・ホットライン
3.11
1997年から2011年まで
お話してきましたが
なんと去年の8月から
7か月も書いてきてるのですね。
びっくりするぐらいアクセス数が上がりました。
驚くほどの反響でした。
ありがたいお話です。
読まれてきた方は
途中で変に感じた方もおられたと思います。
話が飛んだり、時系列がズレたりしてます。
これはどういう事かというと
これは(今のところ)マズイなと思ったところは切り取っています。
7か月も書いてきたのですが
あっプしているのは全体の半分ぐらいの量です。
原文は実名アリの事実アリの
なんでもアリです。
よく
「この話は墓場まで持っていく」って言葉がありますが
こんな話、あの世に持っていきませんよ。
あの世では第二の人生を楽しむため
この話は現世に置いていきます。
そう、僕が死んだら
原文が出てきます。
お楽しみに!
って
まだ死なないですよ。
笑笑笑
7か月間にわたって書いてきた
ザウルスキングの第一章は
今日で終了です。
長い間読んでいただき
ありがとうございました。
3.10
則さんの訃報や近所に大型店舗ができたことで
モヤモヤしていた事の解決策が見つかりました。
「移転」
なんだかんだ言っても一番の理由は
それまでのザウルスキングは
国道沿いに2階建ての建物を
丸々一棟借りていたので
家賃も高かったというのがあります。
2010年
その年の年末に移転を敢行
今の場所へ引っ越してきました。
2011年から新規一転頑張る決意でした。
結局はあまりの荷物の多さに
1月いっぱい引っ越しは続いたんですけどね。
そして3月11日の金曜日
あの日を迎えます。
忘れもしません。
博多と鹿児島を結ぶ九州新幹線の開業で
九州では賑わっていた時でした。
14時46分に東日本大震災が発生。
津波が陸地を駆け上がるその光景は
生涯、忘れることはないでしょう。
東北地方に暮らす友人たちにも連絡がつかず
あの時の気持ちはもう経験したくはありません。
状況を知るためにラジオをつけました。
FM長崎ではテンションの高い男が
九州新幹線開業で騒いでいました。
すぐに今、日本で何が起きているのか知らないのか?と
抗議の連絡をいれました。
それ以来、その男の声がするとスイッチを切ります。
いやむしろFM長崎を聞かなくなりましたね。
スポンサーだなんだで
気持ちも分かりますが・・・
日本の一大事
物資を送り、募金を送りしましたが
自分の労力を使っていないことに
やるせない思いが募ります。
自分も贅沢はやめよう。
ザウルスキング開業以来
手足となって動いてくれた
ランドクルーザー100を降りる事をはじめに
贅沢品は手放しました。
しかし
バルサ50のコレクションだけは
手放せなかったです。
つづく
3.9
ザウルスキングの10周年で
店を閉めようと考えていたのは
則さんやザウルスの事
そして軌道に乗ったみんなのメーカーだけの話ではなかったのです。
全国規模の話ですが
釣り具のプロショップというのが
軒並み閉店に追い込まれていた時期だったのです。
本来、プロショップというのは
釣りをやりこんだ店主がいて
どれについて来てるお客さんがいて
そして何よりも
量販店にはない商品が
セレクトショップ的に並んでいる魅力がありました。
しかしこの頃になると
大手量販店にもそれらが並ぶようになったのです。
僕もメーカーを持っているので理解はしています。
小さなプロショップだけの売り上げだけでは
なかなか回らなくなってきているのが業界の状況でした。
それともうひとつ
インターネット。
これが最大の敵になりました。
僕もインターネットからの出店だったのですが
ネットで買い物ができる世の中が確率されてきました。
でもインターネットが最大の敵というのはそこではなく
「情報が手に入る」ことです。
僕らの時代の釣具屋の使い方は
お店に行って得られる情報が多く
釣れてる場所や釣り方、ルアーの種類やカラーまで
店主やスタッフさんに教えてもらい
それを買っていくというもの。
しかしネットで情報はすぐに手に入れれる。
あとはネットショップや価格が安いところで
買いそろえればいい。
そういう、なんか、つながりのない、
つまらない状況になりつつありました。
立地条件や掴んでいるお客さんの量もあるのでしょうが
そういった意味で全国のプロショップが苦境にさらされます。
国道沿いに構えていたザウルスキングも
2軒となりに大きな量販店ができました。
もともとコアなお客さんばかりだったので
お客さんが減った感はなかったのですが
安くもないし、ポイントもつかないし
なんといっても物量が違いすぎる。
売れるものが限られていく淋しさを感じてました。
この頃は
朝から夕方までザウルスキング。
夜からカフェのほうに出てました。
夜、カフェのほうに田代誠一郎船長がやってきました。
則さんが亡くなった話から
店のことまで話すと
それまで何も言わず聞いていた彼が一言
たった一言だけ言いました。
「やめさせません」
ザウルスキングはまだ続くことになりました。
つづく
3.8
2010年
もう少しで10周年を迎えようとしていた前の月。
7月30日。
友人から連絡が入った。
「今朝、則さんが亡くなった」
脳幹出血だったそうだ。
ひとつの時代が幕を降ろした。
その昔
若い則さんが相模湖で
不思議な釣りをしている外国人に詰め寄り
ルアーによるブラックバス釣りが始まった。
その釣りをずっと牽引して
それがトラウトやソルトウォーターフィッシングまで
波及していった。
いま、ルアー釣りをしている若い子たちに
則さんの名前を言っても知らない人ばかり。
アルファ&クラフトや
スポーツザウルスさえ知らない。
けれども
みんな則さんの子たちだ。
オヤジと呼ばれるのを嫌っていたけれど
みんな則さんの子たちだ。
ザウルスキングの10周年を前に
この訃報を聞いて
僕は10周年と同時に
ザウルスキングを閉めようと考えました。
スポーツザウルスから派生したメーカーは
どこも順調に進んでいたから
それをサポートするのがザウルスキングとも考えていたし
丁度いいラインかなと思った。
もともとバルサファイブオーと則さんが好きで
もっと広めたいと思ってこのショップをオープンさせて
どちらも無くなったのなら
もうここらでいいかなと・・・
則さんが他界して
極度の脱力感がそう思わせたかもしれないが
10周年を前にひとりで決めたことでした。
つづく
3.5
年が明けて2010年。
ザウルスキング10周年だった。
DVDのキャスト達の
心配していたモチベーションは
下がることはなかったが
気圧は急激に下がってきていた。
出航2日前
予報は波高3メートル。
田代誠一郎船長は決断した。
「出ます!」
出航前日
キャスト達と取材クルーが唐津入り
一緒に飯を食い
早々にホテルに入る。
部屋のベッド横の窓ガラスは
ガタガタと北風を受けて音を立てる。
どこまでもシケがついてくる。
珍しくい眠れないまま朝を迎えた。
港についてバタバタと準備を進めていると
ライターさんが話しかけてきた。
「小野山さん、編集長からの伝言です
くれぐれも真面目にお願いします」
ん〜伝言というか指令だな。
そして僕らは
今日生まれたばかりの新しい海に旅立った。
防波堤をこえると
船体が大きく揺れた。
先端から大きく波が襲い掛かる。
まるで船足を止めるかのように
容赦なく風防をたたく北風。
船長が慌ただしく舵を切り
波と波の間を縫うように走らせる。
この海況なら
ほかの船は一切出航していないだろう。
それからの模様は
DVDの通りです。
釣れた順番も
2日目がノーフィッシュという事も
ハウツーものでありながら
しっかりとドキュメンタリーになっていました。
大阪フィッシングショーには間に合わなかったけれど
東京であったSFPCに
編集長と製作者がプロモーションDVDを仕上げて
持ってきてくれました。
その頃からです
「小野山P」と呼ばれるようになったのは。
プロデューサーのPですね。
みんなふざけて呼ぶけど
僕は気に入っているのです。
このDVDの制作に携わった事によって
船長もアングラー達もそうだろうけど
何かひとつ得た感覚が
しっかりと感じられたものです。
つづく
3.4
それからというもの
沢山釣りをして、沢山仕事をした。
もしかしたら
一番釣りというものに向き合った数年間かもしれない。
一番釣りをしたということではない。
いつものバス釣りをしながら
バスルアーを作り
ジギングとキャスティング
そしてショアでのキャスティングも
ソルトウォーターでの釣りを突き詰めていった。
若い連中を連れていって
教えるだけの釣りも多くなっていった。
遊漁船ででて一回もロッドを持たなかったことも多くなっていった。
DVD制作や企画やプロデュースに没頭し始めたのもこの頃だった。
それが実を結んだのが
2010年3月にエイ出版より発売されたDVD
「ヒラマサキャスティング完全解説」
でした。
今でこそ
いろんなエディアに出ている田代誠一郎船長ですが
実はそれまで映像には出ていませんでした。
2008年にヒラマサキャスティングを経験して
2009年の春、
田代誠一郎船長と
今のスタイルを映像にしようと話をしてました。
すぐさま僕は
ソルトワールド誌の当時の編集長に企画を打診しました。
船長主体の釣りDVD案です。
船長の考えをアングラーが具現化していくという
それまでまったくなかったスタイルです。
ひと月後、出版社からOKを頂き
すべて僕に任せてもらえることになりました。
ただひとつ
僕はドキュメント物にしたかったのですが
ハウツー物にしてくれという要望だけでした。
完成品はしっかりドキュメント風になってましたね。
時系列のごまかし無しです。
一番考えを巡らせたのは
釣り人のキャスティングでした。
僕の中には8人の候補がいて
ひとりは確定している状態。
ただ大事にしたかったのが
嘘偽り、作り話のないDVD作り。
玄界灘で、サンライズで、
ヒラマサを追い続けている釣り人でなくてはならない。
そこが重要でした。
まずは確定している
シービーワンの佐野ヒロムに連絡。
もちろん一つ返事でOKをもらった。
次に連絡をとったのは
メロン屋工房の永井くん
そして最後に
MCワークスの末次くん。
夏に田代船長とふたりで
MCワークスに直接出演願いをしに行った。
熊谷さんはしっかりと話を聞いてくれ
快諾をして頂いた。
ここに
映像では絶対に一緒に映ることのない
ドリームチームが完成した。
その年の夏、僕は街中にカフェをオープンさせた。
4月頃から自分たちで作っていった。
身体は店作り、
頭はこのDVD作りに費やしたといっても過言ではない。
出港は11月11日に決定。
11月8日、2,3日は静かな海になりそうだった。
11月9日、取材陣からGOサインが出る。
11月10日、玄界灘に突然、爆弾低気圧が発生する。
11月11日、当日。
今年最強の大シケとなり
海と僕のココロは完全に封鎖された。
予定では翌年のフィッシングショーで
プロモーションをしたかったので
どうしても年内にやりたかったけれど
そうも行かず
11月13日、次の予定を翌年1月上旬に決定する。
問題は2か月間
モチベーションが続くかだった。
つづく
3.3
とにかく海釣りに明け暮れた2006年だった。
初めてトカラ列島に行ったのもこの年。
GT、ジャイアントトレバリーという強靭な魚に虜になった。
本格的にヒラスズキに通い始めたのもこの年。
自分たちで見つけたフィールドに通い詰めた。
荒磯からトップウォータープラグでサラシを攻めるこの釣りは
バス釣りの要素があってすぐにハマった。
しかもそのポイントは
潮位と時間の関係で行けるのが限られているという
閉ざされたポイントで
風向きによっては餌となるベイトフィッシュが溜まり
あたり一面、ヒラスズキのナブラがたつスーパーポイントだった。
ここでの釣りはソルトワールド誌で紹介したし
翌年、DVDでCODEから発売もした。
本当に釣り以外
話題がなにもない一年だった。
2007年、年が明けて
大阪フィッシングショーの出展のために
年明けから慌ただしく動いた。
この頃は大阪で仕事する機会も多く
またバスのビルダーさん達も多く
友人たちの幅も広がっていった。
その時はまだ道楽にいた藤原ユーイチも
会場に遊びに来てくれ、久しぶりに再会した。
大阪に行くと
メーカーさんやや友人たちと過ごす時間も増え
つきあい飲みも増えてきた。
そうなると当然
昔話からザウルスの話題も出てくる。
ある集まりでの事。
ザウルスの話になったときに
大阪の知人が口を開いた。
「ザウルスの倉庫から商品が無くなった話はさ・・・」
驚いた。
一言一句、逃さず聞いた。
それは完璧な話だった。
僕が今まで誰にも話さなかった事を
完璧に知っていた。
普通なら少々話が大きくなったり
尾びれがついたりするものだろうけど
そんな事もなく
気持ち悪いぐらいに完璧だった。
僕は聞いた。
どうしてそれを知っているの?
「そんなん皆知っとるで」と
軽く答えられた。
いつまでも付きまとう話に
楽しい飲み会はクローズになった。
つづく
3.2
2006年、夏頃だったかな。
ジギングを覚えたての頃
平戸の友人の紹介で
一栄丸の先代船長と知り合った。
船も今の立派なモノではなく
漁船を使ってのジギングだった。
排気ガスが横から出ていて
左舷側での釣りはいつも気持ち悪くなっていたが
港が店から近いこともあり
よく通ったものだ。
僕としてはバス釣りを覚えたての頃に
よく似たものを感じていた。
バス釣りを覚えたての頃といえば
今みたいにネットで検索とかして調べるものでなく
走り回って、走り回って
その池にバスがいるのかさえも分からないのに
キャストし続けた。
釣れるまで分からないちう状況だ。
だからこそ
見つけたフィールドは格別なものがあったし
その達成感は実に大きなものだった。
ジギングは釣れるポイントこそ船長に連れて行ってもらえるが
そこからが勝負。
なんにも見えない海の中を鉛のジグで探って魚を出す。
ジグを動かしていると突然
「ズドン!」とくる衝撃に随分と病みつきになったものだ。
ある日、船長が店に遊びに来た。
相談があるという。
「息子が遊漁船をしたいと言いよる」
玄界灘の対馬と壱岐の間の海域では
クロマグロがよく釣れている時期だったので
僕は大賛成をした。
一栄丸はより大きな新造船を就航させ
今では大人気となった息子、ターボ船長が動き始めた。
僕はトップウォーターのバス釣りをしている連中を
どんどん誘った。
それには理由があった。
ペンシルべイトの動かし方がとてもうまく
ラインのたるみ
ロッド操作での張りと緩み
ルアーの大小の差はあれど
基本操作は一緒。
すぐにキレイなS字を描いて
すぐに結果が出て行った。
その頃同じくして
田代誠一郎船長が駆る「鰤走シワス」が訳あって
新造船「新海サンライズ」を就航させる。
みんながクロマグロを躍起になって追いかけていた時に
彼は新しいターゲットを模索してた。
トップウォーターでのヒラマサキャスティングゲームだった。
つづく
2.26
ザウルスキングへの泥棒騒ぎもひと段落。
盗まれて、取り返すために使った金額は一円も出ず。
盗まれて、出てこなかったモノは泣き寝入り。
すっからかんどころかマイナスからの再出発。
しかし、持ち前の立ち直りの早さでスッキリとした気分だった。
2006年は
CODEのルアー制作と
バスからオフショアの釣りまで走りまわっていたので
意外と釣りをした時間が多かった。
9月には
バス雑誌の取材で紀伊半島を訪れ
池原ダムでバス釣りと熊野の旅の取材をこなしていた。
最終日の夕方5時に和歌山県の山奥にある
那智の滝で取材を終えて
翌朝の6時にはソルトウォーター雑誌の取材で
対馬海峡の船の上にいるという
今思えばとんでもない忙しさだった。
そのバス雑誌の仕事は確か
「釣り人よ旅に出よう」みたいな特集だったと思う。
ビッグレイク、池原ダムで釣りをするのだから
当然、熊野の主、浜松光さんにお世話になる。
5年ぶりの再開だった。
当時の雑誌にも書いたけれど
車同士で路肩で待ち合わせとなったその日
浜松さんの車の後ろに止まって
もたついているとガチャっとドアが開いた。
驚いて外をみると
もうすでに浜松さんが横に立っていて
「いらっしゃい、よく来たね」と
右手を差し出してきてくれた。
見事な居合抜き。
もうすでに人間としての、男としての勝負は決していた。
夜、焼き肉をごちそうになり
盛り上がったまま
浜松さんの行きつけのスナックに誘われる。
そこでは先ほどまでの大笑いは鳴りを潜め
間接照明のうすぐらいカウンターで
浜松さんは、突然しんみりと話始めた。
「大変だったろ?迷惑をかけたよな」
いえいえと返事すると
浜松さんは続けた。
「すまないけど・・・
則のこと、許してやってはくれまいか?」
許すも何も、怒ってもいないし、
迷惑かかったさえも感じてなかったが
浜松さんのこの言葉に
それを伝えるのも野暮かと感じて
僕は黙ったままだった。
そんな事よりと言っては失礼だけど
それを言える浜松さんの男気に
震えるぐらいの凄さを感じた。
話を聞けば
倒産してすぐに則さんから連絡があったらしい。
浜松さんは多くを聞かずに
「和歌山に来なよ、俺の所にいればいい」と言ったそうだ。
善悪と友情は離して考える。
友人が困っているのなら手を差し伸べる。
浜松さんから大事なことを教わった。
とにかく凄い人だった。
つづく
2.25
オジサン刑事からの電話。
この人は普段から事件以外の事でも
電話してくるので軽く出た。
すると
「社長、捕まったよ」
確か「えっ?」って言ったと思う。
犯人は福岡から車を走らせながら
めぼしいところを見つけては
盗みに入っていたらしい。
確かにあの頃
国道沿いに事件が多発していた。
別件逮捕からの余罪追及で出てきたそうだ。
しかし
盗んでは売り飛ばし、そして使いを繰り返し
返済能力はないとされた。
要するに「盗られ損」ということになる。
今度、店に犯人をつれて実況見分に来るという。
刑事さんに「僕は何をするか分からないよ」と言うと
「壁作ってやるから一発殴っていいよ」と了解を得た。
実況見分当日。
オジサン刑事が明るくひとりで入ってきた。
「どーも、どーも、今からいいかな?」
僕も明るく軽く「おっけぇーっすよ」と答える。
ズボンのポッケの中にはカッターナイフ。
殴って拳が痛くなったら嫌だからね。
事務所の奥で構えていると
オジサン刑事の合図で
警察の方が5,6人、ドヤドヤと窓の外に見えた。
オジサン刑事が近寄ってきながら
「すぐ済むけんね」
もっと近寄ってきて
「ごめん、今日はちょっと我慢しとって」
と小声で言った。
そりゃそうだよね。
いろいろあるんでしょう。
この人は好きだから堪えることにする。
というより、できるわけがない。
ここで少し考えた。
ザウルスキングを
瀕死の状態まで追い込んだ、
僕の思い出までも奪い取った。
犯人は許せない。
しかしだ。
再出発をするのに
犯人のイメージを頭の中に残していいのか?
報復ができないのなら
恨む対象の顔を、人となりを
僕の中に取り込んでいいのか?
僕は嫌いなモノは頭の中から削除できる。
削除しないとそれを考えるだけで時間がもったいない。
どうせ後に削除するのなら
入れない方が
知らないままのほうが再出発しやすいのではないか?
静かに進む実況見分。
僕はそれに背を向けてずっと目を閉じていた。
つづく
2.22
このオジサン刑事とはウマがあった。
ノリがよすぎて後ろで若い刑事がスンマセンと
手を合わせるシーンもしばしば。
オジサン刑事が最初に何をしたかというと
押収品として保管されていた商品を
全部、戻してくれた。
「まったく、なんばしようとかね
こんなんはすぐに返してやらな」
前の担当刑事がほったらかしだったそうだ。
前の担当刑事はどうしてるんですか?と聞けば
「あー伊藤さんね
あの人は移動になったよ」
僕はまるで勝ち誇ったように笑いながら
「仕事しないからね」と言うと
「定年前は楽な仕事に移るとさ」
一変、イラッとした。
だからヤル気がなかったのか。
それだけでなく
保管されている押収物は
どうも自分で見つけたような事になっているらしい。
もっともっと言うと
捜査上に「自作自演の可能性あり」とあったらしい。
これだけ盗られて
ひょうひょうとしている。
落ち込んでいない。
足跡に迷いがない。
そういう理由だそうだ。
もう額の血管がピキピキいいながらも
ひょうひょうと聞いていた。
若い刑事がもうコレ以上はと思ったのか
「〇〇さん、そろそろ」と表に連れ出した。
「また連絡するけんねーーー」
なんでも話してくれる
良いオジサン刑事さんだった。
2,3日後
そのオジサン刑事から電話が入る。
はいはいと出ると
「おー今夜飲み行こうか!」
飲みの誘いだった。
最初から担当がこの人だったら良かったのに。
そしてすぐに
事件は動き始めるのだった。
つづく
2.19
このオジサン刑事とはウマがあった。
ノリがよすぎて後ろで若い刑事がスンマセンと
手を合わせるシーンもしばしば。
オジサン刑事が最初に何をしたかというと
押収品として保管されていた商品を
全部、戻してくれた。
「まったく、なんばしようとかね
こんなんはすぐに返してやらな」
前の担当刑事がほったらかしだったそうだ。
前の担当刑事はどうしてるんですか?と聞けば
「あー伊藤さんね
あの人は移動になったよ」
僕はまるで勝ち誇ったように笑いながら
「仕事しないからね」と言うと
「定年前は楽な仕事に移るとさ」
一変、イラッとした。
だからヤル気がなかったのか。
それだけでなく
保管されている押収物は
どうも自分で見つけたような事になっているらしい。
もっともっと言うと
捜査上に「自作自演の可能性あり」とあったらしい。
これだけ盗られて
ひょうひょうとしている。
落ち込んでいない。
足跡に迷いがない。
そういう理由だそうだ。
もう額の血管がピキピキいいながらも
ひょうひょうと聞いていた。
若い刑事がもうコレ以上はと思ったのか
「〇〇さん、そろそろ」と表に連れ出した。
「また連絡するけんねーーー」
なんでも話してくれる
良いオジサン刑事さんだった。
2,3日後
そのオジサン刑事から電話が入る。
はいはいと出ると
「おー今夜飲み行こうか!」
飲みの誘いだった。
最初から担当がこの人だったら良かったのに。
そしてすぐに
事件は動き始めるのだった。
つづく
2.18
福岡にあるその場所の捜査結果は
「持ち込みを買い取った」
「水曜日に売った」
「全部なくなった」
と
まるで子供のお使い程度の報告だった。
期待はしていなかったけど少々落胆する。
あれだけの釣具を持ち込んだのなら
盗品と分かっただろうから
相当買い叩いていると思う。
毎週水曜日にある販売会で
盗品だから早く一斉処分したのだろう。
仕入れに来た個人店や業者は知らないけど
持ち込んだ泥棒と買い取った業者は
ズブズブの関係だ。
けど捜査のメスはそれ以上入れられることはなかった。
長崎県警が越県してきて言っている盗品は
もう何もないからうちには関係ない。
それで終わりだった。
あとから聞いたのだが
管轄からそこはもう止めてくれとすぐに連絡が入ったそうだ。
どこもここもズブズブな世の中だ。
かくして
盗品ルートは解明できたものの
まったくどうもできずに終わった。
その間にも
某オークションサイトでは
うちの商品がどんどん出品されていった。
チャーマス北村さん仕様のPENNスラマーも
50個盗られたものだからどんどん出てくる。
出品者も出品地も複数出てきて
とにかく買い戻すためにどんどん落札する。
盗られた自分のモノを
自分で競り合って落札するという
なんともマヌケな日々だった。
盗まれたモノが出品されるたびに
担当の刑事に
その出品ページをプリントアウトして報告する。
がしかし
福岡の捜査が終わってからは
まったくヤル気が伝わってこない。
かと思えば
「もう落札しなくていい」とまで言ってきた。
なんでだと聞くと
「もう流れが分かったから」と言う。
じゃあなんとかしろよと詰めると
ごもごもと一気に老ける。
流れがどうのではなく
ネットにでているのは俺のなんだ
だから買い戻す!
被害者との温度差を痛烈に感じた。
必死で買い戻していたけれど
資金もなくなりはじめ
うちだけ熱い思いでやってるのがバカらしくなって
仲間の商品や大事なモノ以外は目を伏せるようになっていった。
つづく
2.17
ネットの捜索を初めて一週間。
某オークションに見覚えのあるリールを見つけた。
78年のABU、アンバサダー4500Cだ。
ステッカーの斜め具合が気に入らない個体だったが
こういう時にはそれが役に立つ。
間違いない。
アンバサダー5000も出てきた。
波型カップと言われるそれは
たま数は沢山あるけれど
カップにある傷は間違いなくうちのだ。
出品地は「長崎」だった。
すぐに担当の刑事に連絡を入れると
どうして売っているところが分かった?と
ちんぷんかんぷんな答え。
16年前の初老の刑事にはネット操作のデータはないらしい。
これは自分でやるしかないな。
いらだちを抑えて説明をする。
オークションで競り落とす。
出品者から連絡がくる。
出品者の情報が分かる。
どう?
とりあえず落札してくれ
お金は捜査費用から出しますから。
ヨシッとばかり入札しようとしたが
鑑識の人の言葉を思い出す。
「下見をしに来たか、来たことがある人かもしれない」
出品地は長崎。
ならば僕が落札したら警戒するのではないか?
そう思ったので
あまりこういう事を頼むのは好きではないが
信用できる福岡の友人に落札を依頼した。
見事、友人が落札。
出品者から連絡が入る。
メールには出品者の名前と住所。
すぐに担当刑事に連絡。
刑事さん数名が現場に急行する。
自分の指示で警察が動いているのだから
作戦本部長にでもなったつもりだ。
「いがいと早く解決しそうだな」
ブラインド越しに窓の外をみて
ウーロン茶を飲む。
1時間後、連絡が入り
意気揚々と電話にでる。
「どうだったかな?」
「ただの売り手でした」
ん?売り子?それではバックがいるのですか?
と聞くと
「いや、福岡で仕入れてきたそうです」
その内情を聞いて思い出した。
昔、僕も出入りしていた
質屋が仕入れに行くところだった。
そこは大きなテーブルのまわりを囲んで
テーブルの上に出てくる
いや、
投げ出されるといってもいいぐらい雑に扱う。
それを皆で買い漁るという場所。
倒産品や盗難品などが大量に集まる所だ。
「とにかく捜査員を向かわせます」
出どころが分かって
捜査が進んでいるように思われたかもしれないが
そこを知ってるだけになんともココロは弾まない。
アソコは一筋縄ではいかないな。
とにかく福岡に向かった捜査員の連絡を待つしかなかった。
つづく
2.16
泥棒に入られたのは
2015年の10月15日だった。
担当の刑事から事情聴取を受ける。
やけにしつこい。
こちらもイライラしてたけど
「50アップ釣りましたよ〜・・・あれ?えっ?」って
アホヅラ下げて入ってきたナオキに癒される。
とにかく最初からこのやる気のない担当刑事が嫌だった。
被害にあったものを書き出してくれというので
スパスパ書き出す。
問題は壁一面にあった僕のコレクションの値段だった。
古いアンバサダーのデラックスも数台あった。
海外通販のebayで買ったときは20万円ぐらいだったけれど
僕のだから50万円と多く見積もってやった。
売り場のロッドはみんな高いモノばかりだったし
つい直近に仕入れたPENNスラマーに
チャーマス北村さん仕様のパワーハンドルがついたものが
50台そっくり無くなっていた。
初老の担当刑事には
ロッドが1本5万とか8万円とか
リールの十万円超えがゴロゴロとか
うちにしかないリールとか
そんな事が理解できないみたいだった。
定価計算ができる分での被害総額は680万円だった。
足跡取りの結果、単独犯だということが判明した。
「おお、ひとりで頑張ったね〜」というと
黙る初老刑事。
なんか面白くないので鑑識の人達と話をする。
裏の窓から侵入した足跡を追っていくと
「下見をしに来たか、来たことがある人かもしれない」という。
どういう事かというと
足どりに迷いがないそうだ。
ウロウロしていない。
そう言われた。
そんな事聞かされると
ちょっと気味悪い。
ただ、うちにしかないモノが多いので
ネットのオークションに出るとすぐに分かる。
その日からネット探偵になるのであった。
つづく
2.15
いつもどおりの朝。
のんびりしていると
うちのスタッフから電話が掛かった。
出るとすぐにタダ事ならぬ雰囲気に
聞く耳をたてた。
「昨夜、店に泥棒が入ったみたいで・・・」
慌てて身支度を整えて
店へ向かう。
どうしてか判らないけど
何を盗られたのかな〜なんて
いがいと呑気に向かったと思う。
裏の駐車場に到着したら
警察車両が沢山あり
その関係者の皆さんでザワザワしていた。
スタッフが駆け寄ってきて
警察呼んで今、現場検証をしているとの事。
裏の窓が破られているのを横目で見ながら
店内に入ろうとすると
今、足跡をとっているので入らないでくださいと
止められた。
「俺の店ぞ」と強引に入っていくと
昨夜、店を出る時の風景と明らかに違う。
事務所は物取りというか
破壊工作のように荒らされ
店舗に入ってみると
ロッド、リール、ルアー
主だった商品がごっそりと無くなっている。
店舗部分から振り返り
もう一度事務所をみる。
後ろの壁一面にあった
僕のオールド・ABUのコレクションが
全部無くなっている。
この時、何を思ったかというと
「ちゃんと1台1台、
プチプチに包んで持っていっただろうか・・・
袋にがシャガシャ入れてないよな」
だった。
思ったかじゃなくて、それを声に出していた。
こういう所が僕のいけない部分である。
珍しいモノばかりだったので
すぐに捕まって出てくるだろう。
その時、傷でも入っていたら許さん!
