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1/29
2005年3月
業界の一部はある意味
沸きに沸いた。
新ザウルス
「ザウルストレイン」のホームページが立ち上がった。
そこには・・・
2003年12月待つより2005年3月まで
SAURUSは活動を停止しておりましたが
ザウルストレインが志を受け継いで
SAURUSを復活することになりました。
と書いてあった。
旧ザウルスの商標を持っておられる方も
もちろん一緒だろうし
木更津の工場やロッジも抑えてある。
体制は準備万端整ったようだ。
ザウルストレインに入った
何人かの知り合いの情報は来ていたが
僕は決別した身なので
頑張ってねとしか言いようがなかった。
逆にもう
そこから情報を聞き出す気もなかった。
なにより
ザウルストレインが立ち上がったことによって
僕はザウルス再建運動から解放されたことのほうが
とても大きかった。
カタチはどうであれ
ザウルスは復活したのである。
その直後の20日に
玄界灘で発生したマグニチュード7の
福岡県西方沖地震で
僕が住んでいる佐世保も揺れた。
そして
僕のココロも揺れていた。
つづく
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1/28
自分のブース前で
情けない後ろ姿だったと思う。
どれぐらいの時間を
そうしていたのかは分からないけど
その情けない背中に声をかけてきた人がいた。
「小野山さん?っすよね?」
その時の僕とは対照的な
明るく、軽い声。
気配でこれまた背が高い人だと分かった。
振り向くとそこには
当時、ハネダクラフトにいた安井稔店長、
「ヤステン」がいた。
離れた所にブースを構えていた彼が
僕を見つけて話しかけてきてくれた。
ハネダクラフトさんといえば
旧ザウルス時代、
USAフィリプソン問題でやりあった相手だ同士だ。
その名前を持つ僕に声をかけてくれた。
先ほど名前が不愉快と思われた僕にだ。
この彼の声掛けに一人ぼっちだった僕は
どれだけ救われた事か。
それからというもの
彼とは一緒に仕事したり、釣りにもいった。
馬鹿みたいに遊びもした。
大阪に居るときはほとんど一緒にいたな。
彼が業界を去った今でも連絡は取り合っている。
彼の「男気」と「裏表のない性格」に
僕は惚れた。
自分でいうのもなんだけど
似たもの同士だったのかもしれないな。
旧ザウルスのフィリプソン問題の話は
付き合い始めに一回話し合ったけど
後にも先にもその一回だけ。
遺恨は何もなかった。
僕らはいつも未来に向いて話をしていた。
僕はこう思うんだ。
自分が沈んだ時に
営利目的ではなく
手を差し伸べてくれた人は
一生の友人になれると。
つづく
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1/27
姑息な生き方はしない。
いつもそういう人生を心がけていた。
でもそういうのって
お金かかるね。
だけど金型を買い取ったことで
堂々と営業できるようになった。
2005年、年が明けると
釣具業界は慌ただしくなる。
コード ライフタイムデザインは
初めて大阪フィッシングショーに出展した。
メーカーを立てて
一年もせずにフィッシングショーへの出展とは
異例だったと思う。
しかしこれも旧ザウルスが倒産してからの出会いで
ある人に誘ってもらった。
毎年、4万とも5万人とも言われる
来場者のあるビッグイベント。
右も左も分からない状況だけど
そういうのに体当たりで進むのは好きな方なので
わずか150センチ幅のブースにできるだけ詰め込んだ。
途中、話を進めて頂いた人が様子を見に来てくれた。
勝手が分からなくてご期待に答えられるかどうか・・・と
謙遜気味にいうと
「何事も最初の一歩はそういうものですよ
今後にどう繋げるかですよ」
基本中の基本を身を持って再認識した。
「あ!」
その人が僕から目をそらし声をあげた。
誰かを見つけたようだ。
「小野山さん、紹介したい方がいます、来て」
人の群れをかき分けながら後ろを付いていく。
途中でその人が紹介したい方はどの人かすぐに判った。
背が高く、スーツの下の筋肉が容易に分かる
少々強面の顔。
なにより漂うオーラが違う。
行き着いた先は、やはりそうだった。
「○○さん、ザウルスキングの小野山さんです」と
紹介される。
ただならぬ妖気を感じていたので
いつもより深く頭をさげ挨拶をする。
