
これがまたなんともカッコ良く
いつか真似したいと思っているのだけど
船を出す身なのでいまだにやったことがない。
鋭角に切れ込んだワンドを奥に進んでいくと
最奥に生きている流れ込みがあった。
アンクルスミスの連続アクション。
ガボ、ガボ、ガボ
ルアーが浮いてこない。と思った瞬間に
則さんのフィリプソンBC60Mが空に立った。
上がってきたブラックバスは
サイズこそ満足いくものではなかった。
則さんは後ろを振り返り僕の顔を見て
「な、言っただろ?」
何を言ったっけ?
まあ良い、内心ホッとしたのは事実だ。
夕方の釣りを終え
宿に帰ると土砂降り
山の天気は変わりやすく容赦ない。
翌日は釣りもできず
温泉とうなぎでのんびり
ザウルスキングのオープン前ということで
釣具店とはの話が多いかと思えば
鍋の作り方、その後の雑炊の作り方
そんな話ばかりだった。
なんとも贅沢な6日間の取材だったな。
地元に帰ってきて
ボートを洗っている時に
釣りの仕事一本でやっていきたいと
真剣に考えていた。
そして来月オープンへの気合いも乗ってきた。
しかしながら今はサラリーマン
1週間の溜まった仕事を片付けるのが先だった。
つづく
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9/3
ザウルスキングがネット上にアップされる前の月
7月1、2日に佐賀県北山ダムで
則さんを迎えてザウルスセミナーが開催された。
友の会もこのイベントをサポートした。
邪魔もしたけどね。
電話ではいつも話していたけれど
2月以来、久しぶりに会った則さんは
シベリアのトラウトフィッシングから帰ってきたばかりで
その土産話に聞き入ってた。
「おのやまも来年一緒に行こうな」
普通のサラリーマンであっても
則さんからこんな風に言われると
不思議と行けるような気がしてくるもんだ。
いやいやどう考えても
1週間も仕事を空けるなんて無理だ。
と胸の内を伝えると
「バカヤロー!」
久しぶりに怒られる。
どうしてバカヤローっすか
どれだけ仕事できると思ってんすか?
「オマエがいなければ仕事が回らない」は
何も偉くない。
「オマエがいなくても回るようにオマエが準備していない」
それはオマエの怠慢だ。
これにはグウのネも出ませんでした。
自分がいなければこの会社は・・・
と言っていたのが恥ずかしくなった。
こういう釣り以外の事を教わるのが
とても楽しかったな。
それ以来、仕事に対する考え方が変わった。
セミナーでは
沢山のザウルスファンと
楽しい時間をご一緒させていただいた。
今でも何人かのセミナー参加者の方とは
仲良くさせてもらっている。
トップウォーターバスフィッシングを通して
できた友人の数はもの凄い数だし
なにより今でも付き合ってくれる友人も多い。
つづく
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9/2
とにかく20年前のその日
スタートしたわけだ。
しかしながら
釣具店で働いたことがあるわけでもなく
業界のことが詳しいわけでもなく
ただ単にザウルスが好きで始めた釣具屋
そんなに上手くいくわけがない。
毎月どれぐらいの数が割り当てられるのかも分からず
予約なんかを取り始めたものだから
もの凄い数の注文メールが入る。
電卓でその数を単価で掛けて
ニヤニヤしていたら
入荷数はほんの数個。
それでも九州営業所の友人たちは
頑張ってくれてたんだと思う。
社長とどんなに親しくても
経験不足の新参者であった。
おまけに名前の大きさである。
僕のところに直接は何も来ないのだが
次第にあちらこちらにクレームが入り始めた。
ザウルスは直営を始めたのか?
ザウルスのネームやロゴ文字を無断で使用している。
我々(他店)の知らない情報を知っている、流している。
ザウルスの社員さんたちには随分と迷惑をかけていたが
顔見知りの社員さん達からは行け行けと逆に応援してもらった。
クレームは最終的に則さんの一言で収まっていた。
「オレが良いって言ってるんだから良いんだよ」
「出る杭は打たれる」
ならば
「打たれないぐらい突き出る」
そう思っていた。
後にネットの巨大な匿名掲示板で
「座右菌」と表示され叩かれまくることになるが
その時でさえ楽しく読んでいた。
それが生きる力にもなっていた。
まあ、しかし
始まった当初、
右も左も分からない新参者は
少し天狗になっていたのかもしれないね。
つづく
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9/1
それからというもの
バルサファイブオーはいいよー
則さんはすごいよー
と釣り仲間に語りかけていた。
それはまるで宗教さながらだっただろう。
ある釣り人の言葉
「それは分かるけど、手に入らないじゃない」
そうなのだ。
当時はバスブーム。
ハンドメイドの製作数の少ないルアーや
人気のルアーは店頭で殆ど見かけることもなく
常連さんたちや
ロッドやリールなどの高額購入者のモノになった。
僕の頭の中には
バルサファイブオーを買えるようにしたい
則さんの、この会社の魅力を伝えたい
そればかりだった。
・・・やはり宗教みたいだ。
僕ができることといえば
友の会で知ったパソコンの使い方と
則さんや仲良くなった社員さんたちと電話で話せること。
商品だけでなく
情報を発信できるサイトを作ること。
スポーツザウルス社専門の通販サイトが
具体的に成り始めたのは春も終わり
蒸し暑さが増してきた頃だった。
当時の僕といえば
営業会社のサラリーマン。
インターネットによる個人での出店は
まだまだ認められる時代ではなかったので
その会社でインターネット事業部を立ち上げ
そのいち部門として通販業務を行うことを条件に
スポーツザウルス社からの商品提供契約が結ばれた。
さてさて店の名前を何にする。
実は早い段階でどうするのか決めてあった。
則さんに店の生をつけてもらおう。
そのことも伝えておいたのだけど
まったくその話がこない。
ヤキモキしていると
力強く住所が書かれた封書が届く。
則さんだ。
開けてみると
店の名前は「ザウルスキング」にしろよ
どうだ。
ぶるぶると震える手で
則さんに電話をかける。
「則さん、名前、僕には大きすぎます」
と、挨拶もせずに僕。
「大丈夫だ」
何が大丈夫かさっぱり分からなかった。
出店に向けて走り出してから
この名前をもらった時が
一番、不安に襲われたときになった。
つづく
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