それも言っていた。
店に十数人の関係者が物々しい雰囲気で
仕事をされていた。
「この店のオーナーさん?」と
スーツを着たくたびれたおじさんが話しかけてた。
しかめっ面で返事をすると
この件の担当の刑事だという。
正直、初見の感想は
「大丈夫、この人で?」だった。
つづく
2.12
僕はどっぷりとオフショアの釣りにハマっていく。
すぐに仲良くなった立石くんが佐世保まできて
面白い船があるみたいなので釣りに行こうと
まるでご近所から友人が遊びに来たような誘いに
僕もひとつ返事で彼の車に飛び乗った。
それから向かったのは長崎市。
わずか夕マヅメの釣りのためだけに
久留米から佐世保にきて長崎市へ走る彼の行動力に
呆れるほど驚いたものだ。
長崎市で乗り込んだのは小さなプレジャーボート。
ステータスの朝長俊輔だった。
お客さんや人が去っていく中で
新しい友人がつながっていくことに
心地よい居場所を見つけたようで嬉しかった。
2006年の2月
去年に続き大阪フィッシングショーに出展させて頂いた。
出発の早朝は雪で危うい道路状況だったけれど
友人たちと楽しく大阪入りした。
チャーマス北村さんと久しぶりの再会。
挨拶に続いてすぐに北村さんの口から出たのは
九州のマグロ事情だった。
ヤステンも一年ぶりに会えたし
大阪のルアービルダーたちも沢山来た。
他のメーカーさんたちとも沢山知り合いになれた。
あまり自社の製品説明はしていないけれど
とにかく沢山の出会いがあり
そういった意味でも実りがあったショーだった。
去ったものは仕方がない。
大事なのは今これからなんだ。
そう感じた。
去られても
もうこれ以上は仕方ないと思えるまで
ちゃんと付き合おう。
同時に感じたことだ。
この時の思いは
今でも僕のベースにある。
業界の集まりになれば
決まって新ザウルスの話はついてまわる。
一年前は「名前を変えたら?」と言われて
しょげてたけれど
なんとかこの名前でやり続けてみよう。
その気持ちが強くなったのは
この頃だった。
けれども与えられた試練というものは
実に残酷なものだった。
つづく
2.11
2006年。
去年から僕が感じていたこと。
あれだけ賑わっていたホームページのカウンター
1日、4000とかいっていたのに
1割を切るようになる。
CODEのロッドやルアーを仕込んでいたので
あまり気にならなかったが
お店に来る人もまばらになる。
スポーツザウルス倒産の余波が
ここで出始めた。
もちろんいつまでも続くものではないと考えていたけれどね。
ネットショップが増えたということもあるだろうけど
注文も次第に減っていった。
でも僕にとって一番大きかったのは
人が離れていったこと。
旧ザウルスが倒産して
釣りをやめた人も多かった。
常連も減り
友人も去り
いままで周りに人が沢山いたのに
だんだん訪れる人も減り
あらためて
僕は則弘祐、ザウルスというフンドシで
相撲を取っていたんだという事実が突きつけられた。
淋しい思いをしたのはこの頃だった。
そんな時だった。
前の年に僕はひとりの男と知り合った。
長崎のザウルス好きのお客さんが
佐賀県の遊漁船でクロマグロを釣り上げた。
すぐに連絡をいれると
クロマグロの話はそこそこで
小さな船を操る船長は
気持ちの良い若者だから会ってたほうがいいよと勧められた。
僕も釣り人の端くれ。
クロマグロを釣ってみたいというのもあったけど
釣り上げたマグロの感動よりも
船長の話を優先する内容に興味をひかれ
すぐに予約を入れた。
その船の名前は「鰤走」、シワスという名だった。
ちょうど、ひとまわり大きな船に乗り換えるタイミングだったので
僕が乗るときには二代目シワスだった。
予約した日、港へ行くと
係留してある二代目シワスの横に
お客さんを出迎えるために、ひとりの男が立っていた。
真っ黒な肌は海の男として当然だが
茶髪にピアスをした20代の若者だった。
内心、「この子?」と思ったが
丁寧な挨拶に少々面をくらった。
当時の遊漁船の船長といえば
どちらかというと「オレが船長だ!」みたいな感じの方が多くて
釣り人は言うことを聞かないといけない的なノリだったが
この青年はまったく違った。
けれども
仕事をしてお客さんにお金を頂くという
サービス業という事を考えれば
この若者が正解だよな。
この若者の名は田代誠一郎。
オフショア界で知らない人はいないだろう。
現、サンライズのキャプテンである。
準備をしていると他のお客さんが寄ってきた。
「コードの小野山さんですよね?」
そう話しかけてきたのが
現、立蔵のキャプテン、立石くんだった。
僕も、僕の店も
元気がなくなっていく中で
新しい歯車がまわり始めた。
年が明けてそれがフル稼働し始める。
つづく
2.10
2005年というのは
本当に色々あった一年だった。
新ザウルスの復活でスタートして
その動向に気を取られながら
沢山の人と出会って
沢山の人と別れた。
一年間、雑誌の連載も頂き
楽しい旅もさせて頂いた。
西田敏行さん主演の映画
「釣りバカ日誌16」も
釣り師役と観光客役もいただいた。
店のほうも活気があって
いつも常連たちが集まっていた。
土地柄でお客さんと釣りに行くのは
海が多くなっていった。
それにともなって
エイ出版のソルトワールドの仕事が入るようになり
シーバスをはじめ、シイラや真鯛
そしてヒラマサなど
新しい魚種にも挑戦するようになった。
それはシービーワンという
プロ集団とお付き合いさせて頂いた事が
一番大きかったと思う。
普段は和やかに皆で楽しんでいるんだけど
一度、ロッドを握るとピリピリとしたムードの中で釣りをする。
その刺激がたまらなく快感だった。
ブラックバスは
雑誌やDVDの取材であっても
いつも楽しんでいたもんな。
それは始めた頃となんにも変わらない。
バルサ50をわずかに収めた
小さな実釣タックルボックスは使っていたけど
旧ザウルス倒産以降
永遠のスタンダードの本を書き終わってから
コレクションでもある大きなタックルボックスは
この年も翌年も
それから今になってもほとんど開けていない。
オークションやフリマサイトで検索もしていない。
僕のバルサ50愛は
スポーツザウルス期までで
一区切りだったのだろう。
年が明けて2006年。
僕の後厄の年。
今思えば
この年が一番辛い一年だったかもしれない。
少しずつ感じてはいたのだけど
つづく
2.9
ヴィブラの金型を買い取って
手直しをして新しいバランスになったうちのフィンの事で
岐阜にあった制作会社に連絡しました。
その時すでに
いつも仕事を受けてくれた女性スタッフの方が辞めていました。
フィンまで仕上げてくれたビルダーさんも辞められてました。
そして
僕が金型代を支払った有名アングラーも解雇されていました。
まず説明を求めました。
金型を買い取らせたあげく
それを他社で使うとは何事だと
答えは
ザウルストレインのヴィブラは
おたくの金型を使っていない。
との事でした。
うちのフィンの今後の生産の事もあるので
穏やかに話を進めましたが
僕の中では「この人は信用できない」
それだけでした。
旧ザウルスが倒産して
助けてくれ、買ってくれと寄り添ってきたかと思えば
新ザウルスが立ち上がればそちらにすり寄る。
信用できるわけがありません。
それどころか
フィンのお取引先からも注文が続いていたので
制作依頼をかけると
なんて言ったと思います?
「アチラにはうちでフィンを作る事を黙っていてくれ」
怒りどころか呆気にとられてました。
この言葉が出るということは
アチラからどういう指示が出ていたのか
容易に想像つきます。
この先、この人と付き合っていく自信はない。
信用できない人と付き合う必要もない。
僕はこの時点でフィンを諦める事にしました。
業界の友人たちからは
岐阜まで金型を取りに行こうと勧められましたが
キッパリやめました。
たしかに大きな金額を払いましたが
販売しているときは胸を張って
うちが金型を買い取って作りました。と言えたので
その代金と思えば僕の胸もスっとします。
あとで分かったのですが
本当にうちの金型ではなかったそうです。
うちの金型を複写したということでした。
そういう事もできるのですね。
ですから
ザウルストレインのヴィブラは
最高の動きを見せてくれますよ。
ほどなくして
この制作会社は倒産しました。
当然ですよね。
つづく
2.8
このバルサファイブオーのオリジナルは
2004年の1月に発売するものだったのです。
どこかに移動されていたみたいですね。
パッケージにくっついていた個体は
まだコーティングが乾いてないまま
パッケージに入れたのでしょう。
新ザウルスが再建して第一陣の
バルサファイブオーが出荷されて
嬉しくもあったのですが
内容をみて少々がっかりしました。
倒産前に移動したから?
そういうのではなくて
出荷前のチェック体制がなってないからです。
ちゃんとやってもらいたかった。
ちなみに旧ザウルスが倒産してすぐ
ストライクトッツィーが4色ほどだったか
ネットで販売されていて賑わっていましたが
これも1月発売予定のモノでした。
このストライクトッツィーは
もちろん本物ですが
別のところで委託で作られていて
それが出回ったという事です。
僕だってそれを販売したかったのですが
声は掛かりませんでした。
その時はあちら側の一味と思われていたのでしょう。
その後は愛知のプロショップのオーナーさんの仲介もあり
今でも仲良くさせて頂いています。
あまりにも仲良くなりすぎて
2004年の春頃に
バルサファイブオーシリーズを作るから
小野山くんが先頭にたってやってくれと言われましたが
それは全力をもってお断りをしました。
今でも皆で集まった時の笑い話のひとつです。
ザウルストレインのラインナップが徐々にアップされていくと
業界の友人たちから次々に連絡が入りました。
「ヴィブラが出てる!」
驚きました。
ヴィブラの金型を買い取ったのに
発売予定に入っていました。
慌てて譲渡契約書や
金型の写真などを見直しましたが
社印や印鑑も押してあり
ちゃんとしたものでした。
「騙された?それとも本当の事件?」
金型を預かっている制作会社に連絡を入れました。
つづく
2.5
2005年
その年はエイ出版の雑誌、トップ堂で
連載の仕事を頂いた。
春には山口の阿武川ダムで
今ではやらない産卵前の良いプロポーションのバスを狙った。
梅雨前に日本最大の琵琶湖を訪れて
西の湖の葦に手こずった。
夏には四国に渡り
僕が尊敬するビルダーさんの案内でアカメを釣らせて頂き
渇水が始まったリザーバーを攻めて
四万十川を源流から河口まで旅をした。
もう一度やってみたいぐらい
今でもこの時の旅が大好きだ。
佐世保から車で高知入り
ポイントについて師匠に攻め方を教わって
わずか数投で憧れのアカメをキャッチした。
運転で疲れていたので
そそくさと撤退したら
師匠がすぐにメーターオーバーのアカメを釣った。
まだ暑さも残る9月
長野県の木崎湖を訪れた。
バス駆除推進で揺れていたとき
地元のアングラーや日釣振、
漁協や観光協会が組んでバスを観光資源として見直した湖だ。
その記念イベントだったので
日頃、お世話になっている方々からのお誘いで
大阪の友人たちと駆けつけた。
秋も深まる11月
ガウラクラフトと一緒に三島湖を訪れた
冷たい雨のあとに待っていたのは
立派なバスがサッチモホーンに激しく襲いかかる
スーパーバイトだった。
そのあと
上野のスーパーブッシュさんにお邪魔したのだけど
そこに掛かってきた問い合わせの電話
バルサファイブオーの発売されたカラーは何ですか?
そうなのです。
ザウルストレインが発売したルアーは
バルサファイブオーのオリジナルだったのです。
たしか4色だったかな。
このルアーは各地で大騒ぎでした。
人気のルアーだから?
いえ、そういった意味でなく
沢山の不良品が混ざっていたのです。
リップがついていない物。
パッケージにくっついているも物。
フックがついてない物。
そう。正確に言うと不良ではなく
作りかけだったのです。
つづく
2.4
その策士は
なかなかの切れ者で
則さんの信頼もありました。
ザウルスと付き合い始めた頃
九州展示会に友の会のルアーブースを出そうと盛り上がった時に
NGを出したのも彼でした。
これは企画側からしたら
企業の新製品紹介の場に
いちファンクラブが出てくるなよと
当然の判断かもしれません。
当時の僕は度を超えたお調子者だったので
その企画者を飛び越えて
則さんに直談判して開催にこぎつけました。
企業の企画者としてみれば絶対嫌だったでしょう。
彼に嫌われているのがひしひしと伝わっていました。
それからというもの
お互いが避けていたのもあるだろうけお
あまり接することもなかったのですが
ザウルスキングをやると決まった時に
則さんから
「アイツと上手くやってくれよ」と
優しい目で言われた時の情景を
ハッキリを覚えています。
ザウルスが倒産して
彼と何度か電話で話をしました。
ときには酔ってるなと分かる時もありました。
僕の再建案も聞いてくれました。
ABUリールの則バージョンの発売まで
もう少しだったのにと悔やんでいました。
そして
いくつか他の会社の面接を受けたとも聞きました。
北九州の友人のザウルスショップに
ザウルストレインの取扱いの紹介をしたと聞いたとき
策士である彼がいるのなら
大丈夫かも、と変な安堵感を持ったのも事実です。
僕らはいがみ合っていたけれど
彼の仕事ぶりには一目置いていました。
まったく正反対な彼と僕が分かり合えてタッグを組んでいたら
自分でいうのもなんですが
すごい事になっていたかもしれません。
さて
旧ザウルスの製品を作っていたいくつかの会社は
新ザウルスの立ち上がりに憤慨していました。
その多くは
こちらのザウルス再建案にうなづいてくれていたので
僕はもう謝るしかありません。
自分で自分のケツを拭く。
そんな日々がしばらく続きました。
そしていよいよ
バルサファイブオーが出てきたのです。
つづく
2.3
旧ザウルスのテスターや社員たちが
新しいブランドを立てて
その後に商標をもった会社、新ザウルスが立ち上がった。
僕は当時
このホットラインに
ザウルストレインの開発陣や制作会社を知らないので
どういった製品になるか判らない。
どれがザウルスかではなく
皆さんがどれを選ぶかです。
そういう事を書きました。
以外にもすぐに反応がありました。
「まるでうちを偽物扱いじゃないか!」
と則さんが怒っているという情報が入ってきました。
そんな事、一言も書いていないのに。
でも
則さん、ここを読んでくれてるんだと
ちょっと嬉しかったです。
しかし
このコメントを最後に
それから則さんから電話が掛かってくることはなくなりました。
とにかく新ザウルスは
アンチ小野山で一致団結したみたいで
似たような名前のネットショップも立ち上がりました。
そこはあまり興味がなかったので見ていなかったけど
僕の友人が北九州でザウルスショップを立ち上げて
新ザウルスの商品を初期から入れていたので
そっちの方が気になりみていました。
いくつか乗せられてる部分が見えたので
忠告はしていたのですが
それでも彼は進みました。
ザウルスはそれぐらい魅力だったんですよね。
大きな取り扱い店が決まるたびに
彼のところには商品が入らなくなり
とうとう僅かな期間で廃業に追い込まれました。
不器用だけど熱い気持ちをもった良いヤツだったのですが
彼もザウルスに翻ろうされたひとりです。
まだバス釣りは続けているのだろうか・・・
新ザウルス、ザウルストレインには
なかなかの策士がいたのです。
しばらくは彼の思い描く通りに進んでいったのだと思います。
つづく
2.2
新ザウルス誕生のウネリは
僕のところに到達するまで
さほど時間はかからなかった。
まず
旧ザウルスNo.2の方がザウルストレインに戻った。
このことの何が重要かというと
この方は倒産発表時に
退職金替わりに商品をもって行けと
社員数名に言い伝えた方だったからだ。
僕はこの方が大好きだった。
初めて則さんのロッジにお邪魔した時に
則さんから紹介されて
「大勢で押しかけてきてすみません」と挨拶した時に
「則のお客は会社のお客さんです」と言われた。
これを言える人は素晴らしい。
トップ下にこういう方が支えている会社は強い。
お会いできる度に話をさせて頂いた。
旧ザウルスで本当に尊敬していた方だった。
だから
退職金替りに・・・の話を聞いたとき
やっぱり男気がある素敵な方だと再認識したものだ。
僕はこの情報を
元社員の人がその方と会って
「則さんの元に戻ろうと思う」と話していた事を
電話で聞いた。
それも男気だよね
そう思った。
そう思っただけ。
すると数日後
その方が元社員の人に連絡を入れてきた。
「自分が戻ることを誰かに言ったか?」
聞けば、
業界のある大御所から連絡が入り
「戻るのか!?」とこっぴどく言われたらしい。
元社員の人は
「小野山さんが言ったのかなぁ」ってボソっと言ったら
「アイツか!」とえらいケンマクだったそうだ。
僕は大好きな尊敬できる人から
嫌われたようだ。
なんにも言ってないのに・・・。
違うルートから回った話が
僕のせいになっていた。
僕の悪いところは
こういう噂話に関心がないことだ。
そう思う人は思ってればいい。
訂正なんて絶対にしない。
ただこの事で
新ザウルスの人から聞いた話では
社内がかなりアンチ小野山になったそうだ。
つづく
2.1
それはココロも揺れるよ。
僕のバス釣りの歴史は
ファイブオーというルアーを
友人から見せられてから始まったからね。
ベイトキャスティングリールで
綺麗に投げ切れる前から則さんという存在を
とくとくと師匠たちから聞かされていたから。
追いかけて、追いかけて
縁あって則さんと出会って
そのファイブオーを背負ってくれまで言われて
僕は違う違う道を選んだ。
そして僕の知らないところでまた進み始めた。
揺れるよ。
よく人から相談を受けた時に
どちらが正しい選択か?より
どちらが楽しいかで選んだら?と言っているが
僕自身は「正しい(と思う)方」を選んだ。
普段は過ぎたことを振り返らない僕が
実は今でも考えることがある。
あの時、すべてを捨てて千葉に行っていたら
あの時、ファイブオーを背負うと決めてたのなら
僕はどんな人生を歩んでいたのだろうか。
それは誰にだって、どこにだって
大小問わず、人生の岐路は出てくるものだ。
振り返ってたってしょうがいない事だけど
これだけは今でも考える。
その後も苦しい時はあったけど
今の人生に不満があるわけではない。
周りの人や友人たち、
とりまく環境にも恵まれている。
どちらかというと
派手に楽しくやっている。
だけれども
則さんが言ったように
「人生のチャンス」だったのかも知れないという思いは
いつまでも僕のココロを締め付ける。
たぶんこの先も
残った人生で何回かは「もし、あの時」と思うかもしれない。
「正しい選択」とは
時として残酷な重しになるものである。
さて、産声をあげた新ザウルス、ザウルストレイン。
その余波はとてつもないウネリとなって
僕の環境を脅かし始めた。
つづく
1.29
2005年3月
業界の一部はある意味
沸きに沸いた。
新ザウルス
「ザウルストレイン」のホームページが立ち上がった。
そこには・・・
2003年12月待つより2005年3月まで
SAURUSは活動を停止しておりましたが
ザウルストレインが志を受け継いで
SAURUSを復活することになりました。
と書いてあった。
旧ザウルスの商標を持っておられる方も
もちろん一緒だろうし
木更津の工場やロッジも抑えてある。
体制は準備万端整ったようだ。
ザウルストレインに入った
何人かの知り合いの情報は来ていたが
僕は決別した身なので
頑張ってねとしか言いようがなかった。
逆にもう
そこから情報を聞き出す気もなかった。
なにより
ザウルストレインが立ち上がったことによって
僕はザウルス再建運動から解放されたことのほうが
とても大きかった。
カタチはどうであれ
ザウルスは復活したのである。
その直後の20日に
玄界灘で発生したマグニチュード7の
福岡県西方沖地震で
僕が住んでいる佐世保も揺れた。
そして
僕のココロも揺れていた。
つづく
1.28
自分のブース前で
情けない後ろ姿だったと思う。
どれぐらいの時間を
そうしていたのかは分からないけど
その情けない背中に声をかけてきた人がいた。
「小野山さん?っすよね?」
その時の僕とは対照的な
明るく、軽い声。
気配でこれまた背が高い人だと分かった。
振り向くとそこには
当時、ハネダクラフトにいた安井稔店長、
「ヤステン」がいた。
離れた所にブースを構えていた彼が
僕を見つけて話しかけてきてくれた。
ハネダクラフトさんといえば
旧ザウルス時代、
USAフィリプソン問題でやりあった相手だ同士だ。
その名前を持つ僕に声をかけてくれた。
先ほど名前が不愉快と思われた僕にだ。
この彼の声掛けに一人ぼっちだった僕は
どれだけ救われた事か。
それからというもの
彼とは一緒に仕事したり、釣りにもいった。
馬鹿みたいに遊びもした。
大阪に居るときはほとんど一緒にいたな。
彼が業界を去った今でも連絡は取り合っている。
彼の「男気」と「裏表のない性格」に
僕は惚れた。
自分でいうのもなんだけど
似たもの同士だったのかもしれないな。
旧ザウルスのフィリプソン問題の話は
付き合い始めに一回話し合ったけど
後にも先にもその一回だけ。
遺恨は何もなかった。
僕らはいつも未来に向いて話をしていた。
僕はこう思うんだ。
自分が沈んだ時に
営利目的ではなく
手を差し伸べてくれた人は
一生の友人になれると。
つづく
1.27
姑息な生き方はしない。
いつもそういう人生を心がけていた。
でもそういうのって
お金かかるね。
だけど金型を買い取ったことで
堂々と営業できるようになった。
2005年、年が明けると
釣具業界は慌ただしくなる。
コード ライフタイムデザインは
初めて大阪フィッシングショーに出展した。
メーカーを立てて
一年もせずにフィッシングショーへの出展とは
異例だったと思う。
しかしこれも旧ザウルスが倒産してからの出会いで
ある人に誘ってもらった。
毎年、4万とも5万人とも言われる
来場者のあるビッグイベント。
右も左も分からない状況だけど
そういうのに体当たりで進むのは好きな方なので
わずか150センチ幅のブースにできるだけ詰め込んだ。
途中、話を進めて頂いた人が様子を見に来てくれた。
勝手が分からなくてご期待に答えられるかどうか・・・と
謙遜気味にいうと
「何事も最初の一歩はそういうものですよ
今後にどう繋げるかですよ」
基本中の基本を身を持って再認識した。
「あ!」
その人が僕から目をそらし声をあげた。
誰かを見つけたようだ。
「小野山さん、紹介したい方がいます、来て」
人の群れをかき分けながら後ろを付いていく。
途中でその人が紹介したい方はどの人かすぐに判った。
背が高く、スーツの下の筋肉が容易に分かる
少々強面の顔。
なにより漂うオーラが違う。
行き着いた先は、やはりそうだった。
「○○さん、ザウルスキングの小野山さんです」と
紹介される。
ただならぬ妖気を感じていたので
いつもより深く頭をさげ挨拶をする。
「ああ、君か。よろしくお願いします」
毎度ながらの「ああ、君か」だ。
ちょっと笑いそうになった僕は
一瞬でひと太刀を浴びることになる。
「君、名前をかえたら?」
頭が真っ白になった。
顔が真っ赤になっていたと思う。
だからか、なんと返答したか覚えていない。
その方は知る人ぞ知る
釣り業界のドン。
旧ザウルスの倒産と
新ザウルスの再建にお怒りだろうけど
まさかうちの会社の名前を変えろと
言われるとは思ってもみなかった。
うちの名前が不愉快・・・
返答とブースに戻る挨拶は覚えていないけど
自分のブースの前で来場者に背を向けて
しばらくボーゼンとしていたのは覚えている。
気落ちするにはショックが強すぎたし
ショックが理解できないぐらい気落ちしていた。
つづく
1.26
新ザウルスと別れを決めた。
まるで人生を賭けるように
ザウルス再建ばかりを考えていたから
友の会に続きまた落ち込むかと思いもしたが
いがいとサバサバしていた。
僕に再建活動は荷が重すぎだったのかもしれない。
逆に
則さんの周りにちゃんとした人たちがいるのかなと
不安になるぐらいだ。
あの人は信じた人の言うことを信じ過ぎたり
ああ見えて言いくるめられたりもする。
「ハイ、もう飲みすぎ!」とか
「それはカロリー高いからそれで終わり!」とか
健康面で注意してくれる人はいるのかなとか
色々考えてしまう。
ともあれ
決別したわけだから
余計なお世話といえばそうなる。
それからというもの
新ザウルスがもぞもぞと水面下で動き始め
様々なところにコンタクトを取り始めたので
色んな方面から連絡が入るようになった。
しばらく経ったある日。
フィンを作っている工場の
取締役の人から電話が入った。
誰もが知っている有名アングラーだ。
話はこうだ。
スポーツザウルスのヴィブラの金型を手直しして
コードのフィンを制作しているだが
その金型を買ってもらいたい。
これはそこの会社が
新ザウルス阻止に動いた事だった。
金額は金型三つで100万円。
なかなかの金額だ。
何人かに相談したがみんな口を揃えて
「やめたほうがいい」との事だった。
2、3日、じっくりと考えて電話を入れた。
「買います。所有権の名義変更をお願いします」
後日送られてきた
いくつかの書類に先方の会社とうちの会社との印鑑を押し
契約が終了した。
なんで買ったの!?
よく言われた。
まず、
倒産したとはいえ
スポーツザウルスがお金を出して作った金型を使って
利益を出していたのが気持ち悪かった。
つぎに問屋さんが沢山売ってくれていたし
ショップさんからも大きな注文が入っていた。
堂々と金型の権利はうちにあります。
と言いたかった。
金型をくすねたと思われたくなかったので
そこそこの金額だったけど買取りを決めた。
これがまた
のちに問題を引き起こすのだけど
僕は堂々と商売がしたかったんだ。
つづく
1.25
もしかしたら
僕の人生で一番楽しかった場所だったかもしれない。
自分のせいでそうなったのに
5年間いたその場所がなくなり
ポッカリと穴が空いていた。
その日はハウステンボスにあるマリーナの事務所で
打ち合わせをしていた。
そこに則さんから電話が掛かってきた。
席を外し電話ん出ると
則さんが
「今日は大事な電話だ」という。
いよいよザウルスを再始動させるという。
僕は相槌だけで一言一句
再始動に向けてのプランを聞いていた。
そして最後に
「だからオマエにこっちに来てもらいたいんだ」
「へ?」
そう来るとは思いもしなかったので
ずいぶんと間の抜けた返事をしたと思う。
新しいザウルスに入れと?
「そうだ、バルサ50をオマエが背負ってほしい」
相槌も打てなかった。
不必要とされた僕を必要としてくれる人がいた。
正直にいうと悪い気はしなかった。
しなかったけれど
昔みたいに、ひとつ返事で答えきれなかった。
則さんが続ける。
「オマエの人生でこんなチャンスはないぞ
な、こっちに来い。その代わり・・・」
その代わり?
「今付き合っている連中とは手を切って来てくれ」
それは友達という意味でなく
この2004年で仲良くなった業界人や
ザウルスの取引会社、いわゆる債権者のことだろう。
いやいや、
ザウルス再建に制作会社の協力は不可欠でしょうよ。
それに再建って、ザウルスの借金はどうするんですか?