「ああ、君か。よろしくお願いします」
毎度ながらの「ああ、君か」だ。
ちょっと笑いそうになった僕は
一瞬でひと太刀を浴びることになる。
「君、名前をかえたら?」
頭が真っ白になった。
顔が真っ赤になっていたと思う。
だからか、なんと返答したか覚えていない。
その方は知る人ぞ知る
釣り業界のドン。
旧ザウルスの倒産と
新ザウルスの再建にお怒りだろうけど
まさかうちの会社の名前を変えろと
言われるとは思ってもみなかった。
うちの名前が不愉快・・・
返答とブースに戻る挨拶は覚えていないけど
自分のブースの前で来場者に背を向けて
しばらくボーゼンとしていたのは覚えている。
気落ちするにはショックが強すぎたし
ショックが理解できないぐらい気落ちしていた。
つづく
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1/26
新ザウルスと別れを決めた。
まるで人生を賭けるように
旧ザウルス再建ばかりを考えていたから
友の会に続きまた落ち込むかと思いもしたが
いがいとサバサバしていた。
僕に再建活動は荷が重すぎだったのかもしれない。
逆に
則さんの周りにちゃんとした人たちがいるのかなと
不安になるぐらいだ。
あの人は信じた人の言うことを信じ過ぎたり
ああ見えて言いくるめられたりもする。
「ハイ、もう飲みすぎ!」とか
「それはカロリー高いからそれで終わり!」とか
健康面で注意してくれる人はいるのかなとか
色々考えてしまう。
ともあれ
決別したわけだから
余計なお世話といえばそうなる。
それからというもの
新ザウルスがもぞもぞと水面下で動き始め
様々なところにコンタクトを取り始めたので
色んな方面から連絡が入るようになった。
しばらく経ったある日。
フィンを作っている工場の
取締役の人から電話が入った。
誰もが知っている有名アングラーだ。
話はこうだ。
旧ザウルスのヴィブラの金型を手直しして
コードのフィンを制作しているのだが
その金型を買ってもらいたい。
これはそこの会社が
新ザウルス阻止に動いた事だった。
金額は金型三つで100万円。
なかなかの金額だ。
何人かに相談したがみんな口を揃えて
「やめたほうがいい」との事だった。
2、3日、じっくりと考えて電話を入れた。
「買います。所有権の名義変更をお願いします」
後日送られてきた
いくつかの書類に先方の会社とうちの会社との印鑑を押し
契約が終了した。
なんで買ったの!?
よく言われた。
まず、
倒産したとはいえ
旧ザウルスがお金を出して作った金型を使って
利益を出していたのが気持ち悪かった。
つぎに問屋さんが沢山売ってくれていたし
ショップさんからも大きな注文が入っていた。
堂々と金型の権利はうちにあります。
と言いたかった。
金型をくすねたと思われたくなかったので
そこそこの金額だったけど買取りを決めた。
これがまた
のちに問題を引き起こすのだけど
僕は堂々と商売がしたかったんだ。
つづく
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1/25
もしかしたら
僕の人生で一番楽しかった場所だったかもしれない。
自分のせいでそうなったのに
5年間いたその場所がなくなり
ポッカリと穴が空いていた。
その日はハウステンボスにあるマリーナの事務所で
打ち合わせをしていた。
そこに則さんから電話が掛かってきた。
席を外し電話に出ると
則さんが
「今日は大事な電話だ」という。
いよいよザウルスを再始動させるという。
僕は相槌だけで一言一句
再始動に向けてのプランを聞いていた。
そして最後に
「だからオマエにこっちに来てもらいたいんだ」
「へ?」
そう来るとは思いもしなかったので
ずいぶんと間の抜けた返事をしたと思う。
新しいザウルスに入れと?
「そうだ、バルサ50をオマエが背負ってほしい」
相槌も打てなかった。
不必要とされた僕を必要としてくれる人がいた。
正直にいうと悪い気はしなかった。
しなかったけれど
昔みたいに、ひとつ返事で答えきれなかった。
則さんが続ける。
「オマエの人生でこんなチャンスはないぞ
な、こっちに来い。その代わり・・・」
その代わり?
「今付き合っている連中とは手を切って来てくれ」
それは友達という意味でなく
この2004年で仲良くなった業界人や
ザウルスの取引会社、いわゆる債権者のことだろう。
いやいや、
ザウルス再建に制作会社の協力は不可欠でしょうよ。
それに再建って、ザウルスの借金はどうするんですか?
と詰め寄ると
「ザウルスの借金と新しいザウルスは何も関係ないだろ!」
と半ばキレ気味に返された。
僕のココロの中でプツンッと音がしたようだ。
倒産した会社の借金は新しい会社とは関係ない。
たしかに法律上はそうだろうけど
それでいいのだろうか。
そして
放り出されて苦労を共にしてきた
お世話になった会社とか仲間を切れと・・・
そのふたつは
あなたから聞きたくなかったです。
誰かの入れ知恵なんだと思ったけれど
僕は決別を選んだ。
つづく
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1/22
「やめてもらいたい」
友の会から通達された。
業界人がいると何かと面倒が起きる
たしかそういう理由だっただろうか。
もちろんそれだけではないだろうけど
「辞めてもらいたい」
この言葉が自分に向けられるとは
思ってもみなかったので
少々、動揺した。
ネットという環境の中で
ふたりで始めた会も
人が増え大所帯になっていき
運営も大変だったはずだ。
2003年までは本当に楽しかった。
だけど僕だけが
楽しいだけの会員だったのかもしれない。
続いている警察からの連絡や
いくつかの弁護士からの通達など
淡々とこなせてはいたけれど
どっちに転ぶかも分からない状況だったので
これ以上は迷惑を掛けたくはない。
僕の人生を変えたと言ってもいい会から
離れることに同意した。
たまに僕は調子の良いことを言う。
たまに考えもせず返答をする。
小学生の頃からか
いつの時も身を置くグループのために
必死で何かをする。
小学3年製の時に
集団万引きで捕まったことがある。
その時もグループがやるからやった。
そんな善も悪も意思表示できない理由は
たったひとつ。
グループから外されたくなかったから。
その時、初めて
ちゃんとした文字で頭に浮かんだ。
「なんと弱い人間なんだ」と。
そういうのを
ちゃんと分からせてくれた会には
すごく感謝している。
退会勧告がなければ
もっと嫌なお調子者がいたに違いない。
そんな中、
携帯電話が鳴る。
画面を見れば「則さん新携帯」
「大事な局面」が動き出した。
つづく
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1/21
それは誰でも書き込める
友の会の掲示板から始まった。
誰かがその掲示板に
「今、オークションに出ている
ザウルスのTシャツって本物ですか?」と
質問してきた。
それに対して
会のメンバーが
「あんなのは偽物だよ」と答えてあった。
すると違う人から
「偽物」というけれど
ザウルスは倒産してるのに
新しく出てるくる商品は本物と言えるのか?」
という書き込みがあり掲示板が荒れた。
ザウルスが倒産してそれまで
僕が内情をアレやらコレやら
掲示板に書くのはおかしいしと考えていたし
忙しさもあって掲示板の参加をしていなかった。
友人から連絡があり
その事を知らされる。
投稿文からすると
途中で止まっていた製品を完成させた
ザウルスの名が入る
救命具やブラウニーワレット、ジャケットなどの話だろうと
容易に推測できた。
また
あらためて掲示板をさかのぼって見てみると
この他にも荒れてる跡があった。
とてもじゃないけど
ザウルスキングならまだしも
ザウルスと親交があったとはいえ
いちファンサイトが言われる事ではなかった。
僕が答えられることもあったので
会にはすっかり迷惑を掛けてしまった。
そう思ったけれど
「大事な局面」を控えてるのもあったし
ザウルスが発注をかけていた製品を云々と
人に債権者の話もする気もなかったので
自分が決めたスタンスを守り
それからも書き込むことはなかった。
つづく
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1/20
実はザウルス出の仲の良いメーカーが集まって
総合カタログを作ろうかという話もあった。
ソルトウォーターでは
シービーワン、ソウルズ、ブリッジ
トラウトでは
エムアイレ、ソウルズ
バスではガウラクラフト
そしてうちのコード ライフタイムデザイン。
面白い企画だなと思ったけれど
それぞれがすぐに忙しくなって
途中で立ち消えした。
今考えると
ザウルス色をぬぐい去るには
なくなって良かったのかもしれない。
でもこういう話をみんなでしている時は
夢があって本当に楽しかった。
思えば
スポーツザウルスが倒産して
明けた2004年は
僕の人生で一番と言っていいほど
沢山の人と出会った。
しかも
2004年に出会った人は
今でも付き合いがある人が多い。
大変だったけど
一生懸命に付き合って
それは僕のかけがえのない財産になった。
たまにテレビの仕事とかあるけれど
突然、もう何年も連絡とってない友人から
「テレビ出てたねー見たよー」って
「この人はお父さんの友達なんだよって
子供に自慢したよ」って
そういう事言われるとやはり嬉しいよ。
恩返しの仕方が分からないから
頑張って続けて生きていくしかないんだよね。
さて、昔話に話を戻そう。
某オークションで
ザウルスのTシャツが販売されていた。
見たこともないTシャツのデザインだった。
それが結構売れているというのだ。
僕も覗いてみたけれど
ああ、偽物だとすぐに判った。
どうしてかというと
ザウルスはソルトウォーターやトラウト
そしてブラックバスの総合メーカーだったけど
それぞれにザウルスののロゴ文字は差別化されていた。
そのTシャツは