と詰め寄ると
「ザウルスの借金と新しいザウルスは何も関係ないだろ!」
と半ばキレ気味に返された。
僕のココロの中でプツンッと音がしたようだ。
倒産した会社の借金は新しい会社とは関係ない。
たしかに法律上はそうだろうけど
それでいいのだろうか。
そして
放り出されて苦労を共にしてきた
お世話になった会社とか仲間を切れと・・・
そのふたつは
あなたから聞きたくなかったです。
誰かの入れ知恵なんだと思ったけれど
僕は決別を選んだ。
つづく
1.22
「やめてもらいたい」
友の会から通達された。
業界人がいると何かと面倒が起きる
たしかそういう理由だっただろうか。
もちろんそれだけではないだろうけど
「辞めてもらいたい」
この言葉が自分に向けられるとは
思ってもみなかったので
少々、動揺した。
ネットという環境の中で
ふたりで始めた会も
人が増え大所帯になっていき
運営も大変だったはずだ。
2003年までは本当に楽しかった。
だけど僕だけが
楽しいだけの会員だったのかもしれない。
続いている警察からの連絡や
いくつかの弁護士からの通達など
淡々とこなせてはいたけれど
どっちに転ぶかも分からない状況だったので
これ以上は迷惑を掛けたくはない。
僕の人生を変えたと言ってもいい会から
離れることに同意した。
たまに僕は調子の良いことを言う。
たまに考えもせず返答をする。
小学生の頃からか
いつの時も身を置くグループのために
必死で何かをする。
小学3年製の時に
集団万引きで捕まったことがある。
その時もグループがやるからやった。
そんな善も悪も意思表示できない理由は
たったひとつ。
グループから外されたくなかったから。
その時、初めて
ちゃんとした文字で頭に浮かんだ。
「なんと弱い人間なんだ」と。
そういうのを
ちゃんと分からせてくれた会には
すごく感謝している。
退会勧告がなければ
もっと嫌なお調子者がいたに違いない。
そんな中、
携帯電話が鳴る。
画面を見れば「則さん新携帯」
「大事な局面」が動き出した。
つづく
1.21
それは誰でも書き込める
友の会の掲示板から始まった。
誰かがその掲示板に
「今、オークションに出ている
ザウルスのTシャツって本物ですか?」と
質問してきた。
それに対して
「あんなのは偽物だよ」と答えた。
すると違う人から
「偽物」というけれど
ザウルスは倒産してるのに
新しく出てるくる商品は本物と言えるのか?」
という書き込みがあり掲示板が荒れた。
ザウルスが倒産してそれまで
僕が内情をアレやらコレやら
掲示板に書くのはおかしいしと考えていたし
忙しさもあって掲示板の参加をしていなかった。
友人から連絡があり
その事を知らされる。
投稿文からすると
途中で止まっていた製品を完成させた
ザウルスの名が入る
救命具やブラウニーワレット、ジャケットなどの話だろうと
容易に推測できた。
また
あらためて掲示板をさかのぼって見てみると
この他にも荒れてる跡があった。
とてもじゃないけど
ザウルスキングならまだしも
ザウルスと親交があったとはいえ
いちファンサイトが言われる事ではなかった。
僕が答えられることもあったので
会にはすっかり迷惑を掛けてしまった。
そう思ったけれど
「大事な局面」を控えてるのもあったし
ザウルスが発注をかけていた製品を云々と
人に債権者の話もする気もなかったので
自分が決めたスタンスを守り
それからも書き込むことはなかった。
つづく
1.20
実はザウルス出の仲の良いメーカーが集まって
総合カタログを作ろうかという話もあった。
ソルトウォーターでは
シービーワン、ソウルズ、ブリッジ
トラウトでは
エムアイレ、ソウルズ
バスではガウラクラフト
そしてうちのコード ライフタイムデザイン。
面白い企画だなと思ったけれど
それぞれがすぐに忙しくなって
途中で立ち消えした。
今考えると
ザウルス色をぬぐい去るには
なくなって良かったのかもしれない。
でもこういう話をみんなでしている時は
夢があって本当に楽しかった。
思えば
スポーツザウルスが倒産して
明けた2004年は
僕の人生で一番と言っていいほど
沢山の人と出会った。
しかも
2004年に出会った人は
今でも付き合いがある人が多い。
大変だったけど
一生懸命に付き合って
それは僕のかけがえのない財産になった。
たまにテレビの仕事とかあるけれど
突然、もう何年も連絡とってない友人から
「テレビ出てたねー見たよー」って
「この人はお父さんの友達なんだよって
子供に自慢したよ」って
そういう事言われるとやはり嬉しいよ。
恩返しの仕方が分からないから
頑張って続けて生きていくしかないんだよね。
さて、昔話に話を戻そう。
某オークションで
ザウルスのTシャツが販売されていた。
見たこともないTシャツのデザインだった。
それが結構売れているというのだ。
僕も覗いてみたけれど
ああ、偽物だとすぐに判った。
どうしてかというと
ザウルスはソルトウォーターやトラウト
そしてブラックバスの総合メーカーだったけど
それぞれにザウルスののロゴ文字は差別化されていた。
そのTシャツは
胸のロゴはトラウトで背中にバスのロゴがプリントされていた。
一枚のデザインに色んな魚種のロゴなんて
センスのいいザウルスには絶対に無い事。
僕は気にもとめてなかったが
数日後、
コレが僕を追い込むことになる。
つづく
1.19
商標関係が決まる前の事だ。
ある人から連絡が入った。
それは
バイブレーションプラグ”ヴィブラ”
ザウルス時代からそれを作っていた制作会社が
製作するので販売できないか?と
その会社の社長からのコンタクトだった。
もとより
コード ライフタイムデザインは
債権者の手助けになるのであればと
立ち上げたメーカーなので
やってみましょうと軽く返答した。
ザウルスが倒産して
その会社に超有名ルアービルダーさんが席を置かれていたので
憧れのその人と仕事ができるというのも
快諾のひとつの要因であった。
ビルダーさんと電話でお話をさせて頂く。
その時の気持ちの高揚は今でも覚えている。
本来、ヴィブラは見切り発進で発売されたので
どうしてもウエイトを変更したいから
やらせてくれとの事だった。
もちろん返事はひとつだ。
沈下姿勢が従来のものより前のめりになり
仕上がってきた完全体ヴィヴラは
”フィン”と名づけてリリースした。
凄い反響だった。
それまで取扱店舗はあまりなかったが
全国の釣具屋さんから沢山注文を頂いた。
作っても作ってもザウルスキングの店舗には
並ばない状況が続いた。
ある問屋さんの目にも留まり
突然3.500個の注文が入ったりして
しばらくはプラスチックルアーでてんてこ舞いだった。
人助けと思ってやっていても
実際は少なからずとも利益は発生しているし
そういう風に人気が出たりすると
それを面白くないと思う連中も出てくる。
「コードはパクリメーカー」と言い放つ人も出てきたが
人に支えられて、人を支えてできた大きな輪
その中にいた僕のココロには
ちっとも響かなかった。
むしろ、みんなの笑いのネタだった。
確かに毎月毎月
すごい額の支払いに追われた。
だけど
僕の座右の銘のひとつでもある
「できる事をできるだけする」
これを守り通していれば
なんとかなるだろう
そう強く思っていた。
逆に気を抜けば
一気に僕というモノが崩れ落ちていくような
そんな気がしてならなかった。
つづく
1.18
ザウルスが持っていた商標関係の入札。
結果から言うと
獲得する事ができなかった。
落札金額は
予想をはるかに上回る金額だった。
どういう計算であの金額を決められたかは理解もできないが
ひとつ言えるのは
よほどの勝算があってのことだろう。
という事は再建、もしくは新規事業で
ザウルス商品が出てくる可能性が大きくなったという事だ。
負けてしまった。
僕の再建案はここで途絶える事になった。
その二日後だった。
某投稿系掲示板のザウルススレッド
ある一行に目が止まった。
「座右菌、商標取得失敗」
そのあとに続く
「お小遣いが少なかった」とか
「貧乏人」とかの連鎖書き込みはどうでもいい
むしろ笑えるが
問題なのは身近に投稿者がいる事だった。
商標入札は
弁護士や裁判所が絡んでいる事だし
なにより僕ひとりで参加した訳ではない。
一番厄介で気持ち悪く
持ちたくないモノが生まれた。
「疑心」
人を疑う事が苦手な僕は
いつも周りから「信じすぎ」と注意される。
実をいうと
すぐに投稿者を特定していた。
「座右菌、商標取得失敗」のあとに
入札金額が書かれていたが
実際の金額とは違っていた。
僕が話した中で、たったひとり
話の流れから金額を多く言った人がいたのだ。
その金額だった。
確かに彼は
倒産当初から心配してくれて連絡をマメによこしてくれた。
今までの状況もよく知っている。
掲示板のどうしてこれを知っているのかという投稿も
僕が伝えていた事だった。
疑心は本当に気持ち悪い。
問いただすか、とも考えたが
話したのは僕だからこのままにしておこうと決めた。
決めたけど
その彼とはそれから連絡を絶った。
その後、彼はひどく体調を壊し
仕事もできなくなったと聞いたけれど
友達伝いにお見舞いを言い
連絡はしなかった。
この事で連絡をしなかったことは
今でも僕は悔いている。
つづく
1.15
ザウルス窃盗事件が明るみに出たのは
資産を売却して債権処理にまわす過程にでた
購入会社のクレームからだった。
某投稿系掲示板に
「座右菌」、すなわち
うちが犯人だという書き込みがあったことは書いたが
他にも犯人を特定するような投稿もあった。
どこから仕入れてきた話か知らないが
前後の文章からして
ただのイタズラ書きには思えなかった。
銀行が手を引いた木更津工場とログハウス。
デリバリーステーションの在庫。
そしてもうひとつ、
実はコレが一番重要だろうという物件があった。
「登録商標」
スポーツザウルスが持っていた
商品名や特許などのすべての権利だ。
それは入札形式で行われ
一番の高額提示者に購入権利が与えられる。
入札の場に来たのは3組の代表だった。
仮にA社、B社、C社としよう。
A社は釣りをしている人なら誰でも知っている
超メジャーブランド。
聞けば、バルサ50の商標を欲しいのは頷ける。
B社は聞いたことのないところで
C社はある連合だった。
実は僕、Cの連合に名前を連ねていた。
どうしてもザウルス再建には
この商標を持っていないとできない話なのである。
僕のその案を理解して頂いたある人から
お誘いを受け、ひとつ返事で参加させてもらった。
ロッドも、ルアーも、グッズも
再建できる準備は整いつつあった。
あとはこの商標だけである。
連合内の話し合いの結果
入札金額が決まり
あとは結果を待つだけだった。
つづく
1.14
この年の夏は
また厄介なことが持ち上がっていた。
釣具業界を揺さぶるほどの大問題だった。
環境省の外来生物法である。
当時の環境大臣は
今の東京都知事。
彼女の記者会見は
釣具業界の人間なら
狂気と悪意に満ちていた顔に見えただろう。
パブリックコメントの募集もあったが
それに基づいた会合の議事録は非公開で
まったく何がどう動いているのか
分からないままだった。
ブラックバスの外来種法入りは
当初先延ばしされたが
翌年の1月に
彼女のあの会見だ。
「政治的な判断は我々がする」
凄い話だ。
環境省の上の方は
年間1000億円市場という巨大なブラックバス経済を気遣って
先延ばしを考えていたらしいが
ひとりの大臣の強気が外来種指定を決定的にした。
そういえばこの件に関しては
釣り関係のフリーカメラマンだった人が騒いでいた。
もう、名前からしてね。
ブラックバスの仕事は若手に譲ってたのだが
空前のバスブームと
若手写真家のセンスの良さに勝てず
仕事がなくなって困ったのだろう。
ブラックバスを悪者に仕立て上げた。
その環境大臣の会見に対する意見を求められ
「バス釣りで儲けてきた釣り業界に
駆除の費用を払ってもらったらいい」
と吠えた。
まさに狂気だ。
その写真家は
「ブラックバスがメダカを食う」
という本を出版して時の人となった。
しかしその本は
ゴーストライターが書いたものがバレて
もう一度、時の人になるのかと思っていたら
もう話題にもならなかった。
「時の人」
そんなものである。
その時の僕はまさに
歩く道を選び間違えれば
「時の人」になっていた。
つづく
1.13
「もしもし、私、千葉県警の○○といいますが・・・」
電話をとった相手がこう名乗れば
さすがに身構える。
「ちょっとお話を聞かせてもらってよろしいですか?」
敬語だけど重く冷たい声。
「いや何ね、
私の後輩が釣り好きでして
倒産した会社の商品がずっと入荷しているので
聞いて欲しいと頼まれまして・・・」
やはり正義の味方は嘘が下手だ。
吹き出しそうになったのをグッと堪えて
ザウルスファンなら分かると思いますが・・・と
明るく応対していたが
頭の中ではフルで色んなケースを考えていた。
こんな事で絶対に電話はかけてこない。
なんらかの被害届が出たか
それとも誰かの指示か。
一度目の電話は
軽い聞き取りだけで終了した。
電話を切ったあとすぐに
ある人に事の経緯を伝えると
新しい話が出てきた。
ザウルス社のデリバリーステーション。
ここには商品の在庫があるのだけど
ここの商品が盗まれているらしい。
どうして分かったかというと
債権処理が進む中で
商品の在庫が売られた。
それをすべて買ったのはある会社。
確か、総額3億円ぐらいの商品だったと思うが
3.000万円にも届かない金額で取引された。
わずか1割の値段だ。
まあ、それは破格値とかでなく
倒産会社の商品とはそれぐらいの取引が常だそうだ。
そしてその会社が買い取ったあと
在庫リストと在庫を比較すると
あきらかに商品が足りなかったことに気づかれたそうだ。
100個あるからと買ったものが
90個しかなかったら怒るのも当然である。
そこで調べてみると
長崎にある店に商品が大量に入荷してて
ネットで販売してる事実を突き止めたって次第だろう。
しかし
警察から電話がかかってきたのも驚いたが
債権処理の話や在庫不足の話。
あげくはその会社がとった行動など
そういう話が表に出てきてることほうに
聞いていながら、もっと驚いた。
しかも忙しさのあまり見るのをサボっていた
某投稿系掲示板にもその事が上がっていた。
「泥棒の首謀者は座右菌」
という文字も見つけた。
かくして
千葉で起きた窃盗事件の第一容疑者になったのである。
つづく
1.12
2004年の上半期は
本当に色んな方々に支えて頂いた。
倒産した会社の商品を買ってくれるお客さんは勿論のこと
困っているだろうと
チャーマス北村さんは
珍しいバルサファイブオーをくれた。
「売って足しにしろよ」
もちろん売ってお金に替えるわけがない。
愛知のプロショップのオーナーさんからも
日々の売り物や珍しいものを頂いた。
なによりも先日のロッドの制作に踏み出せたのは
オーナーさんがいなければ絶対無理だったこと。
50友の会や50好きの友人たちは
出版のための大事なルアーを貸出してくれた。
スポーツザウルス再建のための嘆願証明も
沢山の人の応援の証だった。
一期一会と簡単な言葉では済まされないほど
出会った人と大事に付き合うことの大事さを知った。
そういえば
その年の初め、
まだ倒産の波風が激しい頃、
則さんからもらった電話。
「オマエ大変だろ?
俺のデリバンとカヌー
それにバスタックルを詰めて送るように
指示したからよ、売るなりなんなり好きに使えよ」
支持されたヤツがストップをかけたか
支持されたヤツがくすねたか
その真意は
今となっては分からないけど
来なかったからホッとしている。
この人の優しさや応援に浸っていれた訳ではない。
それは店の固定電話にかかってきた。
「もしもし、私、千葉県警の○○といいますが・・・」
またひとつ
厄介事が湧いた。
つづく
1.11
梅雨が明けた。
2004年の夏はいつもに増して暑かったのを覚えている。
7月にはスポイーツザウルスの商品で未完のままだった
渓流用のルアー入れ
ブラウニーワレットが仕上がって販売を開始した。
やはり凄い人気だった。
そして8月の初め
千葉県袖ヶ浦から荷物が届いた。
ルアーのサンプルだ。
クランクベイトタイプのシェイクヒップに
ペンシルベイトのポンドスケーター。
いよいよハンドメイドによるバスブランド
ガウラクラフトの始動だ。
先行したシービーワンに続いて
大阪営業所に居た子もブリッジという
ジギングのメーカーを立ち上げた。
2001年に一緒にロシアに行った
正影くん、佐藤くんも
トラウトブランドで動いていた。
仲間内でシーバス部門はどうするって話になって
それでは僕がやりますかと手を上げた。
ザウルスキングでメーカーをする気はなかったので
ここでコードライフタイムデザインを立ち上げる。
交通機関が落ち着いた盆の終わり
長野県へ飛んだ。
長野県といえば釣りをしている方ならピンとくるだろう。
テンリュウブランクを使ってのロッド制作のためである。
テンリュウグループといえば
スポーツザウルスの債権者として
かなり大きい額を被ったところである。
そこには
スポーツザウルスのロッドの
未完成のブランクが沢山存在していた。
ピリピリとしたムードの中で商談を進めた。
しかしそういうムードにもすでに慣れてはいた。
この半年、ザウルスキングという名前を出しただけで
どこでもそんな雰囲気になる。
あらかたまとまりかけた最後に
会長さんから前金で払うように指示が出た。
シーバスロッド100本分を前払いである。
まあ信用もないので当然、
少々キツイ話になったと思ったときに
同行して頂いた愛知のプロショップのオーナーさんが
間髪入れずに口を開いた。
「コイツは大丈夫だから」
たった一言で納品後ひと月経ってからの後払いになった。
スポーツザウルスという、則弘祐という
後ろ盾を無くした僕は
ただの西の田舎の釣具屋ということ。
僕自身にはなんにも価値がないことを
あらためて再認識した一日だった。
逆に
信用を勝ち取れば物事を優位に運べること。
それを学んだ一日でもあった。
とにかくこの会社で信用を勝ち得て
シーバスロッドのラインナップだけでなく
スポーツザウルスの販売したロッドの修理を
受けてもらうことを目論んでいたから
佐世保に帰って真剣にメーカープランを立てたものである。
つづく
1.8
則さんが低い声で言う。
「誰も戻ってこないんだ」
誰をどういう順序で
どういう誘い方をしたのか分からないが
どうも話の流れ的に
旧社員さん達に声をかけているらしい。
新しいザウルスのために
必要な人材ってことか。
僕はザウルスが倒産してからのこの6ヶ月間。
たくさんの人達と連絡をとっていたので
誰がどういう動きをしているのか
ある程度は把握していた。
考案ルアーが発売されているほどの
工房の主要人物のひとりは
話をもらって
戻ろうかどうか悩んでいると言っていたが
結局は戻らなかった。
まだ債権者会議も終わっていないのに
早すぎますよ。
そう伝えるが
新しいザウルスの事を考えれば
人材確保は急務だったのだろう。
この頃だったか、
ある人から連絡が入った。
債権者のひとつ
ある銀行が債権者から降りたらしい。
銀行が降りるとはどういう事だと聞けば
あの僕らが聖地と呼んでいた
木更津の工場と則さんのログハウスを
担保にとっていた銀行らしい。
そこが降りたという事は
その貸付け金額を回収したという事になる。
僕の手元には
債権者とその債権金額のリストがあったので
調べてみると
今となっては記憶が定かではないが
1.600万円ぐらいだったと思う。
それを誰かが支払って
あの物件を手にいれた。
ということになる。
普通の暮らしをしていたら
そいうのはあまり詳しくはない。
詳しくなくて当然だろうけど
大きなお金が動いたことと
そういう抜け出しができることに
とても驚いたものだった。
他の債権者の方のすべてが
これを知っているわけではないだろうけど
知ったら良い気はしないだろう。
世の中、平等なんて無いんだね。
かくして
債権者会議が終わる前に
木更津の工場と則さんのログハウスは
誰かのモノになった。
モノは取り返せても
人のココロは取り返せなかった。
そんなところだろう。
つづく
1.7
初めての著者だったので
確か300冊ぐらいサインをしたと思う。
左手の包帯に血がにじんでいたので
それが本につかないように気をつけながらね。
店内もみんなが手伝ってくれて
ようやく落ち着きをみせた6月
佐世保では小学生6年生の女の子が学校で
同級生をカッターナイフで殺害した事件で大騒ぎになっていた。
街全体が重く、暗い雰囲気に溢れていた。
そんな中、
スポーツザウルスが倒産して
バラバラになったエキスパート達が
個々にブランドを立ち上げ始める。
最初に立ち上がったのは
チャーマス北村さんをメインにした
ソルトウォーターのシービーワンだ。
グッズが先行販売され
続いてロッドがリリースされた。
ステッピンフラッターの製作者
笠井くんが作った新しいバスブランド
ハイファイブのルアー、「ハイボール」のサンプルも届いた。
愛くるしいそのルアーはテーブルターンが得意で
こだわってこだわり抜いたルアーは
さすが奇才、思わず唸ってしまう。
そうやってみんなが立ち上がり始めたので
明るい話題に随分と救われた。
携帯電話が鳴る。
小さな白黒の画面をみると
「則さん新携帯」とでていた。
そうだった。
出版の報告をしていなかった。
何を言われるやらと恐る恐る出ると
「則さんだ」といがいと元気そうな声。
「なんだよオマエ、水臭いな〜
ファイブオーの本をやってるなら言えよ
協力できること沢山あるだろよ」
そりゃあ出来るなら一緒にやりたいですよ
でも、そういう時期じゃないでしょ?
と返すと
「ま、そうだな
とにかく5冊ほど送ってくれよ」
どこにいるんですか?
と言った瞬間に
あ、聞かないほうがよかったかと思いもしたが
聞かされた住所は
東京の聞いたことがある会社名だった。
しばらくぶりの電話だったので
聞きたいことも、言いたいことも
沢山あったけれど
今日はこれぐらいにしておこうと思ったとき
急に則さんの声のトーンが変わった。
つづく
1.6
左手の手術を終えた次の日から
毎日、消毒に病院に通う。
包帯を取るたびに
毎回おぞましい光景を目にする。
たぶん肉がかなり無くなったのだろう
手のひらを寄せて縫われていたので
手が肉まんを食べる時のカタチだ。
その内側からはストローが2本
中からでてきている。
膿をここから出すらしい。
僕にしては大惨事だが
先生いわく
「キミは運が良い」だと。
手首のしたの方から刃が通った跡があるが
大きな血管の上をステップして通っている。
コレを切っていたらこんなものでは済まなかったらしい。
この左手は17年経った今でも
小学生なみの握力と
まったくチカラが入らない小指
寄せ集められたためにできた大きなシワ
そのままである。
痛みに耐えながらも
僕には癒しの空間があった。
改装後の店内、その一番後ろの壁に
僕の釣具コレクションを並べてある。
その設置や配置替えは
右手一本でもできる。
普段仕舞ってあるルアーも
ボックスから出してズラリと並べる。
並べてはニヤニヤ。
並べ替えてはニヤニヤ。
何もできないから暇でしょうがなかった。
しかしこれが
更なる大惨事を引き起こすとは
この時は知る由もなかった。
そして5月21日。
初めての著書、
「永遠のスタンダード、バルサ50」が
入荷した。
つづく
1.5
それまでコンクリートの打ちっぱなしの床と壁を大改装。
床は耐水性の塗料を塗り込み
壁はログハウス調の丸太を打ち付け
50坪弱の店内を前半分を店舗、
後ろ半分を工房と事務所として分けた。
後ろの壁には
僕のアンバサダーのコレクションや
ルアーを無造作にかけ
さながら趣味のログハウスと言わんばかりだった。
これも則さんのログハウスを意識していたのだと思う。
アレは今でも憧れだ。
店はカッコ良くなったけれど
なにせメインの仕入先が無くなったものだから
問屋さんに連絡を入れて
普通の釣具屋っぽく色んな商品を置くこととなった。
心機一転、釣具屋のやり直しである。
「永遠のスタンダード、バルサ50」も
最終チェックを終え僕の手を離れ
あとは発売を待つだけとなった。
5月9日。
出版という大きな仕事を終え
気が抜けていたのだと思う。
常連たちが使う裏の勝手口がある。
そこの段差がどうも気になった。
その段差でつまづかないように
角材で段差を埋めるため
電動丸ノコを使って切断していた。
その時の事をあまりよく覚えていない。
角材と固定していた左手を持ち替えようとした時に
それは起こった。
ダーーンという音と同時に
角材が飛び跳ねたのは
スローモーションで記憶にある。
気が付けば
あたり一面、血だらけだった。
持ち替えた場所が
勢いよく回っている電動丸ノコの刃だった。
手のひらはズタズタに引き裂かれ
表面がパックリとふたつに割れていた。
普通なら救急車を呼ぶべきだろうけど
店の裏に大きな総合病院があるので
ビニール袋に拳を入れ
手首を縛り付け
たまたま来ていた友人に乗せていってもらった。
自分で
「すみません、急患です」と受付で言った。
差し出した手のビニール袋はすでに
輸血時の血液パックぐらい
血が溜まっていた。
すぐに処置室に通され
麻酔を手のひらに何箇所も打たれる。
思えばコレが一番痛かったかもしれない。
結局、手のひらを20針も縫う大惨事だった。
僕の左手を粉砕したこの電動丸ノコは
自分への戒めのために
今も僕のデスクの後ろに飾ってある。
つづく
12.28
中学生の頃
明日は大事なテストがあるという事で
普段はまったく勉強しないものだから
朝まで一夜漬けの勉強をするタイプだった。
しかし
晩ご飯も食べた
お風呂も入った
さあ、勉強始めるかってところで
必ず机の上の整理を始める。
上が片付いたら
本棚や引き出しの中まで整理を始める。
途中、手にとったマンガ本を読んでしまう。
そして朝になる。
忙しい時ほど
何か別のことを始めてしまう。
そういう悪い癖があった。
「永遠のスタンダード、バルサ50」を
大急ぎで仕上げてる時もやってしまった。
店舗の大改装。
陳列棚の整理どころの話ではなく
床板から全部換えた。
といってもほとんどを
仲間たちやお客さんたちがやってくれた。
ありがたい話である。
そして僕は東京へ。
今回は観光も美味しいものも何もない。
出版社にカンヅメで校生作業だ。
校生は間違い探し
目で追うとスラスラと流してしまうので気づかない事が多い。
だから声に出して読む。
さすがに人前では
「あとがき」を声に出して読みきれなかったが・・・
2日間みっちりとやって
僕の本作りは終了した。
今回、急いでいたのには理由があった。
バルサファイブオーの商標権利は
当然、スポーツザウルスにあるのだけど
そこが倒産して権利が空白な時に発売しようという事だ。
許可申請や挨拶回り、契約金の問題など
ややこしい問題をこなさなくて済む。
そしてもうひとつ
編集長Eさんの頭にはひとつの案があった。
「Vo.2がVo.1を超えたことはない」
これはどれにでも当てはまる方式で
分かりやく言うと
映画のVo.1がヒットして
Vo.2を出してもVo.1の売り上げを超えない。
そういう事だった。
編集長Eさんは
Vo.2でVo.1を超えてやろうと考えていた。
最初に出版する
「永遠のスタンダード、バルサ50」は
その歴史書として文字中心の本にし
Vo.2はルアーの写真集を出して
Vo.1を超えようと考えていた。
ワクワクするような話にすぐに飛びついた。
表紙は僕の好きなホッツィートッツィーに決まり
あとは印刷の仕上がりを待つだけになった。
つづく
12.24
4月も半ば
一週間ほど集中してやっていた原稿書きを
いったん中断して
釣りの遠征の準備にとりかかる。
いつもの山口のダム。
年々シビアになっては来てるけど
50センチアップを今年も見れた。
釣ったのは僕でなく
前席に乗っていた編集長Eさん。
風も止んだ夕暮れのワンド。
減水して顔を出した石垣。
そこを通したルアーに強烈なアタック。
あんな激しい出方、久しぶりだった。
時間の余裕があるバス釣りは
本当にいいものだ。
もちろん、編集長Eさんがいるってことは
ちゃんと仕事ってことだ。
そして、その遠征中に
一回目のザウルス債権者会議があった。
則さんも出席していて
会議に出席した債権者でもある友人がいうには
もう、しどろもどろだったそうだ。
則さんの
「俺が良いって言ってんだから、いいんだよ」
と強気の言葉を吐くのを知っているから
しどろもどろだったと聞くと
倒産させたのは本人と分かっていても
ちょっと心配になる。
「なんか俺、騙されてんじゃねーかな」
と弱気の言葉も頭に浮かぶ。
そういう事を考えながら帰る道のりは
通い慣れた道のはずなのに
永く、永く感じたものだった。
つづく
12.23
岡山から帰ってきて
僕は一心不乱に原稿を書き続けた。
原稿を書く極意は
とにかく無心で、大量に書く。
まずは一気に書く。
一度ピリオドを打った文章というモノは
増やす事より減らす事の方が容易なのだ。
と、編集長Eさんに教わった。
それ以降、沢山の寄稿の仕事をやっているけれど
今でもこの教えを守っている。
しかし僕はどちらかというと
釣行記の方が得意だ。
自分が体験した風景や時の流れを
文章にするほうが面白い。
説明文はどうも苦手だ。
設定した目次の半分ぐらいを書き上げた時だったか
則さんから聞いた話を文章にした時だったと思う。
急にほろっと涙が落ちた。
その話を聞いてた時の風景が頭に浮かぶ。
しかめっ面から始まって
最後にニカッと笑う則さん。
ずるいよ、その笑顔。
しばらくボーっとしていた。
声、聞きたいな・・・
でも電話はしない。
この本を作っている事は内緒にしていたし
原稿を終わらせるまで電話も控えようと決めていたからだ。
僕は今まで書き上げたモノを保存して
新しいフォルダーを作りにかかった。
今の想いを指先からキーボードに伝える。
まるで何かに取り憑かれたように叩く。叩く。
ありえない程の短時間で
一気に書き上げたその文章は
見直してみても削除する部分がなかった。
フォルダーに名前を入れ保存する。
それをメールに添付して出版社に送信する。
この本は早く出版したかったので
原稿書きと編集作業を同時に行っていました。
ですから
ひとつの目次項目が完成する度に
出版社に送っていたのです。
すぐに編集長から携帯に電話がありました。
「なんか、着てますが?」
と冷めた声。
ああ、急に書きたくなって・・・と僕。
「まだまだ先は長いっすよ」
怒られた。
僕が道半ばで
短時間で一気に書き上げたフォルダー名は
「あとがき」
そうなのです。
あの本の「あとがき」は
「あと」でなく、途中で書いたものだったのです。
つづく
12.22
まだ春の声も届かない
寒さが残る日。
出版社から大きな仕事を頂いた。
バルサファイブオーの本を出してみないか?