胸のロゴはトラウトで背中にバスのロゴがプリントされていた。
一枚のデザインに色んな魚種のロゴなんて
センスのいいザウルスには絶対に無い事。
僕は気にもとめてなかったが
数日後、
コレが僕を追い込むことになる。
つづく
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1/19
商標関係が決まる前の事だ。
ある人から連絡が入った。
それは
バイブレーションプラグ”ヴィブラ”
ザウルス時代からそれを作っていた制作会社が
製作するので販売できないか?と
その会社の社長からのコンタクトだった。
もとより
コード ライフタイムデザインは
債権者の手助けになるのであればと
立ち上げたメーカーなので
やってみましょうと軽く返答した。
ザウルスが倒産して
その会社に超有名ルアービルダーさんが席を置かれていたので
憧れのその人と仕事ができるというのも
快諾のひとつの要因であった。
ビルダーさんと電話でお話をさせて頂く。
その時の気持ちの高揚は今でも覚えている。
本来、ヴィブラは見切り発進で発売されたので
どうしてもウエイトを変更したいから
やらせてくれとの事だった。
もちろん返事はひとつだ。
沈下姿勢が従来のものより前のめりになり
仕上がってきた完全体ヴィヴラは
”フィン”と名づけてリリースした。
凄い反響だった。
それまで取扱店舗はあまりなかったが
全国の釣具屋さんから沢山注文を頂いた。
作っても作ってもザウルスキングの店舗には
並ばない状況が続いた。
ある問屋さんの目にも留まり
突然3.500個の注文が入ったりして
しばらくはプラスチックルアーでてんてこ舞いだった。
人助けと思ってやっていても
実際は少なからずとも利益は発生しているし
そういう風に人気が出たりすると
それを面白くないと思う連中も出てくる。
「コードはパクリメーカー」と言い放つ人も出てきたが
人に支えられて、人を支えてできた大きな輪
その中にいた僕のココロには
ちっとも響かなかった。
むしろ、みんなの笑いのネタだった。
確かに毎月毎月
すごい額の支払いに追われた。
だけど
僕の座右の銘のひとつでもある
「できる事をできるだけする」
これを守り通していれば
なんとかなるだろう
そう強く思っていた。
逆に気を抜けば
一気に僕というモノが崩れ落ちていくような
そんな気がしてならなかった。
つづく
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1/18
ザウルスが持っていた商標関係の入札。
結果から言うと
獲得する事ができなかった。
落札金額は
予想をはるかに上回る金額だった。
どういう計算であの金額を決められたかは理解もできないが
ひとつ言えるのは
今後、よほどの勝算があってのことだろう。
という事は再建、もしくは新規事業で
ザウルス商品が出てくる可能性が大きくなったという事だ。
負けてしまった。
僕の再建案はここで途絶える事になった。
その二日後だった。
某投稿系掲示板のザウルススレッド
ある一行に目が止まった。
「座右菌、商標取得失敗」
そのあとに続く
「お小遣いが少なかった」とか
「貧乏人」とかの連鎖書き込みはどうでもいい
むしろ笑えるが
問題なのは身近に投稿者がいる事だった。
商標入札は
弁護士や裁判所が絡んでいる事だし
なにより僕ひとりで参加した訳ではない。
一番厄介で気持ち悪く
持ちたくないモノが生まれた。
「疑心」
人を疑う事が苦手な僕は
いつも周りから「信じすぎ」と注意される。
実をいうと
すぐに投稿者を特定していた。
「座右菌、商標取得失敗」のあとに
入札金額が書かれていたが
実際の金額とは違っていた。
僕が話した中で、たったひとり
話の流れから金額を多く言った人がいたのだ。
その金額だった。
確かに彼は
倒産当初から心配してくれて連絡をマメによこしてくれた。
今までの状況もよく知っている。
掲示板のどうしてこれを知っているのかという投稿も
僕が伝えていた事だった。
疑心は本当に気持ち悪い。
問いただすか、とも考えたが
話したのは僕だからこのままにしておこうと決めた。
決めたけど
その彼とはそれから連絡を絶った。
その後、彼はひどく体調を壊し
仕事もできなくなったと聞いたけれど
友達伝いにお見舞いを言い
連絡はしなかった。
この事で連絡をしなかったことは
今でも僕は悔いている。
つづく
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1/15
ザウルス窃盗事件が明るみに出たのは
資産を売却して債権処理にまわす過程にでた
購入会社のクレームからだった。
某投稿系掲示板に
「座右菌」、すなわち
うちが犯人だという書き込みがあったことは書いたが
他にも犯人を特定するような投稿もあった。
どこから仕入れてきた話か知らないが
前後の文章からして
ただのイタズラ書きには思えなかった。
銀行が手を引いた木更津工場とログハウス。
デリバリーステーションの在庫。
そしてもうひとつ、
実はコレが一番重要だろうという物件があった。
「登録商標」
スポーツザウルスが持っていた
商品名や特許などのすべての権利だ。
それは入札形式で行われ
一番の高額提示者に購入権利が与えられる。
入札の場に来たのは3組の代表だった。
仮にA社、B社、C社としよう。
A社は釣りをしている人なら誰でも知っている
超メジャーブランド。
聞けば、バルサ50の商標を欲しいのは頷ける。
B社は聞いたことのないところで
C社はある連合だった。
実は僕、Cの連合に名前を連ねていた。
どうしてもザウルス再建には
この商標を持っていないとできない話なのである。
僕のその案を理解して頂いたある人から
お誘いを受け、ひとつ返事で参加させてもらった。
ロッドも、ルアーも、グッズも
再建できる準備は整いつつあった。
あとはこの商標だけである。
連合内の話し合いの結果
入札金額が決まり
あとは結果を待つだけだった。
つづく
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1/14
この年の夏は
また厄介なことが持ち上がっていた。
釣具業界を揺さぶるほどの大問題だった。
環境省の外来生物法である。
当時の環境大臣は
今の東京都知事。
彼女の記者会見は
釣具業界の人間なら
狂気と悪意に満ちていた顔に見えただろう。
パブリックコメントの募集もあったが
それに基づいた会合の議事録は非公開で
まったく何がどう動いているのか
分からないままだった。
ブラックバスの外来種法入りは
当初先延ばしされたが
翌年の1月に
彼女のあの会見だ。
「政治的な判断は我々がする」
凄い話だ。
環境省の上の方は
年間1000億円市場という巨大なブラックバス経済を気遣って
先延ばしを考えていたらしいが
ひとりの大臣の強気が外来種指定を決定的にした。
そういえばこの件に関しては
釣り関係のフリーカメラマンだった人が騒いでいた。
もう、名前からしてね。
ブラックバスの仕事は若手に譲ってたのだが
空前のバスブームと
若手写真家のセンスの良さに勝てず
仕事がなくなって困ったのだろう。
ブラックバスを悪者に仕立て上げた。
その環境大臣の会見に対する意見を求められ
「バス釣りで儲けてきた釣り業界に
駆除の費用を払ってもらったらいい」
と吠えた。
まさに狂気だ。
その写真家は
「ブラックバスがメダカを食う」
という本を出版して時の人となった。
しかしその本は
ゴーストライターが書いたものがバレて
もう一度、時の人になるのかと思っていたら
もう話題にもならなかった。
「時の人」
そんなものである。
その時の僕はまさに
歩く道を選び間違えれば
「時の人」になっていた。
つづく
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1/13
「もしもし、私、千葉県警の○○といいますが・・・」
電話をとった相手がこう名乗れば
さすがに身構える。
「ちょっとお話を聞かせてもらってよろしいですか?」
敬語だけど重く冷たい声。
「いや何ね、
私の後輩が釣り好きでして
倒産した会社の商品がずっと入荷しているので
聞いて欲しいと頼まれまして・・・」
やはり正義の味方は嘘が下手だ。
吹き出しそうになったのをグッと堪えて
ザウルスファンなら分かると思いますが・・・と
明るく応対していたが
頭の中ではフルで色んなケースを考えていた。
こんな事で絶対に電話はかけてこない。
なんらかの被害届が出たか
それとも誰かの指示か。
一度目の電話は
軽い聞き取りだけで終了した。
電話を切ったあとすぐに
ある人に事の経緯を伝えると
新しい話が出てきた。
ザウルス社のデリバリーステーション。
ここには商品の在庫があるのだけど
ここの商品が盗まれているらしい。
どうして分かったかというと
債権処理が進む中で
商品の在庫が売られた。
それをすべて買ったのはある会社。
確か、総額3億円ぐらいの商品だったと思うが
3.000万円にも届かない金額で取引された。
わずか1割の値段だ。
まあ、それは破格値とかでなく
倒産会社の商品とはそれぐらいの取引が常だそうだ。
そしてその会社が買い取ったあと
在庫リストと在庫を比較すると
あきらかに商品が足りなかったことに気づかれたそうだ。
100個あるからと買ったものが
90個しかなかったら怒るのも当然である。
そこで調べてみると
長崎にある店に商品が大量に入荷してて
ネットで販売してる事実を突き止めたって次第だろう。
しかし
警察から電話がかかってきたのも驚いたが
債権処理の話や在庫不足の話。
あげくはその会社がとった行動など
そういう話が表に出てきてる事のほうに
聞いていながら、もっと驚いた。
しかも忙しさのあまり見るのをサボっていた
某投稿系掲示板にもその事が上がっていた。
「泥棒の首謀者は座右菌」
という文字も見つけた。
かくして
千葉で起きた窃盗事件の第一容疑者になったのである。
つづく
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1/12
2004年の上半期は
本当に色んな方々に支えて頂いた。
倒産した会社の商品を買ってくれるお客さんは勿論のこと
困っているだろうと
チャーマス北村さんは
珍しいバルサファイブオーをくれた。
「売って足しにしろよ」
もちろん売ってお金に替えるわけがない。
愛知のプロショップのオーナーさんからも
日々の売り物や珍しいものを頂いた。
なによりも先日のロッドの制作に踏み出せたのは
オーナーさんがいなければ絶対無理だったこと。
50友の会や50好きの友人たちは
出版のための大事なルアーを貸出してくれた。
スポーツザウルス再建のための嘆願証明も
沢山の人の応援の証だった。
一期一会と簡単な言葉では済まされないほど
出会った人と大事に付き合うことの大事さを知った。
そういえば
その年の初め、
まだ倒産の波風が激しい頃、
則さんからもらった電話。
「オマエ大変だろ?