もちろん、ひとつ返事だった。
ファイブオーには
バスコ、スミス、アルファ&クラフト、
そしてスポーツザウルスと
販売されてきた会社がある。
それごとにまとめてみたい
そういう想いがあったからだ。
まあ一番の目的は本を書くという
やったことがない事への憧れだった。
開高健、則弘祐、西山徹さんらに
近づけるとも思ってはいなかったが
釣り師の彼らがやってきた
本を書くという仕事をやれるのは
とても嬉しかった。
4月の初め
春バス遠征の前に
僕は友人と岡山に向かった。
岡山の委託販売をされているショップさんに
ファイブオーコレクターを集めてもらっていた。
僕のもとにも
友の会の有志たちがルアーを送ってくれ
かなりの数が集まっていた。
岡山で編集長Eさんとカメラマンと合流。
この編集長は
深い付き合いはないけれど
僕を出筆の世界に上げてくれた恩人だと
今でも思っている。
岡山のショップに
もの凄い量のファイブオーが集まった。
友人とカメラマンはひとつひとつを写真に収め続け
僕と編集長は歴史を文字にしてまとめていった。
自分ではかなりの知識があると思っていたが
こんなに沢山のファイブオーがあると
その知識を覆す個体まででてくる。
本にも書いているが
そこで気づいたのは
ホッツィートッツィーの2フッカーの製造年だった。
ホッツィーの2フッカー時代に
エアブラシで吹かれた目玉と
塗料をハンコみたいに押して描く目玉が
目の前に並べられた。
また
ルアーの背中にある文字
「BALSA-50」
この「0」の文字に大小があるのを見つけたのも
この時だった。
これだけの量が一堂に揃ったから
出てきた歴史の跡だった。
何度も何度も原稿が書き換えられる。
編集長に
大丈夫か、この人。と思われただろう。
強く残る思い出に
そこそこの知識と
大量の資料を所持していたので
安心してこの仕事に望んだが
一番大事なそれら全てを
まとめておくことをやってなかった代償は
ヘビーに僕にのしかかっていた。
本はノリでは書けない。
とくに解説や歴史書では尚更だ。
いい経験をさせてもらった。
宿泊したホテルの中も含め
みっちりファイブオーの歴史を考察した2日間だった。
もちろん、それで終わりではない。
そこで終わったのは、ほんの目次程度で
僕は夏休み前に
大量の宿題を言い渡された状態だった。
しかし考えてみれば
倒産や再建の問題を抱えていたときに
頭の中のすべてを大好きなルアー、
バルサファイブオーで満たしたのは
いいリセットになったのかもしれない。
次から次に出てくる事実に
翻弄されながらも
スッキリとして佐世保に帰ることができたんだ。
つづく
12.21
2004年。
僕の仕事始めは
正月の間に買いあさった
値引きされたザウルス商品を
ネットショップにアップすることからだった。
同時に○ちゃんねるを覗いてみる。
まあ、座右菌さん、ひどい書かれようだ。
ひとり
「あの人はそんな人じゃない」と
反論の書き込みをした人がいる。
たぶん友人のHくんだ。
彼ならこの話題で噛み付きそうだ。
ありがたいけど
ここの掲示板で本気にならなくてもいいよ。
ありがとう。
そういう、ぶつぶつと言いながら
仕事をする事が増えた。
僕はこういうの
楽しんで見れる人だけど
まともに受ける人は大変だろう。
誹謗中傷で自殺する人がいるというのも
わからぬではない。
たぶん
自分のことが書かれていてショックかもしれないが
それを皆が見て、皆からそう思われることが
もっとヘビーに感じるのではないだろうか。
顔や名前を隠してる人が言うことを
気にしなくてもいいだろうにね。
そうこうしていると
ザウルス未発売分のひとつめ
デッキベストが入荷した。
ベストタイプの拡張式救命具で
Sports Saurus Inc. と刺繍が入っている。
制作会社が完成品を納入できないまま
困られていた商品だ。
ザウルス社が全国に出荷する分の量だったので
なかなかの数だったが
愛知のショップとうちの2店舗で
なんとか売り抜けた。
2004年も変わらぬ忙しさでスタートした。
つづく
12.18
12月31日。
ザウルス倒産報道から7日目。
いつもより慌ただしくその日を迎えた。
ずっと頭から離れない言葉を
少し隅っこに追いやって
注文を処理していた。
先にも書いたが
倒産した会社の商品が
こうも定価で飛ぶように売れていくのは
ザウルスは、あらためて凄い会社だったんだ。
さすがに大晦日ともなると
午前中で荷造りがすむぐらい。
苦情も嫌がらせも
後片付けと一緒にすませ
鍵をかけ店を出る。
うちの赤い大きな恐竜の看板をしばらく見ていたら
頭から離れない言葉はセンターに出張ってくる。
同じ方向に向かっているその道は同じ道なのか。
とにかく
しばらく日常から離れたかったので
そのまま福岡の実家へ車を走らせた。
高速道路を走る。
ランドクルーザーは税金が高いが
その分、安心も与えてくれる。
時間にして1時間半。
CDもかけずに無音でずっと考え事をしていた。
ザウルス再建だけでなく
これから自分は何を売って行くのか
○ちゃんねるに書き込みがあった
「座右菌おわた」を思い出す。
まあ元々則さんやファイブオー、ザウルスが好きで始めた店。
名付け親も則さんだし
これで店を終わらせてもいいかな
なんて軽い考えではあった。
走行時間、1時間半のうちの
ほんの一瞬だけどね。
実家に着いたが上がりもせずに
気になっていた事を確認しにいく。
うちの実家の周りには
いがいと釣り具屋がひしめき合っている。
倒産したザウルス商品を
どう扱っているのか知りたかった。
もとよりザウルス倒産を知っているのか。
僕はいつものザウルスキャップではなく
黒色の無地のニット帽を深々と被って店を回った。
ザウルスの商品は
自分が毎日接しているから
広い店内であろうともすぐに見つけることができる。
小物やルアー類は定価、もしくは1割引程度だが
ロッドなどは保証が効かないために
3割引、4割引、半額を見つけた。
「あるじゃない、来年から売る商品!」
僕は次から次へと店を周り
ごっそりとザウルス商品を買いあさった。
倒産会社の商品はタイミングよく
年末年始のセールに乗っかって
肩身の狭い思いをしていた。
という事は
情報は回っているということだ。
狭い業界、当然といえば当然だ。
肩身の狭い思いをしている
大好きなザウルス商品を
救い出してやったぜ。
といえば善人っぽいな。
なんて一人、大晦日の夜に
最後の店に入る。
その店を最後にしたのは理由があった。
その店チャーマス北村さんを呼んで
ジギングセミナーなどを開催されていた店で
ザウルス推しの店だったからだ。
歳末セールに賑わう店内に入り
ザウルス商品を探す。
見つけるも、見つけるも
歳末セールの黄色の値札シールはついておらず
小物もルアーもロッドも
通常の白い値札シールのままだった。
もしかして倒産を知らないのかもしれない。
定価では僕も買い占める気はないので
自分用に好きなものだけをレジに持っていく。
お金のやり取りをすませ
紙袋を受け取るときに
僕よりも年上ぐらいの店員さんに話しかけられた。
「ザウルス、好きとね?」
その言葉と口調、
そしてその冷ややかな目で
ハッキリと判った。
やはり倒産を知っている。
「ハイ、大好きです!」と元気よく答えると
店員さんは話を続けず背中を向けた。
「哀れだね、何も知らずに」と笑われたか
「俺もだよー、ちきしょう」と泣かれたか。
どちらにしろ
ザウルス商品を定価で売っているということに
好感が湧いてきた。
自分の好きなものが大事にされているのは嬉しいことだ。
僕は語りが続くのを恐れて
そそくさと店をでて
ザウルス商品が満載の車に乗り込んだ。
こうして僕の2003年は幕を閉じた。
あとで知ったのだが
数えで「前厄」の年だったそうだ。
つづく
12.17
その日の夜。
2003年の最後の日を迎えるというのに
僕は頭を抱えていた。
それはもちろん
電話で聞いたあの言葉
「来年早々、ザウルスが再開」だ。
電話がかかってきたタイミングとして
ふたつ考えられた。
ひとつは
先に話した則さんとの電話で僕が
「来月から何を売ろうか」と言った事に
則さんが反応して話が回ったのか。
ふたつ目は
最初から決まっていた事なのか。
前者であって欲しい。
後者ならば故意的な倒産
「計画倒産」と言われかねない。
とは言え
ザウルスの復活は
僕の願いでも、みんなの願いでもある。
でも
債権者会議も始まってないのに
順番が違うような。
借金を返した訳でもないのに
道が違うような。
しかし
向かっているゴールは同じのような。
いや待て、違うゴールのような。
普段、深く物事を考えない僕は
大きく混乱していた。
ひとりでは
どうにもならなかったので
愛知のショップオーナーさんに連絡した。
オーナーさんも
「なんだそれ」と驚いておられた。
実はこの時
オーナーさんは違う動きをされていた。
ザウルスが2004年度に販売する商品を
制作会社に依頼したままで倒産したので
それらの会社は収めるところもないので丸損。
そこで作りかけで止まっている製品を
完成させてもらってコチラで販売しお金に替えるという事だ。
すごい人だと思った。
ザウルスがどこで何を依頼したか知ってるし
業界で信用されているから話もまとまる。
僕なんかザウルスの取引業者さんからは
怒られてばかりだったからね。
ザウルスキングのって言っただけで
電話を切られたこともある。
それぐらいファンの熱い思いとは裏腹に
業界ではその名前に拒絶反応が起こっていた。
それでも一番怒っている債権者の方々に
一週間以内に話を付けるなんて
個人の信用の何者でもないだろう。
こういう事を続けていけば
ザウルス再建は許してもらえるのではないか。
その道は絶対に間違っていない。
そう信じて進むしかなかった。
それにしても
「来年早々、ザウルスが再開」の言葉が
頭から離れない。
夜中までホットラインの更新を迷ったが
その事を書く事をやめ
異常なぐらいの短文で
その日のホットラインを更新した。
つづく
12.16
12月30日。
ザウルス倒産報道から6日目。
携帯電話が鳴る。
画面をみると「則さん新」と出てた。
「はい、おのさんだよ」と出ると
笑ってもくれない。
が、昨日よりは幾分元気そうだった。
則 「おまえ一人、矢面に立ってんだろ?」
ああ、一人と思ってないので
なんちゃないですよ。
少しは落ち着いてますか?
則 「ああ、ありがとな」
会話は進まない。
どうしたんすか、今日は?と問うと
則 「だから、大丈夫かと心配してんだよ」
あ、有難うございます。
矢面なんか思っていないので大丈夫ですよ。
ただ、、、
ワザと間をもたす。
来月から何を売ろうかな〜あはは。
ここも目論見に反して
笑ってもらえなかった。
その時の話はそれぐらいだったかな。
会話も弾まないし
やらなければいけない事は山ほどあるし
それでその日の電話を切った。
次から次と注文が入ってきてたので
荷造りをしようかと立ち上がったら
また携帯電話がなった。
則さん何か言い忘れたかな?とみると
登録のない知らない番号だった。
とりあえず出る。
「あー○○です。元気ですか?」
ロシアに一緒に行ったオジ様のひとりだった。
「毎日、情報発信ご苦労様です」
ここのホットラインを見てらっしゃるのかな。
挨拶のやりとりをして話を続けると
「来年早々、
ザウルスは販売再開しますって
ホットラインに書いといて」
度肝を抜かれた。
つづく
12.15
12月29日。
ザウルス倒産報道から5日目。
昨晩はどうしてこうなったのか?
倒産させた経緯を聞かなかったことを
少々悔やんではみたが
実際、なかなか切り出せるものではないし
「オマエには関係ない」と言われればそれまでだ。
とりあえず愛知のショップオーナーさんには
電話があったことを伝えた。
その頃の目標というか想いというのは
まずは 迷惑がかかった債権者様に許してもらい
ザウルス再建。
仕事をまた続けてもらい借金を返していく。
それが完済したら
則さんをスーパーバイザーとして戻ってもらう。
それしかなかった。
愛知のショップオーナーさんは
とにかく業界や制作会社に顔が利く方で
僕は頼るしかなかった。
だからその時の僕にできることといえば
皆さんからお預かりしている
再建嘆願署名をひとりでも多く集めることだった。
それしかなかった。
なかった、なかった。と
本当に一筋の道しかなかったんだ。
ネット上でも
友人たちや他のメーカーのファンサイトも
署名運動のリンクを貼ってくれた。
手配りの運動であれば
途方もない時間が掛かるところを
ネットというのは一瞬で広まる。
なんとも有難いと感じた。
大阪の友人から電話が入った。
「○ちゃんねる見た?」
○ちゃんねるというのは
当時、もの凄い人気を誇っていた
掲示板スタイルの投稿サイトだ。
普段、見慣れてないし
ここ数日そんな時間もなかったので
試しに検索して覗いてみる。
「釣り」というカテゴリーの上位に
「ザウルス倒産」という文字を見つけた。
驚いた。
言葉は適切ではないが
ものすごく盛り上がっていた。
どうしてこんな事知ってるの?って話もあれば
これはないだろ、と思わず笑ってしまう投稿もあった。
ほとんどが後者だったが。
前後の文章から察するに
うちの店のことを「座右菌」と呼んでいらっしゃる。
則さんは「海苔」だった。
○ちゃんねるを見るのは
それから僕の日課となった。
インターネットの「便利」と「危険」を
同時に感じた日だった。
つづく
12.14
12月28日、夜。
則さんから電話が入った。
今まで聞いたこともない元気のない声だった。
「則だけど・・・」から
話が出てこなかった。
僕から口火をきる。
今どこに居るんですか?は
たぶん、僕にも答えないだろうから
「電話、新しいの?変えたんですか?」
則 「ああ」
そしてまた無言が続く。
まったく掛けてきておいて何も言わないって、と
言おうとしたら
則 「何がなんだか分からなくてよ」と
弱々しく話始めた。
それまでイライラしてたけど
この一言で今の則さんの置かれた立場を理解した。
「ちゃんと飯食ってます?飲み過ぎたらダメですよ?」
少し強い口調で言う。
そして僕はそれを言いながら
ポロポロと涙が落ちてきた。
則 「ああ、あんまり入らなくてよ・・・」
それから則さんは淡々と話を始めた。
23日からの事。
それから今日までの事。
迷惑かけてる事。
僕は「うんうん」と
まるで子供の話を聞いているように答えるだけだった。
答えながらポロポロと涙を落としていた。
則 「なんか俺、騙されてんじゃねーかな」で
締めくくったので
でも、引き金を引いたのはアナタです。と答えると
何か電話の向こうで状況が変わったのか
また連絡するからと
コチラの返事も聞かずに電話を切った。
元気はなかったけれど
とりあえず生きていたのでホッっとした。
しばらくひとりで放心状態だったけれど
落ち着いてきたら
新しい携帯電話って用意してたのかな、とか
なんか近くに誰かいたよな、とか
色々と勘ぐってしまう僕がいた。
つづく
12.11
12月28日。
ザウルス倒産報道から4日目。
けたたましく鳴る電話は
落ち着きを見せ始めたが
メールは相変わらず凄い量だった。
その日も朝から返信作業をしていたが
いつもとは少し違っていた。
それまで多かった
苦情、批判や問い合わせは僅かで
再建署名の連絡が多かったのだけど
突然、この日ぐらいから
商品購入のメールが多く入った。
24日から4日間。
倒産関連ばかりで注文はほとんど無かった。
強気で「このまま通常販売を続ける」と言ったものの
まったく売れなかった日が続いたので
どうしたものかと思っていたのも事実だった。
実際、お店の方にも
商品を買いに来てくれる馴染みのお客さんも多かったし
「困っているだろうから、お金をおろして買いに来た」
と言ってくれる方もいた。
ザウルスのスタッフジャンバー、赤ジャンが
どんどん売れていく。
自分も着ているけれど
倒産した会社のロゴが大きくプリントされたものを
普通のケースなら買わないし、もう着ないよね。
あらためてザウルスの人気を知る。
メタルジグやルアーがまとまって購入されていく。
折れたら保証もないロッドが売れていく。
壊れやすいロッドに保証がついていないのは
メーカーとしてどうなんだ。
それを販売することはショップとしてどうなんだ。
それはユーザーのことを思ってない儲け主義でしかない。
その都度、現段階で保証対応はでいないので
保証書は付けることはできないと言うと
保証書は使わないけれど保証書は記念に欲しいと言われる。
ジグやルアーは仕方ないとしても
ロッドの修理対応ぐらいはやれたらいいよな。
そう考えていたら
僕の携帯電話に
知らない番号からかかってきた。
誰だろうととってみると
暗く、沈み込んだ声がした
「則だけど・・・」
僕は一瞬、声が出なかった。
つづく
12.10
12月27日。
ザウルス倒産報道から3日目。
考えに考えて、そこから更に考えて
僕は単独で
スポーツザウルス再建運動を始めた。
まずは署名運動。
ネット上に署名フォーマットを置いて
それをプリントアウトして頂き
署名して送っていただくというスタイルだった。
お店に多くのお客さんがすぐに来て
署名をしてくれた。
ザウルス商品を使っていない釣り人も来てくれた。
反面、
このことをアップするや
いくつかのお叱りも受けた。
当然だ。
債権者会議も始めってはおらず
借金踏み倒されて、逃げられて
何が再建だ。
その意見は正しい。
また
直接うちに来たクレーム数う以上に
「あの長崎のザウルスはなんなんだ」と
友人や業界の知り合いの元に入っているのが耳に入った。
再建を望む熱いファンも沢山いるけれど
突然の終わらせ方に憤慨している人や企業も多かった。
甘かった。
いつも思い立ったらすぐに行動してしまう性格が
沢山の人や企業に嫌な思いをさせてしまった。
かけている迷惑を謝った。
けれども
債権署名運動は続けた。
これで終わらせれば、これで終わり。
再建できれば
迷惑がかかっている企業にご理解いただいて
今回の債権回収とこれからの売上げと
お金を回していけるようになれる。
そのプランを提示した。
さらに甘かった。
年の瀬に損失がでて
怒り溢れている時に
そんな絵空事
どこの誰だか分からない
長崎の田舎者の話など
誰も聞く耳を与えてくれなかった。
僕はザウルスファンには応援されながらも
釣具業界、ときに制作企業からは
一気に煙たがられる存在となってしまった。
つづく
12.9
12月26日。
少し余裕ができたので
シベリアでお世話になった
愛知のプロショップのオーナーさんに
今後どうするのかを聞きたくて電話を入れた。
普通であれば
倒産した会社の商品は
早々に値段を安くして売り抜けるに限る。
がしかし
我々はザウルス社に食い込んだショップ。
それなりに強い想いもある。
社長も、営業も、
工場の作り手たちも知っている。
自分たちが信じて売ってきたザウルス商品を
倒産したからと言って
値段を落とすのは辛かった。
このまま通常販売を続けることにした。
それを決めたあとのことだ。
他のザウルス推しのショップの店長から電話が入った。
仲もよくなかったので少々驚いた。
「これからどうするんですか?」と聞かれ
いらぬ世話だと思いながらも
とりあえず先ほど話し合ったことを伝えた。
「分かりました。私もそれに合わせます」
との答えをもらった。
確かにそう言った。
それからまだ入ってくる
苦情や問い合わせに応対しながら夜を迎えた。
友人から電話。
ダイレクトメール会員登録をしているショップから
ザウルス商品ディスカウントのメールが入ったとの連絡。
昼間話し合ったザウルス推しのショップだった。
電話の着信履歴からすぐに電話をかける。
「ザウルスキングの小野山だ」から
怒涛のごとく言葉を発し続けた。
たしかに
商品を仕入れてお金を支払えば
その人の物だから好きにしていいだろう。
しかし
安売りはしないと約束して
舌も乾かぬ間もなく裏で手を返していたことに激怒した。
怒りで電話をもつ手が震えていたのを覚えている。
その店長とは
それから10年後の2013年3月に開催された
KSF 九州ソルトウォーターフェスティバルで
スタッフをしていた僕の前に現れ
「あの時はすみませんでした」と謝ってきたので
僕も右手を出して握手し終わらせた。
手先だけの軽く浅い握手だったけれど
手を合わせた以上、終わらせた。
ザウルス倒産報道から2日目。
励ましやご心配に涙し
人の心に安堵があったり怒りに溢れたり
違った意味の忙しさを感じていた。
つづく
12.8
とにかく、その年の25日は
パーティー気分がぶっ飛んでしまうほどの凄まじさだった。
励ましや心配の連絡も多かったが
「ザウルス」という名前で連絡がつくのはうちだけなので
知らないユーザーさんやいくつかのショップさんから
えらい剣幕でまくし立てられた。
電話をとるなり
「俺が修理に出しているロッドはどうなるんだ!」
いや、そこは僕に言われても・・・
「オマエ訴えるぞー!」
「弁償しろ!」
ちょっと違うような
釣具屋さんからも
「今後のアフターはどうなるんだ」
「お宅がちゃんとやってくれ」
それも違うような
「うちにザウルスのロッドが○○○本ある
詳細をファックスするから全部買い取ってくれ」
ええええ
電話は鳴りっぱなし
出て謝る。
それの繰り返し。
でも全部受けて立ち続けると決めてたから
全部ちゃんと応対したし
当事者のつもりで謝り続けた。
「ほら見たことか
だいたいお前らのやり方は・・・」
という馬鹿げたクレームなどもあったね。
そのうち債権者の方々からも電話が入るようになる。
ザウルス社から制作を依頼した商品の未払いとか
作っている途中だとか
そういう方々からだった。
ある制作会社からは
「あの社員を連れて出てこい」と
かなりの口調で責められた。
そりゃそうだよね。
年末に予告なしで飛ぶんだから
皆さん血相を変えるに決まっている。
なんで僕が怒鳴られるんだろ?
なんで僕が謝っているんだろ?
一瞬考えたが
そんな暇もなくかかってくる電話やメールに
慣れてくる頃には
やっぱりザウルスって凄いメーカーだったんだ。
強く感じた。
と、同時に
僕は西の果てにある釣具屋、いちショップ。
確かに社長や社員さんたちと仲がいい。
ザウルス社が倒産して
僕に連絡が集中しているって事は
僕が凄いのではなく
ザウルス社とか則さんとかのフンドシで
僕は相撲を取っていたのかな。
そう思うようになった。
その後、もっとそれを感じるようになる。
ザウルスキングのホームページのカウンターは
それまで毎日600件ぐらいだったのが
24日から6000件を超えるようになった。
一瞬、僕もしばらくどこかに飛ぼうかなと思ったけれど
もう後戻りはできない状況まで追い込まれていたのも
確かだった。
つづく
12.7
それはクリスマスの悪夢だった。
社員さんたちが集められ
則さんから話があったらしい。
らしい。というのは
当然、僕は社員ではないから
聞いた話になる。
泣いている人、肩を落としている人。
いがいと冷めている人。
社員さんの数名から電話で説明を受けた。
則さんの電話はつながらなかった。
確かその当時の年商が10億円ぐらいで
借金が9億円とかいう話だったと記憶しているが
今となっては定かではない。
しかし、その年商と借金のバランスで
倒産するのかな?と疑問には思っていた。
こういう情報が回るのは早いもので
社員さんたちとの電話が終わると
友人や釣り仲間から連絡が入り始めた。
ネットでも倒産情報として上がっていた。
僕はといえば
意外と冷静だったような記憶がある。
だいたいあまり凹む人ではないので
さて、明日から何をすべきか?
それを考えていたんだと思う。
と言いながらも、
明日からする何かは新しい仕事のことではなく
この倒産劇で何をすべきかを考えていたので
未練はあったんだろうな。
とにかく
明日からの忙しさは予測できていたので
クリスマスパーティーの余韻に浸りながら
早めに休んだ。
携帯電話の電源を切って寝たのは
初めてだった。
それは翌朝起きても入れず
店についてイスに座ってから入れようと決めていた。
店に着く。
変わるはずもないのに
なんとなく店が暗く、静かに感じる。
イスに座る。
パソコンの電源を入れる。
携帯電話の電源を入れる。
タメ息まじりの深呼吸をする。
まだ、何をするべきかの答えがないまま
パソコンのメールボックスは延々とメールが入り続けた。
ファックスを見ると着信用紙が長々とつながって出ていた。
とりあえず時間が欲しいので
店の固定電話の受話器は上げっぱなしにした。
パソコンのメールの着信が止まらない。
完全なタメ息をつく。
敗戦処理の投手はこんな気持ちでマウンドに上がるのだろうか。
永く、重い一日が始まった。
つづく
12.2
2003年の12月
その年は寒かったが
釣りばかりしていた。
闇雲にするのではなく
落ち着いてポイントを読み
何のルアーをどのコースでトレースして
どこで食わせるかを毎投やっていたら
結果がついてきた。
僕は自分自身
釣りがズバ抜けて上手いと思ったことはないけれど
釣るためにはどうするかが
やっと分かってきたような時期だった。
年の瀬も押し迫った12月23日
工場の温排水が流れ込む漁港で
青物が釣れていると聞き
早朝から友人たちとジョンボートを港に降ろした。
エギングをしている釣り人を避けて
対岸に向かう。
護岸の置くから勢いよく流れてくる温排水に向かって
小さなシンキングミノーをキャストすると
すぐに40センチぐらいのヒラアジが釣れた。
同船者にもヒット。
これがなかなか上がってこない。
長い格闘のあと、ついにラインブレイク。
何やら、とんでもないサイズの魚がいるらしい。
となりのジョンボートの友人が
ポップスインガーでポコポコいわせていたら
ズドーーンっと水柱が上がった。
それをみて僕も自分で作った小口のポッパーに換える。
水面を軽やかにチョビッチョビッといわせていると
バシャッっと水面が割れた。
と同時にリールからけたたましくラインが引き出される。
柔らかいシーバスロッドは弧を描き
海面に浮いているジョンボートの向きさえ変えた。
護岸でのラインの根ズレを気にして
強引に寄せると青く銀色に光る長い魚体が上がってきた。
キャッチしたのは70センチのハマチ。
タモ入れした瞬間に歓喜の雄叫びをあげた。
ルアーでの初の青物が
自分で作ったポッパーだったから
それは嬉しかった。
このルアーは
2年後、自社ブランドのCODEより
ペット・チョッパーとして発売した。
ペットのような愛くるしいチョッとだけポッパーという意味だ。
だからその日は上機嫌。
報告するために則さんに電話するも出ない。
次の日はクリスマスイブ。
夜はパーティーの予定があったので
朝からダッチオーブンで鶏の丸焼き作ったり
買い出しに出たりで慌ただしくしていた。
携帯電話にはもの凄い量の着信があったことも
気づかずに。
つづく
12.1
アムコボックスの件のように
則さんのタックルの話は面白かった。
中でも
バルサファイブローシリーズにある
プロペラ装着モデル、
ホッツィートッツィーやスマートアレック。
これらについているプロペラに刻印してある
「Balsa50」ネーム。
初期のものはブロック体ロゴで
のちに筆記体と変わる。
このことを友達と考察していたら
則さんが横から口を挟んだ。
「そんなんじゃないんだ」
この則さんの「そんなんじゃないんだ」のあとには
いつも重要な話がでてくる。
「俺が飲んでいたらさ
バランタインのボトルのラベルが目に入ったんだよ」
ちょっと遠くを見ながら
こういう話をするので憎たらしくカッコイイ。
バランタイン。
王室御用達のお墨付きを得た
150年の伝統を誇るイギリスの香り高きスコッチだ。
確かにそのラベルのロゴはファイブオーのアレだ。
そんな話を聞かされちゃ
シビレルよね。
なぜホッツィーは3フックから2フックになったのか?
そしてなぜまた3フックに戻ったのか?
これも僕が考察を解いていたら
「そんなんじゃないんだ」
きた!
「あれは丁度オマエ達みたいなのがいてさ・・・」
誰ですか?と聞きたかったが
ちょっと野暮かなと思いとどまった。
他にもHEDDONへの想いや
道具のアレコレを沢山聞いた。
今思うと
時代をリードしてきた、生き抜いてきた人から
直に話を沢山聞けてよかった。
この貴重な時間は
友達関係だからこそ
いつまでも続くものなんだろうな。
そう思っていた。
そして
今日のように
2003年の12月を迎えた。
つづく
11.30
則さんからの電話。
「オノさんだよ」と出ると
「バカヤロー」
はいはい、どうしたんすか?