俺のデリバンとカヌー
それにバスタックルを詰めて送るように
指示したからよ、売るなりなんなり好きに使えよ」
支持されたヤツがストップをかけたか
支持されたヤツがくすねたか
その真意は
今となっては分からないけど
来なかったからホッとしている。
この人の優しさや応援に浸っていれた訳ではない。
それは店の固定電話にかかってきた。
「もしもし、私、千葉県警の○○といいますが・・・」
またひとつ
厄介事が湧いた。
つづく
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1/11
梅雨が明けた。
2004年の夏はいつもに増して暑かったのを覚えている。
7月にはスポーツザウルスの商品で未完のままだった
渓流用のルアー入れ
ブラウニーワレットが仕上がって販売を開始した。
やはり凄い人気だった。
そして8月の初め
千葉県袖ヶ浦から荷物が届いた。
ルアーのサンプルだ。
クランクベイトタイプのシェイクヒップに
ペンシルベイトのポンドスケーター。
いよいよハンドメイドによるバスブランド
ガウラクラフトの始動だ。
先行したシービーワンに続いて
大阪営業所に居た子もブリッジという
ジギングのメーカーを立ち上げた。
2001年に一緒にロシアに行った
正影くん、佐藤くんも
トラウトブランドで動いていた。
仲間内でシーバス部門はどうするって話になって
それでは僕がやりますかと手を上げた。
ザウルスキングでメーカーをする気はなかったので
ここでコードライフタイムデザインを立ち上げる。
交通機関が落ち着いた盆の終わり
長野県へ飛んだ。
長野県といえば釣りをしている方ならピンとくるだろう。
テンリュウブランクを使ってのロッド制作のためである。
テンリュウグループといえば
スポーツザウルスの債権者として
かなり大きい額を被ったところである。
そこには
スポーツザウルスのロッドの
未完成のブランクが沢山存在していた。
ピリピリとしたムードの中で商談を進めた。
しかしそういうムードにもすでに慣れてはいた。
この半年、ザウルスキングという名前を出しただけで
どこでもそんな雰囲気になる。
あらかたまとまりかけた最後に
会長さんから前金で払うように指示が出た。
シーバスロッド100本分を前払いである。
まあ信用もないので当然、
少々キツイ話になったと思ったときに
同行して頂いた愛知のプロショップのオーナーさんが
間髪入れずに口を開いた。
「コイツは大丈夫だから」
たった一言で納品後ひと月経ってからの後払いになった。
スポーツザウルスという、則弘祐という
後ろ盾を無くした僕は
ただの西の田舎の釣具屋ということ。
僕自身にはなんにも価値がないことを
あらためて再認識した一日だった。
逆に
信用を勝ち取れば物事を優位に運べること。
それを学んだ一日でもあった。
とにかくこの会社で信用を勝ち得て
シーバスロッドのラインナップだけでなく
スポーツザウルスの販売したロッドの修理を
受けてもらうことを目論んでいたから
佐世保に帰って真剣にメーカープランを立てたものである。
つづく
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1/8
則さんが低い声で言う。
「誰も戻ってこないんだ」
誰をどういう順序で
どういう誘い方をしたのか分からないが
どうも話の流れ的に
旧社員さん達に声をかけているらしい。
新しいザウルスのために
必要な人材ってことか。
僕はザウルスが倒産してからのこの6ヶ月間。
たくさんの人達と連絡をとっていたので
誰がどういう動きをしているのか
ある程度は把握していた。
考案ルアーが発売されているほどの
工房の主要人物のひとりは
話をもらって
戻ろうかどうか悩んでいると言っていたが
結局は戻らなかった。
まだ債権者会議も終わっていないのに
早すぎますよ。
そう伝えるが
新しいザウルスの事を考えれば
人材確保は急務だったのだろう。
この頃だったか、
ある人から連絡が入った。
債権者のひとつ
ある銀行が債権者から降りたらしい。
銀行が降りるとはどういう事だと聞けば
あの僕らが聖地と呼んでいた
木更津の工場と則さんのログハウスを
担保にとっていた銀行らしい。
そこが降りたという事は
その貸付け金額を回収したという事になる。
僕の手元には
債権者とその債権金額のリストがあったので
調べてみると
今となっては記憶が定かではないが
1.600万円ぐらいだったと思う。
それを誰かが支払って
あの物件を手にいれた。
ということになる。
普通の暮らしをしていたら
そいうのはあまり詳しくはない。
詳しくなくて当然だろうけど
大きなお金が動いたことと
そういう抜け出しができることに
とても驚いたものだった。
他の債権者の方のすべてが
これを知っているわけではないだろうけど
知ったら良い気はしないだろう。
世の中、平等なんて無いんだね。
かくして
債権者会議が終わる前に
木更津の工場と則さんのログハウスは
誰かのモノになった。
モノは取り返せても
人のココロは取り返せなかった。
そんなところだろう。
つづく
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1/7
初めての著者だったので
確か300冊ぐらいサインをしたと思う。
左手の包帯に血がにじんでいたので
それが本につかないように気をつけながらね。
店内もみんなが手伝ってくれて
ようやく落ち着きをみせた6月
佐世保では小学生6年生の女の子が学校で
同級生をカッターナイフで殺害した事件で大騒ぎになっていた。
街全体が重く、暗い雰囲気に溢れていた。
そんな中、
スポーツザウルスが倒産して
バラバラになったエキスパート達が
個々にブランドを立ち上げ始める。
最初に立ち上がったのは
チャーマス北村さんをメインにした
ソルトウォーターのシービーワンだ。
グッズが先行販売され
続いてロッドがリリースされた。
ステッピンフラッターの製作者
笠井くんが作った新しいバスブランド
ハイファイブのルアー、「ハイボール」のサンプルも届いた。
愛くるしいそのルアーはテーブルターンが得意で
こだわってこだわり抜いたルアーは
さすが奇才、思わず唸ってしまう。
そうやってみんなが立ち上がり始めたので
明るい話題に随分と救われた。
携帯電話が鳴る。
小さな白黒の画面をみると
「則さん新携帯」とでていた。
そうだった。
出版の報告をしていなかった。
何を言われるやらと恐る恐る出ると
「則さんだ」といがいと元気そうな声。
「なんだよオマエ、水臭いな〜
ファイブオーの本をやってるなら言えよ
協力できること沢山あるだろよ」
そりゃあ出来るなら一緒にやりたいですよ
でも、そういう時期じゃないでしょ?