「バス用のリールってなんだよ?」
と変な質問が飛んできた。
引っ掛け問題かな
「ABUアンバサダー5500Cでしょ」
「うむ、5500Cのどんなものだ?」
「一番明るいシルバーでロゴがコンピューター文字のやつ
・・・則さんの77年製だっけ?」
「だろ?」
なんなんすかいったい?の問いに
ついに口を開いた。
ABUアンバサダー5500Cの
ザウルスモデルの企画が上がっているそうだ。
確かに
則さんがそれを長年バス釣りで使っているのをみて
そこにたどり着いたアングラーは沢山いるから
その功績の結果としては当然だ。
「それがさ、5500CのビッグAという意見があるんだよ、ぶふ」
「ぶふ」は納得いかねーの合図だ。
5500CのビッグAというのは
カップに掘られた名前で
Ambassadeurの頭文字”A”が大きいタイプだ。
72年製が主だけど、
海外のバイヤーから71年製を見せてもらったことがある。
当時の釣り雑誌、ロッド&リール誌で
グラスアイの佐藤さんが
最初期5500Cと紹介して
人気に火がついた。
僕はビッグAのデザインはあまり好きじゃなかったので
コレクター魂に火がつかなったし
海外のバイヤーも「なんでコレ?」と不思議がっていた。
則さんの功績だから
則さんモデルでいいんじゃないですか。
そっちの方がファンも買いたいと思うでしょう
というとちょっと機嫌がよくなった。
昔からそうだった。
則さんが雑誌に出てると
文章もさる事ながら
なにを使っているのか?と
写真とニラメッコしていた。
コレはアレだ!と発見すると
同じものを持ちたくなる。
そういうものだった。
タックルボックスのアムコ3060番もそうだった。
グリーンのやつね。
則さんが使っている3060番が
大型だけどトレイも必要以上にないのが
かっこよかった。
3500番は結構あったけれど
これでもかってぐらい広がるトレイが
ボートの中では邪魔でしょうがなかった。
まあ、あのサイズを持ち歩くこと自体がおかしな話だけどね。
ある釣行のときに
ボックスをあけて釣りの準備をしていると
則さんがやってきて
「どうしてオマエらはグリーンが好きなんだ?
アルミのシルバーのほうがカッコイイじゃないか」
と爆弾発言をされた。
「あなたねー」としか返せなかった。
この件は
本社営業からも相談があったけれど
則さんの功績だから
則さんモデルでいいんじゃないですか。
そっちの方がファンも買いたいと思うでしょう。
と同じように答えていた。
そう、決定するまであと少しのところまできてたんだ。
つづく
11.26
ザウルスの新製品ラッシュは
この年末にむけて続いた。
ブラックバス用のロッド、フィリプソンは
NEWカラーのスカイブルーとオレンジが
またハイエンドモデルとして
則さんのシグネチャーモデルが
限定生産された。
名竿、バッシングシャフトのカスタムもそうだった。
水道管カラーのブランクに鮮やかなブルーのスレッドは
とても新鮮だった。
海用では
ザウルス初のエギングロッド「ブルート・セピオ」もこの年。
ルアーはウッドンブラザースシリーズが
ブラックに金メッキパーツをまとって順次生産されて
ラージマウス・ビッグの上をいく
スーパービッグまで出てきた。
矢木くんが「イキスギ」と呼んでいたヤツだ。
年始から動いていた
アルミ製の50タックルボックスも間に合った。
実はコレ、
50友の会のメンバーだけで作っていたモノが
ベースになったため
僕は商品サンプルが上がる前に
画像付きでプロモーションをすることができた結果
うちだけで初回150箱を販売するという大仕事だった。
僕的にもっとも興奮したのは
ザウルスジャンバーの再販だった。
そう赤ジャンだ。
それも初期のサラサラ生地のやつで
コレを持っていれば洋服に困らないというザウラーも
少なからず居たほどだ。
ザウルスジャンバーは過去に赤以外も存在している。
よく見るのは青ジャン。
他には白ジャン、黄ジャンも存在する。
そして同時に初の色目となる「黒ジャン」が発売となる。
これは凄い人気だったのを覚えている。
たしか、抽選販売になった。
有名ブランドとのコラボレーションも実現した。
フィッシングベストではシムスと
ミノーボックスはリチャードホイットレーが
Wネームで登場。
しかし
もっと凄いWネームの計画が進行していた。
いや、正確には難航していたと言うべきか・・・
つづく
11.25
日本では味わえない
スケールの大きな自然の中で
10日間の日程を終え
僕らは日本に帰ってきた。
夢のメーターオーバーを獲ることができ
また、その上がいることも思い知らされた。
帰国したその月に
いままでザウルスにはラインナップが無かった
PEラインが発売されると連絡が入った。
溜まった仕事に追われながらも
来年はもっと大きな魚とやりあえると
気持ちは1年後に向かっていた。
今年の釣行で上がったイトウは
僕のが一番大きかったし
則さんがしっかり例のカメラで撮ってくれたし
もしかしたら来年はトラウト部門でカタログに載れるか
という甘い甘い皮算用は
僕にとっては確かに仕事の原動力にはなっていた。
エイ出版のトップ堂に
つり人社のトップウォーターの戦略など
出筆の仕事も多くなり
充実した毎日を送っていた。
この頃は週一ぐらいのペースで
則さんから電話がかかってきていた。
「則さんだよ」
いつもの感じである。
「オマエさ、海へ行けよ」
ん?
来年はイトウを抱えた写真を楽しみにしていたのに
頭からガツンっとやられる。
なにをいきなり?と聞くと
「オマエ、海の顔だよ、がははは」
いままでブラックバスを
この2年はビッグトラウトを頑張ってきて
「顔」ですか?
「いや、冗談抜きで
もっとデカい魚とやり取りしろよ、そういうことだ」
はいはいと軽くあしらったけれど
一理あるなとそれから僕は海釣が多くなった。
当時、
地元の海でフィッシングガイドをやっている友人の
入江くんというデュエルやエコギア、ノリーズの
プロスタッフがいたので
彼に付いてシーバスを学んだ。
10月には
ザウルスのボートシーバスロッド、「ザ・フッコ」で有名な
古山輝男さんが佐世保に来てくれたので
入江くんのコネでハウステンボス内の水路で
ボートシーバスも経験させてもらった。
ハウステンボス内での水路でボートを入れて釣りができたのは
後にも先にも
田辺哲男さんと古山さんと僕だけだった。
とにかく2003年はよく釣り出かけた。
海が近いという地の利もあったが
80センチを超えるスズキは
この年が一番釣ったかもしれない。
それはシベリアで覚えた
ポイントの見極め方であり
トゥイッチでの誘い方。
食わせの間の与え方だった。
何よりも
多くの魚とやり取りした経験である。
それは今でも僕の基礎になっている。
何も考えずに
ココにバスはいるのかな?と
走り回っていた若い頃の釣りも好きだけどね。
そして今週も則さんから電話がかかってきた。
つづく
11.24
次の朝
いつもの寒い朝。
夜通し頑張ってくれた巻ストーブは息絶えて
すきま風が外気をつれてくる。
朝食をとりにメインロッジへ若者たちと行く。
いつもの長いダイニングテーブルに
いつものように下手のほうに座る。
いつものように則さんが上手に座り
その周りをオジ様たちが固める。
本当は僕がしてもらったように
こういう席で飯を食いながら
則さんと団らんするチャンスを若者たちに与えなきゃいけないのだが
いつも同じ席。
こんな時、愛知のプロショップのオーナーさんなら
上手くまわすんだよな。
自分はまだまだだ。
いつもと違うのは僕と○ちゃん
そして若者以外はとても静かな食卓だった。
とてもつまらないので
ママにスパシーバと言って席を立つ。
ロッジに戻り
釣り支度を始める。
「小野山さん、今日はラインシステム完璧だね」
と、○ちゃん。
「ふんっ」
澤田くんにやってもらったから
確かにそうだけどね。
若者だけでワイワイやってると実に楽しい。
しかし
その楽しい雰囲気も一瞬で崩れる。
「頑張ってこいよ、俺は行かねーから」
はいはい、ごゆっくり
と言ったもの
オジ様たちはみんな行かないようだ。
まったく何をやっているのやら。
若者たちだけで桟橋から旅立つ。
その日は何も気兼ねなく
しっかり釣りをさせてもらった。
上流ほどの結果は出なかったが
日本では考えられないような釣果に恵まれる。
夕方、早めに帰りついたので
親分の息子と遊んでいると
通訳のガイド、セルゲイに呼ばれた。
ついていくとそこは物置小屋だった。
そこに親分が立っている。
おおお、呼び出しか?
通訳の話を聞くと
親分が
オノヤマさんにあげたいものがあるらしい。
驚いて親分の顔を見ると
いつもは怖い顔が笑ってる。
続きを聞く。
トヤマの港を知ってるか?
うん、富山ね。
そこにシベリアから材木を運ぶ船が着く。
それにコイツを乗せて置くから
トヤマの港まで取りにこれるか?
来れないのなら住所を書いておけ
その船員に渡しておくから
トヤマから送る。
なに、なに?どれ?
物置小屋の中かなと扉をみていると
親分は小屋の横に回って
コッチに来いと手招きしている。
ひょこひょことついていくと
そこにあった物は
巨大なヘラジカの角だった。
立てかけてあるだけで
僕の身長をはるかに超えている巨大な両角だった。
聞くと親分がいままで仕留めたもので最大だと言っていた。
800キロクラスだったらしい。
その巨大さに驚きで目を丸くしている僕に
「息子と遊んでくれてスパシーバ」
いや、欲しいさ
いや、嬉しいさ
スパシーバと言いながらも
どうしよ・・・密輸ってことよね・・・
後ろでなんにも考えていない息子が
ケラケラ笑っていた。
つづく
11.20
その後の釣りはまったく覚えていない。
ただずっと
あの状況下で
このナイロンラインのシステムでは獲れないと考えていたが
口にするのはあまりにも情けないので
ただただ、どうしようもない敗北感に浸っていた。
夕飯時に則さんからみんなの前でチャカされるかと思ったが
なんにも話題に上らなかった。
なぜかどことなく変な雰囲気だった。
こういう時は逆にチャカされる方が楽だ。
すると夕飯を終えたテーブルで
則さんオジじ様のひとりが言い合いになった。
ダンッっとテーブルを叩いてオジ様が席を立つ。
ロッジはしばらく無言に包まれたが
続いて則さんが静かに部屋に戻った。
僕はこういう雰囲気はあまり好きじゃないので
オジ様のベッドがある一番大きいロッジに行く。
大人のケンカの間に入って理由を聞くのも野暮だし
とにかく腰掛けていたオジ様のとなりのベッドにちょこんと座り
何も話しかけることなく時間を過ごした。
「ふぅ〜」っと大きなタメ息のあと
キミにこれをあげるよと
バッグから色とりどりのシルクで編んである
チョーカーを頂いた。
僕がお礼を言い終えると同時に
「心配かけてごめんな」と
僕よりも年上の方が頭を下げられた。
これはひとりにさせてくれの合図だな。
「何かあれば声をかけてくださいね」と
僕は部屋を出る。
物を貰って早々に立ち上がるって
子供みたいだな。
その足で則さんが寝泊りをしている
一番小さなロッジへ向かう。
あの則さんがこの部屋を選んでいたこと自体が
今回、コッピ川に来ての最初で一番の驚きだった。
「入りますよ
ダメといってももう入ってるけど」
「おう」
ベッドでふて寝している則さんがこっちを見ずにいう。
しばしの沈黙が気持ち悪かったので口を開く。
「俺、則さんから友達とケンカはするなと言われて
それから一切してないっすよ」
「今日のイトウ、デカかったな」
「あ、うん」
話を変えやがった。
「おまえ、何飲んでんだ?」
「ん?○ちゃんから貰った粉末イチゴジュース」
「置いていけ」
「なんで?」
「いいから置いていけ」
「則さん、今回なんか変ですよ?」
無言
「もう・・・
なんかあったら言ってくださいね」
僕は原色のイチゴジュースを
ベッド横の小さな机の上に置いて部屋を出た。
大きなロッジに戻ると
若い3人衆が外で雑談しながら
明日のためのラインシステムを組んでいた。
「小野山さんのもやりますよ!」と
澤田くんが声かけてくれた。
あ、○ちゃんめ、デカいのバラしたとしゃべったな・・・
「おねがいしまーす」とタックルを渡して
なんか疲れたのでベッドに横になった。
2年前は釣りにどっぷりハマれる環境と
釣り人たちの集まりだったのに
今回のパーティーはなんなんだ???
若い3人衆とどっぷり釣りに集中すべきだな。
間宮海峡を望むコッピ河口の一角、は
その夜、居心地が悪い変な空気に包まれていた。
つづく
11.19
動き始めた流木は
僕に主導権を与えずグングン下る。
まだ半信半疑だったので
ロッドをあおって聞いてみる。
グン、グンッ。
答えた!
生命が掛かっていると分かれば
こちらも臨戦態勢に入る。
根がかりしたと思ったら
急に動き出して大物が掛かっていた。
なんて安っぽいストーリーだと
自分でもおかしかったが
事が始まればすぐに真剣になる。
しかし雪解け水の強い流れに乗った流木のような生命は
まだ流木のように下っていく。
マズイな
50メートルほど下流の則さんの所ぐらいまで
ラインを出されている。
とにかく流心から外さないと勝負にならない。
少々強引に右手の森のほうにロッドを向けた。
グンッ、グンッッ。
口元に違和感を感じてか、嫌がっている。
それも先ほどのそれより強く、激しい。
グンッッ、グンッッッ。
激しい抵抗。
それでも流心から外すために
僕は森の近くまで下がった。
水流をぐっと受けてた重い抵抗がフッと半減した。
流心を抜けた!
そう思った。
そう思ったその時だった。
下流でひざ下までウエーディングして
釣りをしていた則さんの目の前で
激しい水柱が立った。
その水柱は
則さんのアクーブラハットのツバよりも高く上がり
その中に龍のような大きな黒い生命がしっかり見て取れた。
ひるんだ僕に勝ち目があるはずもなかった。
そいつはもう一度流心に入り
いとも簡単に僕のルアーを放して泳ぎ去った。
呆然とする。
則さんが足早に帰ってくる。
自分以外の釣り人を危険な目に合わせたこと。
魚をバラしたこと。
絶対怒られるだろうと腹をくくった。
僕と目が合うやいなや
「凄かったな、今の」
「150センチ、いやもっとあったな」
答えきれない僕。
先ほど109センチを目の前で見て
今、真横で魚を見たのだから
それぐらいだったのだろう。
ただ、間近で見たわけでもないから
小さく「そうですか」としか言えなかった。
僕に残ったのは
手元の恐ろしく巨大な生命の感覚と
どうしようもない敗北感だった。
つづく
11.18
船外機のバックギアが作動したボートは
岸から離れ中央の流れに乗ると同時に
船首は下流を向いた。
深い森の中を真っ直ぐに下っていくとすぐに
左岸から別の流れが合流するポイントが見える。
「次はアソコだろうな」
案の定
流れ込んでいる少し上流の右岸にボートはつけられた。
○ちゃんと則さんはサッとボートを降りて下流へ歩いていく。
僕は先ほどのファイトで
ラインが傷んでいるのを気にして
ボートの上で結び直していた。
クッっと最後の結びを締め込み
顔を上げて辺りを見回す。
一番下流に○ちゃん
もう100メートルは下って釣りを始めている。
その中程に陣取った則さんもキャスティングの軌道が見える。
出遅れたな。
ここのポイントはボートから離れず
すぐ目の前の流れ込みのポイントを攻めるだけにしよう。
ゆくりとボートから降りてリールのクラッチを切る。
ガイドの親分の口元が笑っている。
本流と支流がぶつかるところで
川はまるでラクダの背のように大きく盛り上がり
流れの強さと太さを見せつける。
これではルアーが泳がないよね
ふたりが大きく下ったのはコレを見てのことだろう。
その大きな盛り上がりが一度沈む辺りの水底が
一部、タタミ一畳ほどか、深い黄土色していた。
相当エグレてるな。
しかしそこにルアーを通してターンをさせたくても
この流れの強さじゃキャスト後のラインのほうが先に流れてしまう。
先に流されたラインに引っ張られたルアーは
まったく不自然な動きをして
とても魚にアピールできない。
少し下って盛り上がったウネリを避け
左岸からの川筋を正面にまっすぐ捉えた。
左岸に向かってフルキャスト。
着水と同時にクラッチを入れ
ロッドの先端を水の中に突き刺して
渾身のチカラでリールを巻く。
ラインはすぐに流れに飲まれ
深い黄土色の水底のかなり下流をルアーは通ってきた。
無理かな。
次は少し上流のウネリの向こうぐらいにハーフキャスト。
今度はロッドを立てたままでラインを空中で遊ばせる。
大きく盛り上がったウネリを交わした瞬間に
ロッドを寝かせてルアーを水中に入れ
高速でリールを巻く。
ゴンッ
アワセは入れなかった。
それぐらい大きな衝撃だった。
ロッドをあおっても、引っ張っても
まったく動かない。
釣り針からライン、
ラインから高弾性のロッド、そして手元に伝わってくる感覚に
まったく生命感がない。
水底にある巨大な流木だな。
そこに掛けてしまったのだろう。
ラインを張ったり、緩めたり
何をしても動かない。
ガイドの親分も見かねて近寄ってきた。
切るしかないか・・・
ラインを引き切るために
左手のグローブに巻こうとした。
突然、手元に別の感覚が伝わる。
ロッドに重みが伝わる。
水底に引っかかってた流木が流れ始めたようだ。
こうなると危険である。
タックルやラインが傷まないように
右岸にゆっくり移動させようとしたとき
突然、世界が動き始めた。
グググ、ググググーーー!!!
つづく
11.17
ロシア、コッピ川のガイドたちは
釣り人が釣ったイトウが弱っていると
それを取り上げ時間を惜しまずに回復させる。
サクラマスは川を遡上して産卵行動を終えると
その一生を終える。
その考えから一日に2本だけ食べるために川から頂戴する。
イトウは何十年も生きる。
何十年も生きると巨大な魚になる。
巨大になる遺伝子は子へ受け継がれる。
だから必死で回復させる。
そういうのを目の当たりにしているから
水からあげない。
僕は浅瀬に腰まで浸かり
水に漬けたままのイトウの顔を上流に向け
メジャーを当てた。
109センチ
念願のメーター超えだった。
イトウの目を見て大丈夫と思ったのであろう
ガイドの親分は則さんとボートに戻った。
イトウの体を揺さぶり
口から新鮮な水をいれる。
シベリアの雪解け水は
容赦なく僕の身体を冷やしていくけれど
アドレナリンとともに血液が体中を駆け巡っているのか
それとも夢を果たした満足感からか
ポカポカと暖かい気持ちになる。
尾びれがピクっと動いた。
ゆっくり右手のチカラを抜く。
すると、するすると支えている左手の上を滑り出し
ゆっくり、ゆっくりと流れに戻っていった。
海外釣行の道具代は高額だし
旅費だってかなりのモノだ。
旅立つ前には仕事を何倍もこなし
帰れば何倍も溜まっている。
ある程度、犠牲を払ってココにいる。
夢を掴むには、無傷じゃ済まされない。
けれども
その代償を払ってでも掴みたいのなら
挑む価値はある。
そう実感した。
立ち上がる。
ボートへ向かう。
岸についたままのボートには
三人が待っていた。
ガイドも則さんも、○ちゃんも
僕に存分の時間をくれた。
有難うございました。
礼を言いながらボートに乗り腰掛ける。
則さんが言う。
「さあ、行こうか」
そう、今日はまだ始まったばかりだ。
つづく
11.16
ロッドを立ててアワセを入れた瞬間に
ズドンっと重さが手首に来る。
それまで下流域で釣ってきたシーマやカラフトマスと違い
重くトルクフルなプレッシャーだ。
脇を締めリール上のバッドパワーに物を言わせ
こちらも一歩も引かない。
ググググ、ロッドを立てたまま
大岩から引き剥がす。
障害物はラインを痛めるので厄介だ。
ズズズズ、ロッドを寝かせて
流心にも行かせない。
重たい魚は流れに乗ると手に負えない。
強烈な引きがくる。
ラインシステムはしっかり組んである。
ボロンロッドのパワーは申し分ない。
リールのドラグはキツく締めてある。
あとは僕次第だ。
グルン
長モノ特有の動きがきた。
間違いない、イトウだ。
みずぼらしく腰を折らないように
ロッドを立てたまま後ろに下がる。
すると魚はゆっくりゆっくり浅瀬に寄ってきた。
あと少し・・・
突然、魚は派手に水柱を立てて反転する。
まずい。
ロッドを魚の方にまっすぐ向ける。
近距離において反転から走られるのは危険だ。
ドラグは締めてあるので
バンッと張ったラインが悲鳴を上げる。
リールを包み込んでいた右手の親指でスプールを押さえ
ロッドのフォアグリップを支えていた左手で
リールのクラッチを切る。
ヌヌヌヌ・・・テンションが掛かったラインが出ていく。
ラインが2メートルは出ただろうか
魚が一度止まったので
リールのハンドルを回しクラッチをいれる。
もう譲れない。
出された分のラインを回収して
またゆっくりと後ろに下がる。
魚は観念したのか
浅瀬に横たわった。
イトウだ。
「よーし、よくやった!」
則さんがカメラを持って駆けつけた。
「すげーじゃん!」
○ちゃんも駆けつけた。
ふたりともただならぬ水柱を見た瞬間に
釣りの手を止めてくれた。
疲れきったイトウを抱く。
則さんがカメラを構える。
「おら!首元のジッパーを上げろ!」
「おら!ハットで顔が見えないぞ!」
「なんだ、その髭!」
「悪い顔してるなー!」
首元のジッパーを上げていると
則さんがアクーブラハットをかぶせ直してくれた。
僕はクスっと笑った。
髭と顔はここではどうにもならないからじゃない。
則さんが構えたカメラが
2年前と同じものだったからだ。
あの時、川に投げ込まなくてよかった。
もちろん投げ込んでいたら今、ココにはいないか。
なんて思っていたら
カメラを降ろした則さんが
右手を差し出した。
親指の付け根を奥の奥まで押し込んで
力強く握った。握られた。
僕の瞳には今まさに数滴落ちそうな水分が溜まっていた。
あなたとザウルスに教わったすべてを実践しましたよ。
ココロからそう思って伝えようとした瞬間、
「あーオマエ、手がヌルヌルしてんじゃないか!」
「ばかやろー!」
則さんが笑った。
つづく
11.13
翌朝
薪ストーブが勢力を保つロッジの部屋を出た。
キーンと冷えた空気が全身を包み
呼吸をするとそれが肺を締め付ける。
朝食をとったあと
ここから下流に下りながら釣りをする。
河口から300キロも上流に来ると
川幅は狭く、流れは激しい。
その日、僕は
則さんと○ちゃんと3人で釣りをすることになった。
○ちゃんが良いポジションにいてくれるので
則さんも機嫌がいい。
則さんと二人きりだとこうはいかない。
あーしろ、こうしろ
そういう時はこうでなければ・・・
常に釣りの姿勢から考え方まで指導を受ける。
しかし、機嫌がいいからといって良い事ばかりではない。
準備も行動もゆっくりだ。
「早くー」とせかすと
「ばかやろーこういう時は悠々と遊べ、だろが」
と返される。
結局、出船が一番最後となる。
ロッジの船着場から下流にむけて出て
大きく左に曲がると
まるで急流下りのような荒瀬を進んでいく。
もう他のボートは見えない。
高低差のある急流ポイントを抜けて
少し開けたところ、
ボートはすぐに左の岸に寄せられた。
○ちゃんがサッと下流に向かう。
三人ということを考慮しているのであろう
どんどん歩いて下っていく。
流石だな。と感心しながら則さんを見ると
ボートでモタモタしている。
ならばと、○ちゃんの後を追って
真ん中のポジションになるであろう下流に立った。
川に目をやる。
対岸までは25メートルほど
主な流心は2筋。
流れのひと筋は対岸ギリギリを走っている。
どちらかというとそれがメインだろう。
対岸の地面はえぐられていて
その力強さがうかがえる。
もうひとつは川の真ん中あたり。
少し色濃くなっているのは
川底に流れが掘った溝ができているせいだ。
しかもその筋にはこの辺りでは大きめの岩が
いくつも底に見て取れる。
流速は対岸のそれに負けてはいるが
減水期に残る筋はこちらだな。
なるべく対岸の流れにルアーを入れて
バタバタとトゥイッチで誘いながら下流に流し
中央の流れの底岩でターンさせる。
そこで食わせる間を与える。
2年前、正影さんから教わったトゥイッチングの誘いと
福井の九頭竜川の主、廣瀬さんから教わった
食わせの間だ。
川に向かって、佐藤さんのように戦略を立てていると
両脇では川の流れの音に混じって
心地よいキャスト音が風を切っていた。
どうやら一番出遅れたのは僕のようだ。
8フィート8インチという長めのロッドに
リールはABUアンバサダー6500C
メインラインはナイロンの16LBだ。
待て待て、
朝一のキャストは落ち着いてだ。
その日のリールの回転具合を感じながら
軽く5割のチカラでキャスト。
うん、よく回っている。
次は大きく振りかぶって8割のチカラでキャスト。
よし、イケる!
6500Cのクラッチをチカラ強く切る。
右手の上流にむけて
13.5センチのルアーをフルキャスト。
対岸のエグレまでは届かなかったものの
放たれたルアーは流れに乗った。
ロッドを立て穂先でルアーに命を与える。
クッ、クッ、クッッ
ルアーが僕よりも下流に差し掛かる。
あの中央に沈んでいる大岩に送り込めるように
ロッドを寝かせながらリールのハンドルを巻き操作する。
ルアーは水面から大岩に向かって消えたが
ラインの位置である程度の存在位置は確認できる。
そろそろ大岩だ。
廣瀬流のターンと食わせの間をルアーに伝える。
・・・ゴンッ
反射的にロッドを立てたのは
それまで沢山の魚のアタリをとっていたからに他ならない。
来た!
そう、そのときが来たんだ。
つづく
11.12
その日がやってきた。
一度、荷物をまとめて
森林警備隊のヘリに乗り
コッピ川の300キロ上流へと向かう。
300キロも奥地にもロッジがある。
それは冬の間、全面凍結するコッピ川で
スノーモービルを使ってハンティングに行くらしいのだが
その時だけ使うロッジだと聞いた。
300キロなんて高速道路を使うと車で3時間だが
大型のヘリだと室内の爆音に慣れる間もなく到着する。
ヘリは上流ロッジの下流にある河原に降りた。
ガイドたちのボート組が来ていないので
みんな歩いて釣りにでかけたが
僕と○ちゃんは
河原に置き去りにされた荷物の番をしていた。
ほどなくして早朝から出発していたガイドたちが到着した。
荷揚げをして冬の間しか使われていないロッジに
灯りと薪ストーブに火がつく。
夕飯まで時間があったので
辺りを歩いてみる。
すぐさま通訳のセルゲイが声をかけてくる。
「ロッジの灯りが届かないところに行かないように」と。
それはただの闇ではない。
人の体温を狙ってダニが襲ってくるダニや
冬眠明けの腹を空かした熊など
命に関わる闇なのだ。
あと3歩進めば闇に入る。
それでも2本下がって
ガイドの飯炊きの音と川が流れる音以外
なにも聞こえない空間に立つ。
スポーツザウルスのビデオ、コッピ川編で
則さんが言っていた
「沢山の誰かから見られている気配」
静かにたたずんでいると
それが分かるのだ。
時間がたつにつれてその数がどんどん増えてくる。
あちらから感じるのはちょっと嫌な視線。
こちらからはフワフワした視線。
それはダニや小動物、または遠くからの大型獣かもしれないし
もしかすると森の妖精かもしれない。
人の手が入っていない自然は
はかなくも美しく、そして恐怖に満ちている。
外気の寒さではない身震いを感じてロッジに戻った。
ロッジではみんな道具の準備をしていた。
どうりで静かなはずだ。
ラインを膝にかけてシステムラインを組んでいる。
ビミニツイストだ。
この頃の僕らのトラウトタックルといえば
PEラインではなくナイロンラインだった。
2年前の佐藤さんだけは
キャスティング用に早くもPEラインを用意していた。
聞くと「コレじゃないと獲れない魚がいる」と
明確な答えが返ってきた。
当時の僕はザウルスの指定を破る勇気はなかったので
この「獲るための考察と努力、そしてその準備」は
とても輝いてみえた。
あれから2年経っても
それは変わっていなかった僕がいた。
つづく
11.11
2003年のコッピ川
その年のロッジには
親分の息子が手伝っていた。
当時で小学生の高学年ぐらいだったか
それでも身長は僕と同じぐらいだった。
だから到着後
日本から持ってきたフリースや洋服を彼にあげた。
彼は僕んなついて
ロッジに滞在している時はいつも一緒にいた。
初日の釣りから帰ってくると
「今日は山に入ってフクロウの羽根を取ってきた。
持っていると幸運が訪れるよ」
と、コレ本当にフクロウのものなのか?ってぐらい
とても大きな羽根をもらった。
僕はフィッシングベストの背中のポッケにそれを入れ
暗くなるまでの間、彼と河原で遊んでいた。
そして次の日から
僕は何かに取り憑かれたように魚を連発した。
大きく曲がった本流の
流速が強いカーブの外側。
そこのエグレに生まれる反転流で
僕は20キャスト連続ヒットを獲った。
代わってくれと○ちゃんが言うので
記録は20で終わったが
代わった○ちゃんはノーヒット。
また僕が始めるとヒットが続く。
操るルアーに後ろから鱒が追いかけてきてジャレつく。
僕が食わせのタイミングを入れると
慌てて鱒が食ってくる。
初めて頭の中に水中の映像が出た。
そしてガツン!
あの体験はなんだったんだろうか。
頭の中に映像がでてそれが釣果にリンクした。
それはその場所に限ったことでなく
魚が「来た!」ではなく「来る!」が判って釣りをしていた。
今年のコッピ川は僕のためにある
そう思った。
もちろん誰にも言ってはいない。
とにかく僕は浮かれていた。
浮かれていて後のキーワードになる「○○」という二文字を
他の人は聞いたけど僕は聞き逃していた。
鱒は沢山釣れたけど
まだ夢のビッグタイメンは1匹もかけていなかった。
しかしそれも、さほど気にとめていなかった。
なぜなら・・・
今回はもう一度ヘリコプターに乗り
300キロ上流へ向かうプランがあったからだ。
そこにはランドロック、
陸封型の巨大なイトウ、ビッグタイメンがいるという。
僕の夢が300キロ上流にある。
つづく
11.10
ハバロフスクに到着後
いつものようにホテルに入る。
明日の午後にはコッピ川だ。
前回の帰路は国内線が飛ばずに
大変な目にあったけれど
そんな不安をかき消すぐらい期待で胸は大きく膨らんでいた。
翌朝、国内線でソフガバニへ向かい
森林警備隊のヘリコプターでコッピ川へ向かう。
左手には間宮海峡が広がり
右手には地平線まで針葉樹の森が続く。
その大きな自然の境界線を南へ向かって飛行する。
30分もたつと
見覚えのある河口に森へと駆け上がる大きな川が近づいてくる。
「コッピだよ」
一昨年の則さんのマネをして
若いアングラーに言う。
僕もこの前は
あんなキラキラした目をして眼下を望んでいたのだろうが
今ではメラメラとビッグタイメンを望んでいる。
もしかしたら
来年のカタログではビッグタイメンを抱いた僕の姿が・・・
なんて、欲に溺れたよどんだ目をしていたのかもしれない。
ヘリは宿泊するロッジ上空を旋回する。
なにやらロッジが至るところに増えているのがちょっと残念。
こういう所は
人間の生活感が少なければ少ないほうがいい。
ロッジ横の広場に降りたヘリからコッピ川に足をつける。
ママが僕のことを覚えてくれていて
挨拶のハグをしてくれた。
その時、前回行った時に
親分の娘がいて
これがまた真っ白な素敵なロシア女性だったのだが
通訳がすぐに
「親分が娘に手を出したらショットガンで頭を飛ばすって言ってます」
と伝えられた。
それを思い出した。
親分から撃ち殺されないようにすぐに離れる。
「おう、よく来たな」
前入りしていた則さんが出迎えてくれた。
もちろんハグはしない。
まったく何をしてたやら、と思ったが
どうも新しくできているロッジの群れに
一枚かんでいるようで
面倒は嫌なので聞かないことにした。
僕は○ちゃんとのふたり部屋を選び
早速、釣りの準備をする。
河原から伸びる木製の桟橋に立つ。
「ただいま、コッピ川」
なんて臭い言葉が簡単に出てくるのだ。
夢を追って
ロシアでの第二戦が始まった。
つづく
11.09
ハバロフスクへの国際線ターミナルで
今回の釣行メンバーと顔を揃える。
ロシア行きに慣れていた
愛知のプロショップのオーナーさんも
正影さん、佐藤さんもいないので
ちぐはぐと動く。
流れが悪い。
たぶん、今回のメンバーで
一番ロシア行きに長けているのは
親友の○ちゃんだったけれど
僕らはなかなか動けずにいた。
身なりがちゃんとした素敵なオジ様が3人
ちゃんとお奉行様をされていたからだ。
則さんをはじめ、主要なメンバーがいないものだから
誰かも聞けないし。
話を聞いてると則さんよりも年上らしい。
なんとなく勝手が悪い。
ただ救いもあった。
若い釣り人が3人来ていたのだが
彼らは動きも軽く、礼儀も正しかった。
こっちと一緒にいよう。
僕でなくても誰だってそう思うはずだ。
その彼らというのが
今や、業界を牽引している超有名アングラー
澤田利明くん、佐野ヒロムくん、そして池上くんだ。
澤田くんはトラウトのみならず
201年の夏に
271.5kgのクロマグロを2時間の激闘の末
見事にキャッチしている。
佐野くんは数々のメーカーを背負い
今年のダイワのフラッグシップ機種、ソルティガに関わった。
長崎でのテストロケで巨大なヒラマサを何匹もキャッチした映像は
圧巻だった。
ロシアに同行した時は
まだまだ初々しい若いアングラーだったのに
凄まじい進撃だ。
ともあれ
一見してなんの団体か分かりにくい
雑雑としたフィッシングパーティーとなった。
○ちゃんがイライラしている。
オジ様たちが自由奔放で流れが悪い。
僕もあまりそういうのは好きではないが
頭の中はメーターオーバーのタイメンのことばかりだったからね。
正影さん、佐藤さん、プロショップのオーナーもいない。
ってことは
2004年のザウルスカタログに
ビッグタイメンを抱えた僕が登場できるかも!
そんな皮算用をしながら機上の人となった。
つづく
11.06
なんのルアーだったか忘れたが
インジェクションルアーで
試作品は合格レベルだったけど
いざ工場から大量に仕上がってきた現物は
ん?っと頭を傾げる程の物だった。
当時は海外で作るとよくあることだった。
これはザウルス社内外でNGの声が出たけれど
このB品は塗装されパッケージに入れられそのまま出荷された。
早く無くそうと
僕も必死で売ったので
責任の一端はあります。
話は飛ぶけれど
一年後に
羽根付きのバイブレーションルアーの「ヴィブラ」を
うちのメーカー部門である「CODE」から
出してくれないかという話が
制作会社の「アーネスト」からあったときに
当時そこに在籍されていた
ファイブオーファンなら誰でも知っているビルダーさんから
「ヴィブラは不完全のまま出荷されたんで
どうせCODEでやるのなら最後まで私が仕上げる」
この言葉を聞いて
僕はこの会社の社長は嫌いだったけれど
憧れのビルダーさんと仕事ができるのならと
ヴィブラを完成させてCODEから出荷することに快諾した。
それはまたあとの話で。
ともかく
中途半端な状態での出荷もいくつかあったのは事実だった。
そういうのが
この2003年には早くからモサモサしていたから
僕は少しの不安をかき消すために
大きな態度で日々を過ごすしかなかった。
要するに「どーんと構えろ!」
そういうことだった。
ともあれ
ロシアに行くのだ。
置き忘れてきた夢や野望を掴みに
僕はにロシアへ行く。
去年までと違い独立しているので
誰に遠慮がいようか。
魚を追う道具も
それを駆使する身体も
すべてが準備万端だ。
日頃のモヤモヤから開放されたい。
すべてが忘れられるはずだ。
そして2年ぶりのロシア行きの朝を迎えた。
つづく
11.05
そこに来てからの
2003年のバルサファイブオーのリリースは
毎月毎月、売れ筋ばかりのラインナップとなる。
集めていた人たちは毎月欲しいものばかりで
息つく暇もなく大変だったと思う。
毎月、このホットラインで
来月発売はこんなに凄いゾーなんて
煽っていた僕にも責任がある。
凄い凄い、来月も凄い!って大騒ぎしながら
この発売ルアーの布陣に
逆に疑問を持ってしまった。
ザウルス本社のあまり話したことないある方から
「このラインナップどう思う?」と相談された。
僕はてっきり売れるか売れないかを聞いてると思い
売れるでしょ!
なんて軽く答えたら
「いや、そうじゃなくて・・・」と返されて
ハッと気づいた。
要は
毎月、息つく暇もないのはユーザー側でなく
メーカー側であったのだ。
毎月、売れ筋で行かないと売上が立たない。
それこそ残りでもしたら大変な状況だったのである。
「食うために物造りしたって、良い物はできない」
則さんがいつも言っていた言葉を思い出した。
つづく
11.04
今年の準備は順調だった。
もっとも道具だけではない。
この年、2003年の3月に
僕はサラリーマンを辞めた。
自分が作り上げたインターネット部門を持って
12年間勤めていた会社から独立した。
一応、ちゃんと話し合いの末のことだったけれど
会社としては迷惑な話だったと思う。
ってことで
ザウルスキングは佐世保市で会社として登記され
僕は個人事業主となったわけだ。
3月の時点では
明るい未来しかなかった。
ザウルス社からはかなり優遇してもらっていた。
早い情報だけでなく
仕入れ値は他のお店よりも5%も安かった。
お店に来たザウラーはザウルス在庫に驚いていたが
実は8割が仕入れモノでなく委託で
ザウルス社からお借りしている商品だった。
瞬殺で売れていく商品はもちろんダメだったけど
ザウルスのデリバリーステーションにある在庫は
僕がチョイスして好きなだけお店に置いてもらっていた。
売れたら仕入れ値を支払うシステムだ。
もちろん、これから頑張って
徐々に買い取って行こうと考えていたが
在庫を揃えるのに多額の資金が必要のないスタートは
メリットしかない。
強いて言えば、毎月が棚卸ぐらいなものだ。
人気のバルサファイブオールアーも
よその何倍も、十何倍も入れてくれてたと思う。
九州営業所の分でも、お多めに入れてもらっているだけでなく
遅れて仕上がる本社分もどっさり譲り受けていた。
ザウルス社としても面倒な振り分けをするのではなく
小野山の所にどーんと一括で送っとけ!的なノリだったと思う。
たまにすごい数が送られて来た時は
余ったらマイナス切るからと軽く言われていたが
そこは僕も営業畑で育った男
意地でも返したことはなかった。
しかし、
ザウルス社のデリバリーステーションと直結していたことで
売れていない商品が分かることになる。
あんなに飛ぶように売れていたものが
在庫過多で残っている。
アレも、コレも。
年初めのセラフシリーズの生産中止も
そういった背景があったからだ。
そしてついには
バルサファイブオールアーまでもが
デリバリーステーションに残り始めたのだ。
つづく
11.02
ロシア行きが迫ってきた。
しかし
僕にしては残念な知らせが入った。
今回、正影さんや佐藤さんは来ないという。
しかもそのことを聞きに
愛知のプロショップのオーナーさんに連絡を入れると
オーナーさんもまた行かないという。
知ってる顔ぶれが行かないのは淋しいというのが本音だけど
毎年ずっと行ってた人たちがパタっと行かなくなったので
去年、何か起きたのかな?
というより
どうして則さんは一週間も早くロシア入り?
色々ちょっと不思議に感じたけど
僕は前回の想いを成就させるべく行くのだから
あまり考えないことにした。
2年前の釣行の時は
釣り道具からウエアまで
やったことない釣りだったから
準備が大変だったが
今回は前回のも使えるし
知識という余裕もある。
フィッシングベストとウエーダーはシムス
そのベストにはピンバッチを数個ハメこむ。
ジャケットはザウルスの意外と漏れるゴアテックス。
リールはスピニングはステラで
ベイトはABUアンバサダー
どちらもナイロンライン。
オーストラリアのアクーブラハットに
ペンドルトンのシャツ。
巨大なサクラマスネットを斜めに背負って侍掛けという。
もちろん全て用意しましたよ。
ザウラーだもん。
そう、このザウラーってのがね、どうもね。
どこのフィールド行ってもザウラーって分かるんですよ。
今思えば
みんな同じカッコして釣りしてたなんて
気持ち悪い・・・
その気持ち悪い先頭を僕は走っていたのだ。
まるで宗教。
則’Sマジックにどっぷりとやられていたのである。
つづく
10.29
展示会シーズンも終わると
春バスの遠征の準備に入る。
則さんに連絡すると
「俺は今年は行かないよ」とあっさり返答。
こちらも「あっそ」とあっさり返してやった。
「その代わりよ〜」
ん、なんか楽しそうな話かけだ
「その代わり、ロシアには先に入っているからなぁ」
「あとで来いよ〜」
ということは飛行機の関係上
2週間以上はコッピ川に滞在しているってことだ。
この人、やっぱりトラウトが好きなんだ
美人通訳もいるしね・・・。
ということで
その年の春バス遠征は
去年と同じフィールドへ向かいました。
則さんはいないのに
カメラマンは津留崎さんという違った緊張感。
そしてこの時に
同行してきたザウルススタッフに笠井くんがいたのです。
笠井くんはステッピンフラッターの製作者。
ザウルスの工場や則さんのロッジで何回か会ったことはありましたが
じっくり話すのは今回が初めてでした。
なんかウマが合って
毎晩、夜遅くまで寝っ転がって話してたな。
笠井君がステッピンフラッターのウエイト設定の話をするとき
目がマジなんですよ。
それも怖いぐらいにね。
その時の印象が強くて
そこで僕は彼の紹介を「鬼才」としたんですよ。
したと思ってたんですよ。
変換ミスで「奇才」になってたという。
気づいたときにはその「奇才」が浸透していて
まあこっちでもいいか!それもそれっぽい!
ということで訂正はしませんでした。
そのあとも彼との付き合いは変わらず続きます。
釣りという遊びをしていると
永く付き合う友達が突然できます。
この2ヶ月後に行くロシア釣行もそうでした。
もちろん、他の趣味でもできるものなのでしょうけどね。
笠井くんと会った時に生まれた言葉があります。
それからよく使う言葉です。
「大切なのは付き合った時間じゃない、密度だよ」
実に臭い言葉ですが
僕はこの言葉を大きく感じる人生を歩いています。
つづく
10.28
関東展示会が終わり
日常に戻りました。
関東展示会では業者様だけでなく
一般ユーザーにも対応してましたが
関西、九州展示会では各営業所でやるので
業者様だけの開催になります。
九州は2月の月末
僕は最終日の最後の最後に顔を出しました。
営業所に入ると
疲れきった則さん。
まあしかし、営業所がしっかりニンニク臭いところをみると
焼肉からの飲み過ぎってところでしょう。
僕が行っても
ぐがーっとイビキかいて寝てました。
ウッドのホッツィーの新色、ボーンカラーを見てると
「おのやま、そろそろ行こうか」
突然起きた。
どこに行くかというと
ここ福岡から長崎のザウルスキングに行くと言ってます。
展示会を見に来たっていうか
僕は迎えにきたんです。
車の中がニンニクの香りで充満したまま
佐世保にあるうちの店に着きました。
情報を知った何人かのお客さんが
サインや写真をお願いします。
僕も最初に会った時は
あんなふうにキラキラしてたのかな?
いや、すぐにガツンと落ちたんだった。
そんなこと考えながら
ニヤニヤしていました。
うちの会社の事務の皆さんが
だご汁を作ってくれてたので
店でワイワイだご汁パーティー。
さあ、そろそろ長崎空港に送るかって時に
「佐世保の海が見たぞ」とゴネるものだから
すぐに車に飛び乗って
佐世保名物の九十九島の風景を見せに連れていき
そのまま空港へカッ飛んで送り届けました。
空港の時点では
ニンニク臭もなくなっていましたが
則さんと塚本常務が長崎空港を歩いているのは
なかなか異様な光景でした。
よくよく考えると
九州営業所から福岡空港に行って
すぐに関東に帰れるのに
佐世保経由の長崎空港発って
よく来てくれたもんだ。
今年も良いスタートだ!
と、そのときは思いました。
つづく
10.27
最大の難関、トークショーが終わると
まるですべてが終わったように
プラプラと歩き回ったり
則さんのデリバリーバンに乗ったりして遊んでいた。
ただの目立ちたがり屋ではない。
ちゃんと意味があったのだ。
千葉で仕事をするのなら
ネット通販をやっている僕としたら
ひょっとしたらお客さんに会えるのではないかと
期待していた。
僕を見つけやすいようにしていたんだ。
結果、
則さんに捕まってしまうというお粗末さ。
「おい、今年はロシア行くぞ!」って話になる。
こうやさんも行かれるらしい。
戻って正影さんと佐藤さんに聞いたが
ふたりとも今年は分からないという
なんとも「行かない」よりの返事であった。
会場真ん中に設置された水槽では
矢木さんがルアーを動かしていた。
覗いてみると
バナナの形をしたルアーで
どちらが前だろ?と思っていたら
長めのスライドバーが付いてる背中が前だった。
結ばれたラインと直角を保つ浮き姿勢なんて
前代未聞だろ!と驚いたのを覚えている。
初日が終わって
関東の友人たちと居酒屋に行ったが
寒さか疲れか、どうも調子が悪く
口数すくなく大人しかったと思う。
釣りをしていたほうが楽しい。
そう思った。
その時はね。
よく
「あの人、釣りjに行ってないでしょ?」
って言われる。
だからなんだと思う。
そういう釣り人は
自分が釣ることぐらいしか考えきれない。
釣りに関わるというのは
なにも魚を釣ることだけではない。
たとえば
釣り雑誌の編集者もそう
忙しくて釣りに行ってられない。
釣り場の環境や魚を守る人がいる。
若い釣り人も育てる人がいる。
みんな釣りに関わっている。
みんな未来を見据えた釣りに関わっている。
その日、イベントの司会をして
人前に出るのが好きとまでは言わないが
人前に出るのは苦ではないので
漠然と、本当に漠然と
そういうプロデューサー的な関わり方をしたいな、
そう思ったんだ。
でもその時は
すぐにでも帰って、釣りをしたかったけどね。
つづく
10.26
2003年スポーツザウルス展示会が始まりました。
司会はこの僕。
決められていたのは
ある程度の流れだけで
台本があるわけでもありません。
もうこうなれば、やるしかないのです。
各釣りのトーク順番は
ブラックバス部門、トラウト部門、ソルトウォーター部門の順で
僕と各エキスパートの掛け合いでした。
最初に始まったブラックバス部門。
自分が一番やり込んでいる釣りだし
則さんを調子付かせて話をさせるのは得意だったので
問題ないと思っていましたが
始まった途端、
「俺は今日、風邪を引いてて話せないんだ」
と困った則さん。
急遽、呼ばれた林さんを含めて3人でやってると
美味しいところでは声が出る則さん。
まあ、難なくクリア。
次にトラウト部門。
僕と正影さんと佐藤さんの3人。
これは2001年にロシアに行ったメンバーなので
その時の思い出話をもとに
僕がトリアで聞いて感心した話を問いかけました。
正影さんのトラウトに対する思いや
佐藤さんのイチロージャーク開眼までの話。
これはお客様に満足頂いたと思います。
やはり「過去の経験は必ず役にたつ」です。
しっかり手応えを掴んで
いよいよ最後の難関に望みます。
その時の僕といえば
ソルトウォーターの釣りは
河口のシーバスと磯のヒラスズキぐらいで
船からのオフショアフィッシングはやっていませんでした。
そこにきて業界の超大物
チャーマス北村さんとの掛け合いなんて
どうすればいいのか・・・不安しかありません。
しかもお話どころか今回が初対面です。
北村さんと僕がお客さんに向かって座ります。
僕がぎこちなく
北村さんがザウルスカタログで語ってることを持ち出します。
すると北村さんのとんでもないトークが始まりました。
「ああ、俺もさぁブラックバス釣りたまにするんだよ」
そこからどこそこで
こんな釣り方して、あーで、こーで・・・
「シーバスもさぁ、あそこで釣ったのは・・・」
オフショアの話はなく
僕が普段やっている釣りの話ばかりでした。
僕のレベルに合わせてくれてのでしょうけど
お客さんとしては北村さんのオフショアの話を聞きたいわけで
僕は相槌を打ちながら
お客さんの表情をチラチラみてヒヤヒヤしていました。
何回か、オフショアの話を振りましたが
まったく相手にされず
終始、ブラックバス釣りとシーバスの話でした。
最後の最後に
「イソマグロ100kgの夢、期待してます」の言葉にも
「ああ、そんな簡単じゃないんだよなぁ」
いや、その簡単じゃない話を聞きたかったんですよ!
と、まだツッコミも入れれる関係じゃなかったので
グッと飲み込みました。
もう惨敗でした。
三部門のトークショーの閉幕。
どっと疲れました。
しかし、この時
北村さんとの出会いは
のちに僕の支えとなることになります。
そのお話はもう少し先のこと・・・
つづく
10.23
とうとう2003年を迎えた。
「おまえ、2月の8、9日くるんだろ?」
正月早々に則さんからの電話だ。
2月8、9日は
千葉県木更津のスポーツザウルス敷地内で
関東展示会が開催されることになっていた。
バス、ソルト、トラウト
その年のザウルスの全てを
ここで発表するという。
カタログでお馴染みのテスター陣も勢揃いだ。
「おまえ、ホテル取らなくていいからな、ロッジにくればいい」
僕だって久しぶりに友人たちとゆっくりしたいと伝えると
急に話を変えた。
「司会、頼むぞ」
そうなのだ。
この展示会の司会をやるように言われていたのだ。
当時の僕はバスのことなら話せるけど
ビッグトラウトも一回言っただけ
ソルトも近場のシーバスは話せるけど
オフショアはやったことがない。
普通ならここでモジモジするかもしれないが
ポジティブな僕は楽しそうなので一発快諾をした。
どうにかなるさ。
前日の夜、羽田に降り立つ。
横浜の友人が迎えに来てくれた。
その日は彼の家に泊まって
早朝、海ほたるを走って千葉に入る。
工場地帯にはいると
深いグリーンの壁に恐竜の絵が書かれた社屋が見えた。
このグリーンもこだわってんだろな。
なんて呑気に駐車場に入っていくと
則さんのフォルクスワーゲンのデリバリーバンが止まっている。
やはり雰囲気ある車だ。
赤いスタッフジャンバーを着た社員さんたちが
忙しそうに動いている。
会う人、会う人に挨拶しながら行くものだから
気になる社屋内の会場までなかなかたどり着かない。
そしてガレージの入口にあと一歩のところで
ラスボス登場。
「なんだ来たのか」
則さん、呼びつけたのアナタでしょ。
新しい車買ったから見てみろよって
打ち合わせとかあるんだから。
緑色のダイハツ・ミジェットを指さした。
タイミングよく、今でも付き合いがある社員のOさんに呼ばれる。
社屋のの中にはいると
2003年のタックルがずらりと並び
中でも一番に目を引いたのが
ザウルステスター陣の私物の展示だった。
Oさんから展示会の流れの説明を聞きながらも
それが気になって仕方が無かった。
そして驚いた。
僕は司会進行とだけ思っていたのだけど
バスは則さん
トラウトはロシアに行った正影さんと佐藤さん。
ソルトはあのチャーマス北村さんと
掛け合いで進めてくれという。
こいつは困った。
バスは則さんに話を振ってしゃべらせるとして
トラウトも三人で思い出話から進めればいい。
しかしだ、
大物、チャーマス北村さんとの掛け合いはどうする。
北村さんといえばオフショアで超重鎮。
何を切り出すか・・・
カタログでよく見る文字
「イソマグロ100kgへの挑戦」
これしか思い浮かばなかった。
こいつは困った。
打ち合わせを終えて外に出ると
則さんはラーメン大王のこうやさんと話をしていた。
挨拶すると
「おお、キミか!」
下げてた頭を上げて、ニカッっと笑う
実はこの「おお、キミか」は
ザウルスキングを始めてから
今でもそう
よく人に言われるワードなのだ。
何をどう言われているのか知らないけれど
悪い風には取れないので
僕は結構気に入っている。
ひとつ、ふたつ話したあと
僕の知らない話題が出たので
これ幸いと
気が利くふりをしてその場を離れ
喫煙所で凄いオーラを出していた
正影さんと佐藤さんのところに行き
同世代の三人でグダグダとしていた。
お昼も近くなると
駐車場に車が入りだし
お客さんたちが大勢押しかけてきた。
「お待たせしましたー!」
2003年スポーツザウルスが動き始めた。
つづく
10.22
この年、年末にむけて
ラージマウス・セラフのオリジナルカラーの設定準備をし始めた。
前年、最初にリリースしたボーンシリーズは400本。
その夏、7月3日にはレッドフロッグが300本
そして2002年の1月7日に
セラフのプラスティック素材の特徴をいかしたクリアボディーに
パロットとチェリーコーチドッグを塗った
アンクルスミスとホッツィーで100本と
どれもすぐに完売していた。
レッドフロッグは
それまでフロッグカラーといえばグリーンベースばかりだったけれど
文字通り、レッドカラー。
その当時はそんなカエルなんてなかった。
余談だけど
のちにガウラクラフトがレッドフロッグを初めて塗るときに
「レッドフロッグをやっていいか?」と、ちゃんと断りの連絡が入った。
もちろん、これに商標や意匠登録をしていた訳ではないので
僕の色目でもなんでもないが
ちゃんと筋を通して来てくれたのがとても嬉しかった。
クリアはあったけれど
クリアをいかしたカラーリングも当時はなかったが
それから見るようになった。
クリアチェリーコーチにそっくりさんも出てきたね。
ラージマウスのセラフに関しては
あとあと揉めそうなので
他のショップさんにも声をかけて
同じ条件で進めさせて欲しいと営業サイドから連絡があったので
もちろん独り占めする気もなかったが
何か、差をつけてやろうと
ネズミだけに革紐で作ったシッポを製作して製品につけることにした。
レッドフロッグとクリアパロットは前作と同じカラーで
レッドヘッドの白い部分が蛍光グローと
ヘドンタイガーのトラ柄を塗い
合計で200本用意した。
シッポ効果もあってか
やはり即完売となった。
その販促効果が伝わったのか
翌年のラージマウスBIGファーフィニッシュには
シッポがつく。
僕にとっては
実釣的にも営業的にも
セラフシリーズには、かなりお世話になったが
年末に来年度のセラフの生産の中止が発表された。
確かに巷の釣具屋さんでは
売れずに残っているのをよく見るようになった。
それはセラフだけでなく
バルサシリーズも見かけるようになっていた
このあたりから
どうも怪しい風が吹き始めることになる。
そして、あの2003年を迎える。
つづく
10.20
ロシアから帰国した則さんから電話がありました。
「おまえに話すのは気の毒だけどよ〜」
その年のコッピ川は
10年に1度といわれるぐらいの
ビッグラン、多くのサクラマスの遡上があったそうで
大きさも桁外れだったそうだ。
まあ、そんあもんだ。
この頃の僕は朝夕、夜中と
バスやシーバス、とにかく釣りに行ってました。
まるで行けなかったロシア釣行のウップンを晴らすようにね。
スピニングリールを沢山買ったり
ナバロの16フィートカヌーを買ったり
道具もだんだん増えてくる。
「お前のナバロは安定性は良いけど直進性がイマイチだな
俺のオールドタウンは逆だけどな」
則さんとカヌーの話もできるようになった。
ブランクの色に赤や緑のフィリプソンカスタムが登場したのも
この頃でしたね。
グリップのウッド素材は
ギブソンのレスポールなどに使われているカーリーシカモア材だ。
幾らだったかな?7、8万円だったかな?
当時としてはその金額に驚いたけれど
今となっては逆に安かったんじゃないかなと感じる。
9月になると
春の遠征でテストされていたマイティーフラッターが発売された。
やはり製作者やテスト風景などを知っていると
格別の想いがある。
道具というものはまったくもってキリがない。
2002年
この年の9月11日に
アメリカで同時多発テロが起きました。
ニューヨークのワールドトレーディングセンターに
旅客機が突っ込み崩落するシーンをテレビでみてて
こんな映画みたいなことが実際に起きるのだと驚愕した。
実はある意味
この同時多発テロの被害者でもある。
アメリカから仕入れた
則さんと同じタックルボックス
アムコ3060
やっとの思いで手に入れたが
墜落したどれかに乗っていたみたいで
結局手元には届かなかった。
そんな2002年の秋でした。
つづく
10.19
2002年
この年の春は多忙な日々をこなしていた。
先の遠征が4日間。
その次の週に田辺哲男プロが来られた
ハウステンボス・シーバストーナメント。
その次の日が
佐賀県松浦川で開催された
山根さんが来られた五壱杯と
飛び回っていた。
もちろん、平日はサラリーマンだ。
ゴールデンウィークも明けた頃
とうとう身体が悲鳴を上げた。
体の左半分に発疹がでて
痛くて痛くてたまらなかった。
「ヘルペス」、帯状疱疹になってしまった。
去年、2001年のシベリア釣行で
メーターオーバーのタイメンを釣ることができなかった。
2002年のザウルスカタログで
124センチのタイメンを抱いた正影さんの勇姿が出てるが
僕が帰ったあとの上流でタイメンが沢山釣れたこと。
どうしても、この手で抱きたかった。
だから、去年に続き
ロシア行きを決意して予約を入れていた。
泣く泣く、キャンセルの連絡を
愛知のプロショップのオーナーさんにいれる。
去年、帰ってきてから
毎年、ロシアへ遠征することは
仕事も金銭面も大変ではあったけれど
通いつめて分かること、見えてくることもあるはずと
準備を進めていただけにとても残念だった。
実際、
ロシアから帰ってきてからというもの
80センチを超えるシーバスを
よく釣るようになった。
ネイティブの鱒が沢山いるところで
色んな釣り方が試せた。
川の流れの見方、
ルアーの着水ポイントからトレースのライン。
誘い方に、食わせ方。
数を釣れば
やり取りのスキルだって上がる。
国内でのビッグトラウトの
数少ないチャンスをものにできるように
通いつめようと決めたその最初の年にコケるという。
まさしく僕らしいといえば、らしい。
その旨を則さんに恐る恐る連絡したら
「そんなん大したことねーよ、行くぞ!」
と軽くあしらわれた。
だから行きたいのは山々なんだって
2002年の梅雨は
僕のココロ模様でした。
つづく
10.16
遠征から帰ってきてからしばらくしたある日
それは注文のメールに混じっていた。
メールを開くと
地元のアングラーからだった。
メールの内容は
千葉県のチェロキーなどが来て
釣りをしていただろ?