と返すと
「ま、そうだな
とにかく5冊ほど送ってくれよ」
どこにいるんですか?
と言った瞬間に
あ、聞かないほうがよかったかと思いもしたが
聞かされた住所は
東京の聞いたことがある会社名だった。
しばらくぶりの電話だったので
聞きたいことも、言いたいことも
沢山あったけれど
今日はこれぐらいにしておこうと思ったとき
急に則さんの声のトーンが変わった。
つづく
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1/6
左手の手術を終えた次の日から
毎日、消毒に病院に通う。
包帯を取るたびに
毎回おぞましい光景を目にする。
たぶん肉がかなり無くなったのだろう
手のひらを寄せて縫われていたので
手が肉まんを食べる時のカタチだ。
その内側からはストローが2本
中からでてきている。
膿をここから出すらしい。
僕にしては大惨事だが
先生いわく
「キミは運が良い」だと。
手首のしたの方から刃が通った跡があるが
大きな血管の上をステップして通っている。
コレを切っていたらこんなものでは済まなかったらしい。
この左手は17年経った今でも
小学生なみの握力と
まったくチカラが入らない小指
寄せ集められたためにできた大きなシワ
そのままである。
痛みに耐えながらも
僕には癒しの空間があった。
改装後の店内、その一番後ろの壁に
僕の釣具コレクションを並べてある。
その設置や配置替えは
右手一本でもできる。
普段仕舞ってあるルアーも
ボックスから出してズラリと並べる。
並べてはニヤニヤ。
並べ替えてはニヤニヤ。
何もできないから暇でしょうがなかった。
しかしこれが
更なる大惨事を引き起こすとは
この時は知る由もなかった。
そして5月21日。
初めての著書、
「永遠のスタンダード、バルサ50」が
入荷した。
つづく
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1/5
それまでコンクリートの打ちっぱなしの床と壁を大改装。
床は耐水性の塗料を塗り込み
壁はログハウス調の丸太を打ち付け
50坪弱の店内を前半分を店舗、
後ろ半分を工房と事務所として分けた。
後ろの壁には
僕のアンバサダーのコレクションや
ルアーを無造作にかけ
さながら趣味のログハウスと言わんばかりだった。
これも則さんのログハウスを意識していたのだと思う。
アレは今でも憧れだ。
店はカッコ良くなったけれど
なにせメインの仕入先が無くなったものだから
問屋さんに連絡を入れて
普通の釣具屋っぽく色んな商品を置くこととなった。
心機一転、釣具屋のやり直しである。
「永遠のスタンダード、バルサ50」も
最終チェックを終え僕の手を離れ
あとは発売を待つだけとなった。
5月9日。
出版という大きな仕事を終え
気が抜けていたのだと思う。
常連たちが使う裏の勝手口がある。
そこの段差がどうも気になった。
その段差でつまづかないように
角材で段差を埋めるため
電動丸ノコを使って切断していた。
その時の事をあまりよく覚えていない。
角材と固定していた左手を持ち替えようとした時に
それは起こった。
ダーーンという音と同時に
角材が飛び跳ねたのは
スローモーションで記憶にある。
気が付けば
あたり一面、血だらけだった。
持ち替えた場所が
勢いよく回っている電動丸ノコの刃だった。
手のひらはズタズタに引き裂かれ
表面がパックリとふたつに割れていた。
普通なら救急車を呼ぶべきだろうけど
店の裏に大きな総合病院があるので
ビニール袋に拳を入れ
手首を縛り付け
たまたま来ていた友人に乗せていってもらった。
自分で
「すみません、急患です」と受付で言った。
差し出した手のビニール袋はすでに
輸血時の血液パックぐらい
血が溜まっていた。
すぐに処置室に通され
麻酔を手のひらに何箇所も打たれる。
思えばコレが一番痛かったかもしれない。
結局、手のひらを20針も縫う大惨事だった。
僕の左手を粉砕したこの電動丸ノコは
自分への戒めのために
今も僕のデスクの後ろに飾ってある。
つづく
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12/24
中学生の頃
明日は大事なテストがあるという事で
普段はまったく勉強しないものだから
朝まで一夜漬けの勉強をするタイプだった。
しかし
晩ご飯も食べた
お風呂も入った
さあ、勉強始めるかってところで
必ず机の上の整理を始める。
上が片付いたら
本棚や引き出しの中まで整理を始める。
途中、手にとったマンガ本を読んでしまう。
そして朝になる。
忙しい時ほど
何か別のことを始めてしまう。
そういう悪い癖があった。
「永遠のスタンダード、バルサ50」を
大急ぎで仕上げてる時もやってしまった。
店舗の大改装。
陳列棚の整理どころの話ではなく
床板から全部換えた。
といってもほとんどを