ちなみにチェロキーでなくレンジローバーだけどね。
要するに
そこで釣りをするな。
釣りに来るな。
我々は地元の人に酒などをもっていって許しを得てる。
このダムを守っている。
そういった内容だったが
どうしてザウルス社にいうのではなく
うちに長文のメールをよこしてきたのかな。
僕はダムを管理するところや
川を管理する漁協に連絡を入れて調べたが
当時は釣りをしてはいけないという事実も
特定の人だけに権利を与えていることもなかった。
逆に
ブラックバスをガンガン釣って
持って帰ってください。
との事だった。
だから相手にしなかったのだが
僕の話を聞いた血の気の多い連中が
「俺たちが話をつけてきますよ」と相手に会いに行った。
結局、その人は山口ではなく福岡の人だった。
結果、話の内容は覚えていない。
話がついたわけでもなく
相手の車とナンバーぐらいを覚えてたぐらいだ。
それからも幾度かそのダムに釣行した。
ある時
ダムの堰堤からボートを降ろすスロープまで
途中から車一台がギリギリ通る未舗装の
カーブの先が見えない道になるのだが
突然、ボートを牽引したランドクルーザー80が止まっていた。
ナンバーをみて報告があった車とすぐに判った。
そして
立ちションしていた。
キミの釣り場を守っている愛とはそんなものかと失笑した。
そのダムは今でも釣りはしていいみたいだけど
エンジンの使用は禁止になっていると聞いた。
たとえば僕らなら
2、3日はロッジを借りる。
温泉センターも利用する。
食料だってそこで調達するし
船外機や車の燃料だっていれる。
そこにお金を落とすのだ。
ブラックバス釣りを観光資源にする考え方は
本当にいい事だと思う。
水質のことを思えばエンジン禁止にするのも分かる。
でもあの広大なフィールドは
手こぎやモーターだけでは範囲が限られている。
エンジン船でしか行けないあのワンドや岬
ルアーの記憶を忘れたビッグバスや
ルアーを知らないヤンチャなバスが
すくすくと育っているのだろう。
山深く広大なフィールド。
昼間は風が吹くけど
夕方前にピタッと止むんだ。
そうするとそこのバス達が本領を発揮する。
荒々しく野生の姿を見せてくれる。
その谷間の深さゆえ
すぐに暗くなる。
釣り人たちは自分のキャストしたルアーも見えなくなっていくなか
もう少し、もう少しやらせてくれと思うんだ。
とても素敵なダムなんだ。
つづく
10.15
「な、言っただろ?」
釣ったバスを優しくリリースをして
柔らかい笑顔で僕を見る。
こういう子供っぽいところも
たまに見せるから憎めない。
「さあ、帰るか」
おい!
しかしお腹が空いているからそれもアリだと
ボートを反転させる。
取材を受けるときには
あまり釣行中に物を食べない。
コンビニの白いビニール袋などは乗せない。
まだ明るいうちにスロープへ帰り
片付けをしていると各艇帰ってきた。
僕の大好きなルアー
ダンプティークリンカーの製作者であるYさんも
プロトルアーで50センチアップを釣っていた。
この時のプロトルアーが
のちにマイティーフラッターとして発売された。
かなりハイポテンシャルなダムだとここで認識する。
則さんも機嫌がいい。
移動はなさそうだ。
ロッジに戻り宴の用意をする。
飯を作り、酒を喰らう。
釣れた日の釣り人の話は尽きない。
フォトグラファーの津留崎さんと話していたら
同郷で大学の先輩だった。
「こんなに博多弁を話したのは久しぶりバイ」
すっかり標準語がなくなった津留崎さんだった。
それからというもの
今でも、どこで会っても
「なんばしよっとや?」と切り出してくる
お茶目な大御所である。
2日目も3日目も
お酒を飲みすぎて朝のいい時間帯に出船しなくても
バスはよく釣れた。
夕方だけでもいいのではないか?って思うぐらい
よく釣れ続けた。
4日目には午後から移動なので
則さんを乗せた僕のボートは
午前中に写真撮りだった。
最上流部のクリアウォーターで撮影で
津留崎さんの真骨頂、半水中写真だ。
このショットで
翌年の2003年ザウルスカタログに
僕は載ることができた。
顔半分だけどね。
でも僕にとっては十分。
その時の感動は
今でも薄れることはなく
しっかりと覚えている。
しかし人間というのは欲でできたモノ。
次は釣った魚をもって載りたいなどと
どこまでも想いは果てないものなのだ。
片付けを終え、山を越え
ザウルスチームを空港まで送り届けて
九州へ戻る。
ひとりになった車の中では
上手くいった取材に終始ニヤニヤしていた。
この釣行で事件が起きるとも知らずに・・・
つづく
10.14
船首が木に差し掛かる。
則さんはテンガロンハットを右手で押さえて下を向く。
突撃。
キキキキキ
船底からきしむ音。
どちらの物かは分からないが
どうやら水面直下にも枝を伸ばしているようだ。
エレクトリックモーターのチカラではボートも前に進まなくなる。
則さんはまだ枝の中でじっとしている。
ちょっと笑いが漏れそうになるが
これだと僕自身に災難が降りかかってくるので
もう一度、モーターのアクセルを最速にいれる。
動かない。
仕方ない。
僕はモーターのアクセルから手を離し
右の枝を右手で手繰り寄せた。
ボートはきしみ音をたてながらも
少しずつ奥へと進む。
近づいた左の枝を空いてる左手で掴む。
後ろに仰け反りながら手繰り寄せる。
キキキ
船首が枝葉のジャングルの中から突き出た。
気を抜けばまた戻される。
僕はもう一度チカラを入れて寄せたあと
両手を一度離してもっと奥の枝を掴み
仰け反った。
則さんがジャングルから出た。
と同時にロッドをもって立ち上がる則さん。
僕は枝葉のジャングルの真っ只中。
則さんが後ろを振り返って
コソコソ声で伝えてきた。
「居る、居るぞ」
枝葉の中から狙っているポイントを覗く。
ここでは流れ込みの川幅は2メートルぐらいだが
木々を越えたあたりからV字にぐっと狭くなっていた。
それでも奥行は7、8メートルはあるようだ。
木々やその枝のせいで溜まったのだろう
水面は落ち葉で覆いつくされ
魚にとっては絶好のシェルターが構築されていた。
「もうちょっと奥だ」
歯を食いしばり鬼のような形相をした僕は
もう一度、チカラを入れるが
そこからボートはまったく動かなかった。
「待ってろよ」
「このまま?」
後ろにある僕が入っている木々を気にしながら
立ったまま変なキャストをした。
ヒックリージョーはすぐに失速して2メートルも飛ばずに
着水、いや落ちた。
首をかしげながら
静かにゆっくり回収。
もう一度、変なキャスト。
今度は5メートルは飛んで静かに落ちた。
ヒックリーのラバーレッグをヒクヒクと動かすと
落ち葉に覆われていた水面が割れた。
ドンッ!
則さんのロッドが天を指す。
しかし先端は綺麗に水面に向かっている。
キキキ!
手づかみで固定しているボートが左右に揺れる。
キュルルル!
いつものやりとりよりハンドルを回すスピードが早い。
それもそうだ。
これだけの場所だから水中には障害物だらけだ。
バババババ!
ブラックバスが水面で暴れる。
ギギギギ!
ボートを安定させるため歯を食いしばる。
勝負は一瞬だった。
釣り人の肉太い手は
バスの下顎をがっつり掴んだ。
それと同時に辺はまた静けさを取り戻した。
僕はジャングルの中で
則さんの荒々しい息遣いだけを聞いていた。
森独特の静寂の中、
僕は両手を離した。
と同時に、ボートはゆっくりと出口へと流されていく。
則さんがジャングルの中に入る。
あ!
と思ったが今度はしっかりとバスの下顎を掴んで離さなかった。
美しい体高をもった50センチのブラックバス。
産卵を意識している頃か
お腹はでっぷりと大きかった。
カメラ艇が寄ってきて撮影が始まる。
あの最後のカタログ
翌年の2003年スポーツザウルスの表紙になったショットだ。
つづく
10.13
その山口県にある山奥のダムは
2本の大きな川を塞き止めて作ってあって
その合流点にボートスロープがある。
各艇、スロットルを開けながら左右に散っていく。
則さんをフロントシートに乗せ
僕は舵を右へきった。
右からくる川のほうが起伏に富んでいて大きかったからだ。
後ろには津留崎さんを乗せた取材艇が続く。
風が湖面を波だて日もまだまだ高かったので
風裏のシェード絡みにポイントを絞って狙っていく。
いくつかポイントを回って魚の反応はなかった。
すると則さんがダーターでボコボコ言わせながら
僕に聞く。
「おい、去年のダムまでどれぐらいで移動できる?」
いやいや
いま、4艇を出したばかりだから
移動なんてとんでもない。
だから僕はぶっきらぼうに答えた。
「たくさん」
それは時間と苦労のどちらの言葉にもかかっていた。
もちろん返事はない。
本流を進んでいれば見逃しそうな小さなワンドを見つけた。
同時に則さんが指差す。
分かってますよ、と言わんばかりに急なターンをして
ワンドの入口に入った。
ワンドに入ったとたん
それまで耳をつんざいていた風の音が消えた。
この下には昔の集落が沈んでいるのだろう。
岬の先には古い木製の電信柱が立っていた。
集落があるということは
必ず生きた水源があるハズだ。
期待を胸にボートを奥へと進めていく。
左からせり出した大きな木を避けると
急にV字型に狭くなっていった。
次に現れたのは両サイドから中央に伸びる木々。
完全にボートの侵入を阻止する位置だ。
やはりだった。
その木の奥でさわさわと水が流れ込む音がしている。
さきほどまで勢力を誇っていた風も日差しも遮られ
ひとりなら心細くなりそうな
うっそうとした雰囲気をかもしだしていた。
則さんはヒックリージョーがセットしてあるタックルに持ち替え
木と木の中央に割っていれた。
ひくひくと静かに悶えさせていたヒックリーの下から
突然、水面が割れた。
「よし!」
と言ったのは僕の方だった。
これで移動はないな。
しかし、よく引いている魚だ。
上がってきたのは50センチにわずかに満たない
体高があるグッドコンディションのバスだった。
取材艇から声がかかる。
「もう少し後ろで撮影しましょう!」
「あいよ」と余裕の則さんの言葉で
僕もモーターのレバ−をリバースにいれる。
余裕の顔は一瞬で終わった。
ヒックリーを丸呑みしたバスは余力を残していた。
反転一発でフックアウト。
「おい、外れちゃったよ」
ヤバイ、また怒られる。
則さんはどんっとシートに腰を降ろし
さらに奥へ行けと言わんばかりに
視線はそこから動かなかった。
要するに
あの左右から張り出した木々の真ん中へ進めということだ。
僕は自分のタックルをすべてボートの内側にしまいこんで
流れ込む音だけがする
暗い暗い沢の奥へとボートを進める。
つづく
10.12
2002年になり
また春のザウルス釣行で
九州を起点に動く。
今回は
山口県にあるダム湖に行くことになった。
瀬戸内海側にある山口の空港にザウルス一行を迎えに行く。
僕が乗ってきたボルボ240の助手席に乗り込んですぐ
「懐かしいなぁ、俺もこれに乗ってたよ」
則さんは車が好きだ。
その時、ボルボのワゴンも持ってたけど
240のほうが美しいと言っていた。
僕は憧れの人と会うことになる。
写真家の津留崎健さんだ。
以前から津留崎さんの写真が好きだった。
挨拶したときに
「ウォーターゲームス、持ってます」と言うと
「ああ、ありがとう」とクールな応対は
そういうヤツ、どこにでも居るよね
みたい感じにとれた。
ん〜クリエーターの人は難しいなぁ
それが最初の印象だった。
買い出しを済ませ
山をいくつも越え
ダムの下流にあるロッジに入る。
自炊ができて、しかも温泉つきという
快適なレンタルロッジだ。
日暮れまではまだ十分時間がある。
それぞれがタックルの準備や
夕飯の仕込みに動く。
遊び上手な男たちばかりなので
するすると片付いていく。
車4台に便乗して
ボートと釣り道具だけを乗せてsロッジを後にした。
ダムの堰堤からボートを出すスロープまで
途中から車一台がやっと走れる未舗装の道になる。
カーブの先も見えない。
時々、ボディーに枝があたる。
やっとの思い出広い駐車場に出る。
これから朝夕と2往復しなきゃいけない。
そこからさらにボートやエンジン、バッテリーなど
担いで湖面へと降りていく。
4輪駆動車がいるよなと
ブツブツと言いながら降りていく。
僕は取材艇にと
ひとまわり大きなボートに買い換えたから
これがまた一苦労だった。
ボートの準備を終え
古いエンジンの機嫌を伺っていると
則さんがブーツについた泥も落とさずにドカドカと乗ってきた。
「さあ行こうか」
そのいつもの合図で
春のデカバス狙いの釣りが始まった。
つづく
10.9
11月になり翌月の入荷情報をアップする。
いよいよ10周年記念ルアーが登場だ。
同時に記念ジッポーラーターも企画された。
発案から携わっていただけに
しっかり売ってやろうと予約を開始した。
一週間も経たずに150セットの注文が入り
大丈夫かと九州営業所に連絡をいれた。
数日後、返答があった。
予約を一時中止してくれと。
あまりの反響に全国に行き渡るのかという判断だった。
僕はこの判断にしたがったフリをして
裏では予約を取り続けた。
結果、12月の入荷時に
とんでもない量の荷物が届く。
そこから2日かけて10周年記念ルアーを全国へ出荷した。
実jに300セット。ほとんどが予約ではけた。
この頃にもなると
この街の運送魚社間では噂になっていた。
月に一度、佐世保市に本社をおく
超有名テレビショッピング社の出荷数を抜く小さな釣具屋があると。
また、そこの荷物は1個あたりとても小さいく
大型家電などではないので楽だと。
運送業社間でうちの取り合いのケンカもあった。
そんなことだから
送料の値引きやら、梱包素材の無料提供など
とても優遇されたのだ。
それともうひとつ。
ザウルス社からの提案があった。
ロッドやジグ、ルアーなどを
委託で置いてもらえるようになり
あっという間にもの凄い釣具屋となりつつあった。
2001年はこうして上り調子で幕を閉じた。
つづく
10.8
準備は整った。
10月27、28日と2日間に渡って開催する
50ミーティングin九州。
2日間だから川原でそのままキャンプの予定だ。
その前日からバスワールド誌の取材で
熊本のクリークに入る。
そこでは10周年記念ルアーのプロトが持ち込まれた。
キャンプセットにボートを含む釣りセットにと
僕のランドクルーザー100は満タンだ。
その年のザウルスカタログに
勇姿が載った熊本の友人の案内でクリークを攻めるも
僕は冬ごもり前の雷魚の猛攻に合い
ブラックバスの顔は見れなかった。
しかし熊本ラーメンが美味かったので良しとした。
釣りを終え福岡に戻り
もつ鍋屋に入る。
そこは有名人が集まるお店で
壁には芸能人の写真が沢山貼ってある。
釣り雑誌だけど、一応、取材。
食べてる姿をライターさんがごっついカメラで撮るものだから
お店の人が芸能人かなんかと間違えて
カメラをもって飛んできた。
違います、違います。と丁重にお断りをしたが
今、思えば
写真を貼ってもらっておけば
いい笑い話のネタになったかな。
そのまま夜通し北九州に走り
会場となる河川敷で夜を明かした。
朝になり、ザウルスの営業の方々も到着して
設営の準備にとりかかる。
宣伝が効いているのか
お昼の開催なのにお客さんは早くから集まり始め
則さんと
「ブラックバス釣りの楽しみ方」の共同著者、山田周治さんも到着した。
会場には、といってもタープの下だけどね
今回の10周年記念ルアーセットをはじめ
ザウルスタックルや則さんの私物の展示も行われた。
則さんにあれやらこれやら言われたけど
今回は一般ユーザーさんに接してもらうために
少し離れていたけれど
ふと則さんのタックルボックスをみると
ネズミ型ルアーのラージマウスビッグのボディーに
ミッキーマウスと蜂柄にペイントされているのを見つけて
「コレ、使っていい?」と言ったら
「笠井が塗ってくれたんだぞー」ってダダこねた。
ミッキーマウスは気に入っていたらしいから
蜂柄を持ち出して
僕らは遠賀川にボートを出し取材の続きをこなした。
夜はタープにランタンの灯りの下でBBQ。
途中から降り出した雨も気にせずに
遅くまで宴は続いた。
この騒ぎができるのも河川敷ならではだ。
いがいと雨風が強くなってきたので
僕は車の中に入り
車を叩く雨音を子守唄にそのまま寝てしまった。
夜半にボートが流されて
雨の中、搜索にいくというアクシデントもあり
寝不足のまま朝を迎える。
朝になると夜中に降り続いた雨はあがり
イベントは2日目を無事に終了した。
その日、
広島から車を飛ばしてきたザウルスファンの方がいた。
彼はホッツィートッツィーの
たしかイエローコーチカラーだったと思うが
それに僕のサインをしてくれと差し出した。
ためらった。
そのホッツィーは生産数が少ない2フッカーだったのだ。
通常のホッツィー・オリジナルサイズのフックは
3本ついているのだけど
その昔、僅かな時期だけ2本だったことがある。
そのことを則さんにいつか聞いたことがあるんだけど
「ああ、オマエみたいなのが居てさ
2本にしたらどうでしょう?って言うからやってみた時があったな」
ということらしい。
それともうひとつ
2フッカーという名称は正式にはない。
あれは僕が擬人化して勝手に呼んでいたもので
それが広まったに過ぎないのだ。
則さんはそれをいつも不思議がっていた。
他にも
「オリオリってなんだ?」ってよく言ってたな。
それは誰が最初に言ったかは分からないけど
コレクターの間で通じやすい言葉が
一般的になった例なんだろう。
「あ〜あ、価値が無くなった」
周りから茶化されながらもサインをして握手する。
その広島から来た人は
今でも良い友人だし
ちょくちょく会ってもいる。
ルアーで繋がる縁
そういうのもこの釣りの魅力のひとつである。
沢山の笑顔や新しい出会いがあり
実り多き慌ただしい秋の週末だった。
つづく
10.7
夏も盛期を迎えた頃
去年の年末に提案した
スポーツザウルス10周年記念ルアーの詳細が
本決まりとなった。
春頃から逐一、
決まったことや相談を営業のほうから受けていたが
ここに来て
ルアー3機種をホワイトコーチカラー。
そして最後まで決まらずにいた
出目バージョンでということで決まった。
もちろんこの時点ではシークレット。
アナウンスだけをして期待は膨らむことになる。
この頃になると
雑誌の原稿書きの仕事を
ちょくちょくと頂けるようになって
パソコンとニラメッコする時間が増えていった。
自分でも言うのも妙だけでど
原稿書きという仕事は
自分に合っているのではと感じていた。
いままで色んな仕事をしてきたけれど
この原稿書きは楽しかった。
則さんと出会う前、
僕が尊敬する人は
手塚治虫と開高建で
とくに釣りを覚えたての頃から開高さんの本を読みあさっていた。
世界中を釣りして
そのことを文章にし
飯が食えたらいいな。
そう思っていた。
僕が25歳だったか
駅の電光掲示板で開高さんが亡くなったことを知ったとき
「釣って文を書く」と
強く思ったのを思い出した。
規模は小さいけれど
同じようなことができた。
こうやって目標を達成できたことは
これまで、そしてこれからも
僕自身の原動力だ。
僕が寄稿した雑誌が出ると
いつも則さんが電話をかけてきてくれた。
僕の文章の内容や書き方には一切触れずに
たわいもない話題を話してきて
電話を切る直前に
「そういえば読んだぞ、じゃあな」で終わる。
おまえのやりたいようにやれ
そういう事だろう。
それ以降も一切触れられたことはなかった。
今思えば
何かしらでも言ってもらいたかった。
そう思う。
秋も深まり
10月末に福岡の遠賀川で開催される
ザウルス、50ミーティングの準備を始める。
記録を見返すと
提案者ということになっているが
そのあたりを僕はあまり覚えていない。
とにかく毎日必死だったんだろう。
つづく
10.6
日本に帰ってきて
7月が始まった。
土産話というか
当然のことながらその月のホットラインは
ロシアのトラウトの話ばかりだった。
しかしその割にはデスクの周りには
バス用の道具が散乱していた。
その月の20日
生まれて初めて池原ダムに行くからだ。
池原ダムは奈良県の山奥にある
アーチ式の巨大なコンクリートダムで
数々のレコードフィッシュが釣れ
ブラックバス釣りの聖地と呼ばれていた。
ここで友の会の関西の人たちが
集会を開くというのでお邪魔させていただいた。
海に浮かぶ関西空港から
山道を延々と走り抜け
ダムの巨大な堰堤を見せつけられた時には
言葉が出なかった。
人間が作る巨大な建造物というのは
いつも圧倒されるが
そこに憧れや思い入れがあれば尚更だ。
まだ日は明るい。
70馬力のボートを貸してもらい
最上流を目指した。
どこまでもつづく岩盤
森の中を縫うように支流のひとつを登っていくと
突然、巨大な要塞のような人工物が現れる。
坂本ダム。
川幅の狭い切り立った岩盤をせき止めているから
堰堤というかビルのようだ。
このコンクリートの向こうには
満々と水が溜まっていると思うと
恐怖さえ感じてしまう。
たぶん、そんなに滞在しなくて
そそくさとエンジンに火を入れて下ったと思う。
釣りはそこそこにロッジへと向かう。
ザウルス好きの集まりだから
ロッジには何十本というザウルスロッドが並ぶ。
何百というファイブオールアーが揃う。
関西のみなさんのおもてなしは凄かった。
これだけの人数の晩御飯を用意するのだから
大変な労力だっただろう。
僕は相変わらず酔っ払ってグダグダしてるだけだった。
20日ぶりに会った則さんとも
ロシアの件でギクシャクすることなく
池原の番人、浜松さんとも初対面だったが
気さくに接してもらって
素敵な夜を過ごせた。
釣果といえば
バシュッと元気よく出たが
ラインが足に絡んでいて、
そのまま足を蹴り上げて針がかりをさせたけど
船べりで逃げられた小さなバスの顔を見ただけだった。
なんというか、気持ちがふわーっとなる。
あの聖なる池原ダムの水と戯れたことは
とても素敵な時間だった。
その数年後
雑誌の取材で再訪したけれど
大きな自然にどっぷりと浸かるのはとても気持ちがいい。
また行きたい。
そう思わせるダムなんだ。
つづく
10.5
中流のロッジについて一休みもそこそこに
1週間組みは帰りの身支度を始める。
プロショップのオーナーさんとそのお客さん2名と
そして僕の4人はココでコッピ川を離れることになる。
則さんをはじめ正影さん、佐藤さん、廣瀬さんは10日組で
カメラマンを連れてさらなる上流を目指す。
ガイドのマリオの運転する車に4人は乗り込み
針葉樹以外何もない未舗装の道路を
国内線で降り立ったソフガバニの空港を目指す。
来た時にヘリで飛んできた行程だ。
延々と続くダート道。
車中は3人の思い出話で盛り上がる。
僕はひとり頷くだけ。
お客さんふたりと仲が悪かったわけではないけれど
オーナーさんの手前、遠慮していたのもあるし
なにより先ほどの則さんとの事を引きずっていたのもある。
ちゃんとした別れの挨拶もしていない。
大きな原生林の中を走る、小さなココロ。
空港までの未舗装の道路を4時間。
4日間、大自然の中で釣りをしていた僕には
なかなかの試練だったが
これでは終わらなかった。
夕方にソフガバニの空港に到着。
先に空港に入っていたガイドが戻ってきた。
異様な雰囲気はすぐに判った。
「今日は天気が悪いから飛行機が飛びません」
ざわざわとするが悩んでいる時間はない。
明日のお昼にはハバロフスクの空港から
日本に帰る飛行機が飛び立つ。
ガイドたちが出した
ハバロフスクに戻るルートはふたつ。
シベリア鉄道か車をチャーターするか、だ。
街に戻って駅に行くと
いったい何両つないでいるのだってぐらいの
深い緑色の列車が停車していた。
憧れのシベリア鉄道である。
しかし調べるとハバロフスク駅に到着するのが明日のお昼頃。
飛行機に間に合わない可能性がある。
この素敵な案は音を立てて崩れていった。
車をチャーターしてもらう。
ここから夜通し走ったら明朝には着くらしい。
世話になったガイドのマリオに別れを告げて
また車である。
そして、
また未舗装の道路である。
未舗装の道路を4時間走破後に
飛行機で1時間半飛んでホテルでシャワーを浴びる予定が
未舗装の道路を4時間
そしてまた未舗装の道路をさらに12時間走ることになった。
さすがにもう話すこともなく
周りの景色すら見えないので車中は静かなものだった。
チャーターした車なのに
一番後ろに知らない女性が寝ていたのも気にならないぐらい
疲れていたし、これからさらに疲れるのも分かっていたからだ。
合計16時間の未舗装道路をこなし
早朝、ハバロフスクに着く。
日常なら山や海、川や湖が美しく思えるのに
冷たく立ち並ぶコンクリートの建物や
朝のラッシュの車の多さ。
けたたましく鳴るクラクションに
仕事へ向かう人たちの足音。
そこに落ち着きを感じた。
この時ばかりは街が美しく思えた。
街の雑踏をかき分けホテルに入る。
初日を同じくホテルはふたり部屋だ。
お客さんふたりだから、そうだよね。
プロショップのオーナーさんと同じ部屋だよな。
さてさて、どう接するか。何を話か。
あれこれと考えながら部屋に入ったが
ふたりともそのままベッドに倒れ込んだ。
ほんの僅かな仮眠のあと
遅い朝食を済ませてハバロフスクの国際空港へ向かう。
ソフガバニ以降は僕ら以外の日本人なんて会うことは無かったが
徐々に日本人の顔を見るたびに
その割合分だけ現実に返ってきている気になる。
発着ロビーでは釣り人らしき人が
赤いザウルスのジャンバーを着ていた僕に声をかけてきた。
「ザウルスさんですか?」
「則さんいるんですか?」
則さんはまだ川に残っていると言うと
とても残念そうだった。
彼らが入った他の川の釣果を聞くとサッパリだったらしい。
あらためてコッピ川の威力を思い知る。
ハバロフスクから新潟への国際線も
お世辞にも良い飛行機とは言えないが
16時間も未舗装の道路を走ってきた僕には
さほど問題ではなかった。
やはり何事にも「経験」というものは
その時の結果がどうであれ
役に立つものだ。
福岡への直行便がなかったため
一度、名古屋に行きそこで乗り換える。
そこまでプロショップのオーナーさんと一緒だった。
最後の最後まで、ぎこちなかったけど
別れ際に「またね」と言われて
右手を差し伸べられた時はとても嬉しくて
親指をぎゅっと奥まで入れて握手を交わしてもらった。
ザウルスショップの先輩として
面識ができたことは今回の釣行の一番の収穫だったかもしれない。
そんなに好かれてなくてもそれで良い。
そう思って福岡への機上の人となった。
地元に帰りタックルの整理もほどほどに
次の日から仕事に戻る。
九州独特の梅雨の湿気と戦っているとき
コッピ川ではメーターオーバーのタイメンが連発していた。
翌年、2002年のザウルスのカタログの
最初の見開きに124センチのタイメンを抱く正影さんの写真。
僕が掴みそこねた夢がそこにある。
北緯48.5度、東経139度
シベリア大陸の東海岸、間宮海峡に注ぐコッピ川
流域には、ほとんど住む人間もなく、
手つかずの原生林から流れ込む水は澄みきって、豊かだ
オホーツクの海から帰ってきた、無垢の野生のサクラマス達は
人間を知らない、恐れを知らない
日本で身に付けた 流れのミノーの魔性のダンスに
何の疑いもなく 次々と 激しく襲いかかる
しかもその一匹一匹が とほうもなく幅広く
厚い体にとほうもない力を秘めているのだ
則 弘祐 「トップウォータープラッガー 3 in Koppi River,Siberia」 より
つづく
10.2
何も怒られたから涙がでた訳ではない。
ブラックバスのトップウォーターフィッシングを
友人に教えてもらったとき
バルサ50というルアーがあって
則さんという人がいて・・・
そこから始めたのだから
僕の釣り人生はアナタにあったんですよ。
ベイトキャスティングリールというモノを使って
毎回ライントラブルを起こして釣りにならなくて
それでも練習して通いつめて
初めてブラックバスを釣ったんですよ。
初めてABUアンバサダー5500Cを手に入れたとき
則さんと一緒のリールだと大喜びしたんですよ。
長い年月を経て
アナタの背中を追ってこのロシアの地について来たんですよ。
「だからバスマンはダメなんだよ!」
この言葉は僕には辛かった。
今すぐ首にかけているこの則さんのニコンを
川の中央に投げ込んで沈めてやろうと思って首から外した。
できなかった。
そっと則さんのバッグの上に置く。
カメラを捨てなかったおかげで
その中の写真の一枚が
翌年のザウルスのカタログに載っている。
とりあえず魚にピントは合っていたようだ。
その後ろにいる則さんの目は
今でも見たくはない。
みんなボートに戻ってきた。
背中に則さんが乗り込む気配を感じていたが
僕は何もすることなく前を向いていた。
2艇のボートが併走して上流へ向かう時点で
この釣りが終わりに近づいていることを悟った。
前方に他のボートが集まっている。
左岸の内カーブの頭、
そこに広がる浅瀬にボートを寄せる。
プロショップのお客さんが
グッドサイズのイトウを抱いていた。
僕はみんなの輪から外れたところで
その羨ましい光景を見ていた。
満ち足りた歓喜の声に
花を添える祝福の声々。
その中のひとつの声に
「このサイズならペアリングしてるだろうな」
その声を聞き逃さなかった。
そうだ。
僕の諦めの悪さは超がつく一級品なのだ。
ボートからタックルを取り出し
川へ入った。
幾度も丁寧に攻めたが
魚からの便りはなかった。
諦めの悪さも
結果を出さなければ
ただの悪あがきである。
全員ボートに乗り込んで聞こえた言葉
「一気に行こう」で
この釣りが終わったということだ。
走るボート。
「おのやまー!」
後ろから声がかかる。
返事もせず
テンガロンハットを右手で抑えて
身体はそのままで横を向き
左耳だけを声のしたほうに向ける。
「うちのビデオで山火事の話をしただろ?、ココだ。」
ボートに乗ってそれまで船首しか見てなかった僕は
その体勢のまま左岸の森に目をやった。
黒い森。
そこは初夏の緑の葉を持たない黒く焦げた白樺の森だった。
大小の動物や昆虫さえの気配もなく
何百、何千もの黒い柱が空を差してまだ立ち続けていた。
だけど
その炭になった白樺の根元をみると
シダ類が幅をきかせて生き生きと広がっていた。
3年前の山火事から
何十年、何百年かけて
森は再生する。
そのチカラ強い緑色を
僕は忘れることはないだろう。
つづく
10.1
「おのやまーーー!」
駆け寄った僕に見向きもしない。
それもそうだ
釣り糸はまっすぐ倒木の下へと向かっている。
呼びつけたものの相手にする余裕はないだろう。
倒木を交わして魚が一度、水面を割る。
でかい!デカいぞ!