仲間たちやお客さんたちがやってくれた。
ありがたい話である。
そして僕は東京へ。
今回は観光も美味しいものも何もない。
出版社にカンヅメで校生作業だ。
校生は間違い探し
目で追うとスラスラと流してしまうので気づかない事が多い。
だから声に出して読む。
さすがに人前では
「あとがき」を声に出して読みきれなかったが・・・
2日間みっちりとやって
僕の本作りは終了した。
今回、急いでいたのには理由があった。
バルサファイブオーの商標権利は
当然、スポーツザウルスにあるのだけど
そこが倒産して権利が空白な時に発売しようという事だ。
許可申請や挨拶回り、契約金の問題など
ややこしい問題をこなさなくて済む。
そしてもうひとつ
編集長Eさんの頭にはひとつの案があった。
「Vo.2がVo.1を超えたことはない」
これはどれにでも当てはまる方式で
分かりやく言うと
映画のVo.1がヒットして
Vo.2を出してもVo.1の売り上げを超えない。
そういう事だった。
編集長Eさんは
Vo.2でVo.1を超えてやろうと考えていた。
最初に出版する
「永遠のスタンダード、バルサ50」は
その歴史書として文字中心の本にし
Vo.2はルアーの写真集を出して
Vo.1を超えようと考えていた。
ワクワクするような話にすぐに飛びついた。
表紙は僕の好きなホッツィートッツィーに決まり
あとは印刷の仕上がりを待つだけになった。
つづく
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12/24
4月も半ば
一週間ほど集中してやっていた原稿書きを
いったん中断して
釣りの遠征の準備にとりかかる。
いつもの山口のダム。
年々シビアになっては来てるけど
50センチアップを今年も見れた。
釣ったのは僕でなく
前席に乗っていた編集長Eさん。
風も止んだ夕暮れのワンド。
減水して顔を出した石垣。
そこを通したルアーに強烈なアタック。
あんな激しい出方、久しぶりだった。
時間の余裕があるバス釣りは
本当にいいものだ。
もちろん、編集長Eさんがいるってことは
ちゃんと仕事ってことだ。
そして、その遠征中に
一回目のザウルス債権者会議があった。
則さんも出席していて
会議に出席した債権者でもある友人がいうには
もう、しどろもどろだったそうだ。
則さんの
「俺が良いって言ってんだから、いいんだよ」
と強気の言葉を吐くのを知っているから
しどろもどろだったと聞くと
倒産させたのは本人と分かっていても
ちょっと心配になる。
「なんか俺、騙されてんじゃねーかな」
と弱気の言葉も頭に浮かぶ。
そういう事を考えながら帰る道のりは
通い慣れた道のはずなのに
永く、永く感じたものだった。
つづく
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12/23
岡山から帰ってきて
僕は一心不乱に原稿を書き続けた。
原稿を書く極意は
とにかく無心で、大量に書く。
まずは一気に書く。
一度ピリオドを打った文章というモノは
増やす事より減らす事の方が容易なのだ。
と、編集長Eさんに教わった。
それ以降、沢山の寄稿の仕事をやっているけれど
今でもこの教えを守っている。
しかし僕はどちらかというと
釣行記の方が得意だ。
自分が体験した風景や時の流れを
文章にするほうが面白い。
説明文はどうも苦手だ。
設定した目次の半分ぐらいを書き上げた時だったか
則さんから聞いた話を文章にした時だったと思う。
急にほろっと涙が落ちた。
その話を聞いてた時の風景が頭に浮かぶ。
しかめっ面から始まって
最後にニカッと笑う則さん。
ずるいよ、その笑顔。
しばらくボーっとしていた。
声、聞きたいな・・・
でも電話はしない。
この本を作っている事は内緒にしていたし
原稿を終わらせるまで電話も控えようと決めていたからだ。
僕は今まで書き上げたモノを保存して
新しいフォルダーを作りにかかった。
今の想いを指先からキーボードに伝える。
まるで何かに取り憑かれたように叩く。叩く。
ありえない程の短時間で
一気に書き上げたその文章は
見直してみても削除する部分がなかった。
フォルダーに名前を入れ保存する。
それをメールに添付して出版社に送信する。
この本は早く出版したかったので
原稿書きと編集作業を同時に行っていました。
ですから
ひとつの目次項目が完成する度に
出版社に送っていたのです。
すぐに編集長から携帯に電話がありました。
「なんか、着てますが?」
と冷めた声。
ああ、急に書きたくなって・・・と僕。
「まだまだ先は長いっすよ」
怒られた。
僕が道半ばで
短時間で一気に書き上げたフォルダー名は
「あとがき」
そうなのです。
あの本の「あとがき」は
「あと」でなく、途中で書いたものだったのです。
つづく
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