しかも、なんとなく赤い。
そいつは2度ほど水面を叩いたあと
ふっとチカラを抜いた。
うまいこと手前の浅瀬に誘導する。
そして一発でネットイン。
と同時に則さんは
「ふんがっ!」って言った。
デカいオスのサクラマスだった。
体は婚姻色に覆われ
産卵を控えたメスのサクラマスなら
私に私にと寄ってきそうな立派なサクラマスだった。
水たまりのような浅瀬にネットに入れたまま
しばしその立派な魚を眺めていた。
「おい、おのやま」
ん?
「カメラマン呼んできてくれ」
はい?
呼んできてくれってアナタ
ここをどこだと・・・
ぶつぶつ言いながら自分のタックルもそのままだったので
本流の方に行きカメラマンがその辺にいないか見にでた。
いるわけないけどね。
まるで子供のお使いのように
「いませんでした」と報告する。
魚をみると荒々しいファイトの跡が見て取れた。
繁殖のために遡上してきた傷もあるだろうが
カラダは釣り糸による摩擦傷がついていたし
口をパクパクさせて酸素不足を訴えていた。
なにより、
眼光が弱っていた。
魚の写真で一番大事なのは「目」だ。
釣り上げてすぐの魚の眼光はまだ
「この野郎!放しやがれ!」という目をしているが
そこから魚の目は死に向かっていく。
この魚はもう先がない。
そう思ったときに則さんもそれを感じたんだろう。
「俺のカメラで撮るから、オマエ生かせてろ」
そう言って魚が入ったネットとタックルを僕に渡し
浅瀬から支流の流れの中で復活させろ、と
なかなかのご注文を残して
カメラを取りにボートへ歩いて行った。
流れのない浅瀬は水中酸素が少ない。
流れのある川に腰まで浸かって
雪解け水の冷たさを無視して両手で魚を抱く。
上流に頭を向けてエラに水を通す。
ビクッっと尾びれが動いたけれど
眼光は戻らない。
戻ってきた則さんが最初に立てた音が
「ちっ」
僕は魚を抱えた両腕を水につけたまま
どうして舌打ち?とばかり顔を上げた。
「なんだ弱ってんじゃないか!」
はあ?っと腹の底で大きく叫ぶ。
「まったく、こんな事もできないのか!」
腹の底で増幅された言葉は
そこから胃と食道を電光石火で駆け抜けて
口から打ち上げ花火のように飛び出した。
「はあああ?」
その言葉と反抗的な目がよくなかったのか
則さんと過ごした日々の中で
一番最悪な言葉を打ち付けられた。
「だからバスマンはダメなんだよ!」
僕は立ち上がり
抱いている弱りきった魚を川へ投げ放とうとしたが
もう一度川に腰を下ろした。
この言葉を言われたことは
今日に至るまで親しい友人の数名にしか話したことがない。
アナタを崇拝しているバスマンはどれだけいますか?
逆に
僕が魚を復活させきれなかったから
僕のせいでバスマン全員が罵倒されたのか?
確かに一時期バスから離れていた原因は
バスマンのマナーが原因のひとつだったかもしれないが
この言葉は僕にはキツイものだった。
どちらにしても
秒単位でも時間がたつにつれて
怒りよりも情けなさや悲しみのほうが勝っていった。
「まあいい」
全然良くない
「おい、おまえが写真を撮れよ」
と渡されたカメラがニコンの一眼レフ。
もちろんフルオートのデジタルではなく
フィルムを使うマニュアルものだ。
こんなの使ったこともないけど
もう「できません」は絶対に言いたくなかった。
あの言葉がもう一度出たら
僕は自分を抑えきれないと思ったからだ。
シャッター押しまくって
ちゃんと判ったフリして撮って
日本に帰ってちゃんと写ってなかったら
とんづら決めますか。
カメラを構える。
「おい、もっと寄れよ」
寄る。
「レンズ動かしてよー!魚にピント合わせてよー!」
半円が上下にズレててそれが合うだろー?」
返事もせずに言われた通りにする。
「ほら、どうした、押せよ!」
返事もせずにもくもくとシャッターを切る。
「おお、則さんやったじゃん!」
ビクッとして振り向くと
プロショップのオーナーさんだった。
ボートが来たことに全然気づかなった。
でも来て頂いてよかった。
ふたりっきりなんていつまで持つか分からない。
僕は賑やかな輪から外れて
ボートに乗り込んだ。
それが相当な雰囲気だったのか
プロショップのオーナーさんが僕のところに
輪から外れて寄ってきた。
「則さんにやられたか?」
僕は軽く頷いただけ。
「大丈夫さ、みんな一度はやられるんだ」
僕はテンガロンハットを深くかぶり
頷いた顔を上げなかった。
上げることができない理由が頬をつたっていたかだ。
つづく
9.30
「明日はオレとやろうな」
こういう時の則さんは
本当に優しい顔をする。
一日の終わりをそれで過ごせたから
翌朝の目覚めもいい。
「さあ、行こうか」
朝焼けで赤く染まった桟橋からボートが離れる。
帰り際に釣りをしながら帰ってくるので
ロッジの近場のポイントに誰も見向きもしない。
僕としては
オリエンタルな顔になろうとも
二日目の夕方、佐藤さんと攻めた止水域が気になるところだが
そちらに舵を切るガイドは誰もいない。
いつか、ここだけのポイントで
フルにイトウだけを狙ってみたいなと
思いだけを残して上流を目指す。
30分は走っただろうか。
開けた河原があるポイントにボートは腹をつける。
僕はタックルを手に飛び降り船が揺れないように押さえる。
「やっていいぞ」
則さんは降りない。
僕がボートから下流にキャストしながら下っていくのを
ずっと見ている。
3日間どれだけのことを学んだか見ているようだ。
どちらかというと
廣瀬さんのスタイルで丁寧に攻めていたと思う。
則さんは見ているだけで何も言わない。
ということは及第点はとっているのだろう。
今朝の魚のご機嫌はあまりよろしくなく
ひとつ目のポイントではアタリすらもなかった。
ガイドに呼ばれボートに乗る。
わずかに上流に上がっただけで釣りを始める。
景色は変わらない。
よほどココのポイントに自信があるのだだろう。
今度は則さんも降り釣りを始める。
ザブザブと品のない音をたてて川に入るも
ひと度、釣りを始めると
しなやかな美しいキャストをする。
トゥイッチの入れ方も滑らかだ。
ピシッ!とロッドが立った。
それはまるで日常の出来事のように
スムーズに魚を寄せる。
リールの巻もゆっくりだ。
魚と会話しているかのように。
本日一本目の魚は
ネットに入った。
そして、僕が見ていたのを知っていたように振り向き
「な、言っただろ?」
なんにも言ってはいなかったはずだけどね。
ゆくゆくはこんなオジサンになりたいものだと
関心しながら、とりあえず頷いた。
釣り好きたちと外国の川に滞在して4日目ともなると
河原のランチタイムも随分とダラけて賑やかになる。
その中にも溶け込んではいたが
ひとりだけ、ただひとりだけ
愛知のプロショップのオーナーさんとは
まだ話ができなかった。
ピリピリするのも嫌なので
即即と用意されたランチを頬張り
目の前の川でロッドを振っていた。
午後からも上流へ向かう。
今日は河口にあるいつものロッジでなく
中流のロッジに入る予定だ。
いくつかのポイントを回ったあと
本流がいくつもの流れに別れる場所についた。
上流に向かって右はフラットな河原が続き
左には倒木やブッシュが川面を覆っていた。
ブラックバス釣りをやっていると
どうしても左の込み入ったポイントに目が行くが
でかいイトウを釣りたい僕は
本流を狙うためにど真ん中をトレースした。
後ろをみると則さんは倒木の間を狙っている。
やっぱりバスマンだなと笑いながらキャストを続けていると
「おのやまーーー!」と
則さんの怒ったときに聞く怒鳴り声に近い声。
ロッドはグンッグンッと叩かれている。
大きい!と感じると同時に
僕はタックルを岸辺に置いて駆け寄った。
つづく
9.29
「おまえ誰だ!」
則さんから突然言われた。
何言ってんだろと聞けば
顔が別人になっているらしい。
鏡がないからデジカメの画像で確認すると
顔が腫れ上がっている。
佐藤さんと止水域で遊んでいたため
蚊の猛襲を受けてたみたいだ。
遊びに夢中で気がつかなかったが
テンガロンハットのツバの下に相当溜まっていたみたいだ。
ロシアの蚊には日本の防虫剤は効かないのだ。
気を取り戻して
今日は九頭竜川の主、廣瀬弘幸さんと同行だ。
則さんは必ずボートの割り振りのときに
一番に僕の名前を言って誰かにつける。
あとの割り振りを聞いたことがない。
この三人のエキスパートを僕にみせることを考えていたみたいで
全員の釣りを学べということだ。
廣瀬さんの釣りは
2人とはまったく違った。
あくまでも僕の私感だが
前日の佐藤さんがデカい魚に的を絞って
誘い出す釣法とするならば
彼は魚が居るべきところを的確にトレースして
魚の鼻先にルアーを送り込む。
静かで淡々と、確実に。
美しい釣りだ。
僕は何度も見とれていた。
僕にはない美しい釣り。
同い年というのもあって話も合い
一日中、和やかに釣りができた。
この三人衆とはほぼほぼ同年代。
同じ年月を生きてきたのに
このロシアでのビッグトラウトにおいて
圧倒的な差を見せつけられた。
正影さんはそのトラウト部門を仕切り
佐藤さんと廣瀬さんは
名前を冠したロッドまで出ている。
しかし悔しいとか、挫折感はまったくなく
むしろ清々しい。
まったくザウルスって会社は
どんだけ凄い釣り師の集まりなんだ。
ディナーが終わって則さんが言う。
「明日はオレとやろうな」
三日間、三人を見て勉強し
そこそこ魚を釣ってもきた。
明日は見せつけてやろうと暖炉で温まった部屋に戻り
ベッドに入る。
悲劇の4日目が待ち受けてるともしらずに・・・
つづく
9.28
季節は初夏といえど
ロシアの夜は寒い。
暖炉に白樺の皮をくべ火をつける。
この木の皮は油を含んでいるので
着火剤として使われる。
ふたつベッドが用意された部屋に僕が入り
後から来たのは佐藤偉知郎さん。
先に入って荷物の整理を終えてゆっくりしていたので
佐藤さんの荷解きを見ながら話していた。
ジップロックで几帳面に整理されていた荷物をみて
遠征慣れしているのがよく分かる。
それ以来、それこそ今日に至るまで
僕の荷物のパッキングや釣り道具の整理は
彼のそれ、そのままである。
話を聞くとやはり初日は川の状態があまり良ろしくなく
明日は回復してるといいねと話しながらライトを消した。
そう、明日は佐藤さんと同行することを
ディナーの席で則さんから告げられていた。
僕は朝イチから驚かせられることになる。
北国の朝は早い。
寝坊したかと勘違いして飛び起きるぐらい
九州に比べて明るくなるのが早い。
朝もやの中をボートがけたたましく走り出す。
今日は丸一日の釣行なので
ぐんぐん上流へ進んでいく。
それまで針葉樹の森の中を蛇行していた川が急に開け
緩やかな流れに変わる。
水深はさほどないけれど
水底には大きなゴロタ石が見て取れる。
遡上する魚の群れを寸断し
ボートはそのポイントの中程に付けられた。
佐藤さんがボートから下流に入ったのをみて
僕は上流に歩いていく。
その日の一投目。
気負わず優しくキャスト。
昨日と同じ12センチのミノーに抵抗を感じたとき
川の流れる音しかしないその場所で
大きな違和感を感じた。
ビューーッ、ビューーッ、ビューーッ!
なんだろうとリールを巻きながら辺りを見回した。
視界に入るのは自然しかない。
そこに佐藤さんがいて
リールのベールを起こしキャスティング態勢だ。
音は止んでいた。
なんだろうなと思いながらも
釣りを再開しようとした時だった。
ビューーッ、ビューーッ、ビューーッ!
衝撃だった。
音の主は佐藤さんだった。
ヒザを使ってロッドを上下に大きく振っていた。
空気を裂くほどのチカラで。
それがあの有名なイチロージャークだった。
正直いうと
あんなに激しく動かして魚は食えるの?と思った。
僕は今回の釣行でずっと同じ部屋だったので
夜は佐藤さんに質問攻めの毎日だった。
彼は川に潜ってサクラマスが小魚を狙うシーンを確認していた。
いや、サクラマスに追われる小魚を見ていた。
逃げ惑う小魚はもの凄いスピードで逃げるが
直線で逃げる距離は1メートルほど、それ以上はない。
そこでターンをするそうだ。
その動きをミノーで演出すると
イチロージャークの動かし方になる。
それだけではない。
そのためにそれ専用のロッドブランクやガイド設定が必要となる。
イチロージャーク専用のロッドのガイド位置を見たことがあるだろうか?
必要以上に先端よりのガイド設定は初めて見たときに
最後のガイドを付け忘れたのではないかと思うぐらいだ。
エキスパートとはここまで理論を構築できる。
衝撃だった。
衝撃だったのはそれだけではない。
あるポイントでのことだった。
僕の釣り方はショートトゥイッチ。
小刻みにロッドの先端をはね上げてミノーを躍らせる方法。
僕はこれで沢山のガラムーシャ、白鮭を釣った。
日本で釣る何年分もの白鮭を一日釣って得意顔だった。
だけれども
同じポイントで佐藤さんのイチロージャークには
大きいオスのシーマしか釣れなかった。
あきらかに
彼は魚を選んで釣っていた。
大きく、体力があるオスのシーマだけを狙って。
かなわない、この人たちには、かなわない。
認めざるおえない現実を突きつけられた瞬間だった。
夕方、
ロッジ近くの湿原が広がる流れのないエリアを探る頃には
冗談を言いながら釣りをしていた。
そこで彼のロッドをひったぐる強烈なアタリ。
針がかりしたのなら彼のロッドさばきから逃げるられるわけがない。
上がってきたのはタイメン。
イトウだった。
80センチほどの立派なイトウに僕は見とれた。
子供の頃に釣りキチ三平で一番好きな物語。
憧れのイトウだったからだ。
釣りたい!釣りたい!
イトウを釣りたい!
僕のその日の残り少ない時間、
真剣にキャストを続けた。
釣りたい!釣りたい!
立派なイトウを釣りたい!
釣りキチ三平みたいに
ネズミのカタチをしたルアーも使ったさ。
バス用のラージマウスだけどね。
しかし僕のルアーにかかってくるのは
30センチ程のマルタウグイばかり。
それはそれで奇跡だと佐藤さんは言っていた。
いや、笑っていた。
その日のうちに
僕のあだ名は
「ガラキング」、「マルタキング」になってしまった。
つづく。
9.25
柔らかな砂地に足をつけ
遠くロシアの地にたどり着いた。
ヘリの巨大な羽根を動かすローターのチカラが
まだ勢いのあるうちに下を通るのは
なかなか勇気がいる。
目の前には先ほど上空から見た
赤い帯をなして上流を目指す
幾千の鱒の群れが泳ぐ川。
それが気になりながらも
大量の荷物を降ろしロッジへと運び込む。
空は青い。
乾いた空気に潮の香がうっすらと混ざり
日本なら大ニュースになる
ゴマフエアザラシの家族が流れに漂っている。
時間はゆっくりと流れているけれど
みんな無言でいそいそと釣りの準備を始める。
まだ日没まで時間がある。
日暮れ前の釣りを楽しもうという魂胆だ。
生活物資はそのままで釣りの準備を終え
河原から突き出た木製の桟橋には
ガイドがひとり操船する長い木製のボートがあり
これに釣り人ふたりずつが乗ってポイントを巡る。
全員揃ったら則さんが真っ先に言う。
「おのやまは正影と乗れ」
正影さんをみるとあまり良い表情ではない。
折角来たロシアの川で初日に初心者とかよ
そういう面持ちだ。
彼は一瞬僕から目を離し誰かを見たのを
見逃さなかった。
「行くよ」
しばらくはその言葉だけだったと思う。
彼は通い慣れてるために仲の良いガイドのボートに乗り込んだ。
僕も慌ててあとに続く。
ロシア、コッピ川の釣りは
ガイドの操船するボートで鱒と一緒に遡上しながら
ポイントごとに岸につけて河原から釣りをする。
5艇のボートが上流へ向かう。
1艇、また1艇と岸につけるために隊列から離れていく。
僕らのボートのガイド、ミーシャはまだつけない。
初めての僕でも分かるぐらいの良さそうなポイントに見向きもしない。
僕らと並行して赤い鱒の群れはそこを泳いでいるのに。
20分ほど走っただろうか。
青い大河は徐々に狭くなり
最初の大きな流れの合流点にボートを寄せた。
正影さんは流れ込みの下流を攻めに回った。
ならばと僕は上流側に周りキャストを始める。
2投もすると周りが見えてくる。
絶対アソコなんだよなと川幅10メートルぐらいの真ん中にある
一番太い流れが落ち込むポイントを見ていた。
川に足を入れる。
冷たい。
ウエーダーの外側からその冷たさが伝わってくる。
轟々と音を立てて流れこむ水は上流何百キロと旅をしてきた水の集まりだ。
そのほんのひと月前はきっと氷だったに違いない。
アソコへ。アソコへ。
そのポイントだけを見つめて進む。
「気をつけなよ」
正影さんから声がかかる。
大河の流れは太く冷たく、そして勢いがある。
ひと度気を抜けば足をすくわれる。
中央のポイントまで届くところに近づき
キャストを始める。
ルアーにかかる抵抗が半端なく強い。
「ガツンッ」
僕が操る12センチのミノーが何か当たった。
その何かを考えさせる暇をもらえずに
ラインがリールからけたたましく引き出された。
本能的に脇をしめロッドを立てる。
ググッ
ググッ
太い流れに乗って生命が躍動する。
ググッ
ググッ
怒りに満ちたその生命体をいなし
流れをかわし
ゆっくりと、ゆっくりと、
確実にゆっくりとラインを巻き取る。
観念したのか
足元まで寄ってきた生命体はチカラを抜いた。
河原に引き上げたのは60センチのシーマ。サクラマスだ。
正影さんが釣りをやめて駆け寄ってくる。
「初物だろ?おめでとう」と
強面の顔がニカーっと笑った。
僕は釣り人としての器量をここで判断する。
一緒に釣りに行って
「人の釣った魚を喜べるか?」
一緒に行った相手だけが釣れて
今日は楽しかったねと喜べるか?
僕は喜べない人やフテクサレる人とは
それ以降、釣りに行かない。
それはプロ根性としてどうなんだ?と言われれば
そんな根性はカケラもいらない。
話を戻そう。
僕が釣れてからというもの
彼とは同年代というのもあってか
お昼までとは打って変わって沢山話しをしてくれた。
「ここのポイントはこういう攻めの順で・・・」
「あそこがビデオで釣れた所・・・」
「ほら、熊の足跡、デカいぞ、気をつけろ」
「おー怖い〜」とか言いながら
ふたりでおどけて笑っていた。
日暮れ前、桟橋に帰って来たのは僕らが最後だった。
先に帰りついたメンバーの見守る中、
荷物を降ろしながら正影さんが大きな声で言う。
「ザウキンにやられちゃったよ!」
その日の釣果はみんな芳しくなかったみたいで
そのひと言でどよどよっとした。
僕はけんそんしながらも
それがとても心地よかった。
正影さんがいう
「サウナ行こうぜ」
「はい」ではなく
「おー」で僕は答えた。
つづく。
9.24
ハバロフスクは快晴。
澄んだ湿気のない空気が
滑走路を包んでいた。
およそ2時間の窮屈なフライトを終え
入国審査を受ける。
英語圏ならなんとか理解できるも
ロシア語なんて
「ダー」と「スパシーバ」しか知らないのに
何かを聞かれたらどうするという不安。
東洋人がアメリカ人のようなカウボウイハットをかぶり
釣竿を入れるためのケースはまるでバズーカ砲。
それが数人揃えば怪しさもひとしおだ。
それらを払拭する最後の手段は
笑顔。
難なく空港を出て街に出る。
北国のロシア人は太陽の貴重さを解っているらしく
露出の高い出で立ちは「ごちそうさま」クラスである。
その日はホテルで一泊し
明朝、国内線の飛行機で
間宮海峡に面した港町、ソフガバニへ向かう。
国内線のおんぼろ飛行機は揺れに揺れ
とうてい後部座席まで行って
タバコを吸おうなんて気にもならなかった。
なんとか無事に
ソフガバニのデコボコの滑走路にタッチダウン。
そこから小型バスで移動して
森林警備隊のヘリが待つヘリポートへ向かう。
いや、子供たちが遊ぶただの原っぱだ。
その真ん中にヘリが待っていた。
荷物を乗せながら
ガイドを通して機長に伝えてもらう
「これパンクしてるよ」
機長の返答を持ってガイドが帰ってきた。
「ヘリは空を飛ぶものだから関係ないそうです」
そうだね、確かにそうだ。
ガイドがふたり付いていたのだけど
二人共言葉少なめだ。
そうもそのはず
先週、同じヘリが墜落して
9人が亡くなったそうだ。
秋田空港での出発前の則さんの挨拶が頭をよぎる。
「とにかく生きて帰ること」
冬眠明けの子連れの熊に襲われたり
川原から一歩、藪にはいると
皮膚から入って脳に達するダニがいたりだとか
街には怖いロシア人がいたりとか
いつも命懸けなのである。
ベーリング海峡を挟んで
アメリカ側は管理された自然。
ロシア側は手つかずの自然。
危険度合いは比べようがない。
それゆえ、魅力的なのでもあるが。
数名の無口な青い顔の一行を乗せたヘリは
ふらふらと舞い上がり
爆音とともに突き進む。
地上の未舗装の道路を車で行けば
12時間かかるという行程を
30分でクリアして
夕方の釣りに間に合うように突き進む。
飛び立ちて
町が小さくなるあたりから
眼下は急に原生林だけになる。
目を遠くにやっても原生林だけである。
日本では考えられない景色の上を飛ぶ。
丸い窓から覗いて則さんが言う。
「コッピ川だよ」
左の窓から覗けばシベリアの海。
右の則さんの肩ごしの窓を覗けば
延々と続く深い森の中を蛇行する青い川。
着陸のために旋回しながら高度を落としていくヘリ。
窓から今日から始まる釣りのステージを見ていた僕は
ありえない光景を目にした。
北の海から間口の狭い河口があり
そこから遠くうっすらと見える山へと向かう青い川に
赤い線がくっきりと見える。
何百、いや何千、何万という数の遡上する鱒の群れだった。
僕のココロを震わせるのは
釣り人の魂か
自然を愛でるココロか
僕はとうとう
ロシア、コッピ川に降り立った。
つづく。
9.23
6月22日
福岡から秋田空港に降り立つ。
荷物をピックアップして出口を出て
国際線の出発口を目指すと
異様な人たちの集まりが目に入った。
ザウルスパーティーだ。
真ん中に則さん。
その横に愛知のショップオーナー。
そしてそこのお客さん達。
そしてザウルスのカタログでよく目にしていた人たちがいる。
「トラウトの鬼」と呼ばれる正影雅樹さんは
もう普通じゃない雰囲気だ。
横にはイチロージャークで有名な青森の佐藤伊知郎さん。
芸能人のオーラが出ていた。
そして「九頭竜川の主」と呼ばれた廣瀬弘幸さん。
ザウルスのスター、いやトラウト界のスター軍団だ。
いいのか?いいのか?
ビッグトラウト、海外のトラウトの経験がない
僕がココにいていいのか?
誰かにそれを聞けば
「うん、ダメでしょ」と即答されるようなことだから
とにくオドオドしないように踏ん張って置くことしかできない。
50万も払ってこんな渦の中にきたのかよ。
今更、自分の行動に笑うしかなかった。
「お、小野山さーん」
八郎潟でともに楽しんだ友の会の○ちゃんが
明るく声をかけてくれた。
彼はもう、あれからすぐにザウルスに同行をはじめ
ロシア釣行は今回でもう3回目となる。
心強い。
「おう来たか」
則さんが僕に気づく。
ちょっと安心した。
則さんが僕をみんなに紹介する。
「長崎の小野山だ」
深く丁寧に一礼する。
「こいつはバスマンだから、みんなよろしく頼むよ」
言わなくてもいいでしょうよ、と思いながらも
そう言われればバスマンの意地を見せてやらなきゃね。
とにかく僕はオドオドしながらピリピリしていた。
目立った行動をしないよう、迷惑をかけないよう
そして嫌われないようにね。
いつも○ちゃんの影についていた。
ショップのオーナーさんは
則さんのそばにいるし
正影さんはいつも睨んでくる。
僕がショップをやっているから
お客さん達にも違う意味で話しかけづらい。
九州の西の果てて
自由奔放に暮らしている僕には
気持ちが悪くなるほどだった。
ロシア、ハバロフスクへ向かう飛行機に乗る。
機内は色気ムンムンのロシア人女性に
ダブルのスーツを着た強面の日本人男性のセット。
ロシアの夜を楽しみにしているおじさんの団体。
普通の観光客なんていやしない。
僕らが普通に見えるほどの異様な機内だった。
「タバコ吸いにいこ!」
口数の少ない僕を○ちゃんが気に留めてか誘ってきた。
いやいや機内禁煙だろうに。
とにかくも
この狭い機内でココにいるとおかしくなりそうなので
○ちゃんについて機内後方についていく。
最後尾、トイレのドアの前で
ロシア人が数人が屯していた。
そして全員がタバコを吸っていた。
それが許されるのがロシアの航空会社なのか。
僕の知っている常識なんて
ほんのちっぽけなモノだった。
タバコを吸えるか吸えないかの
大したことではないけれど
他にも世界には沢山の理解できない常識がある。
自分の常識を人に押し付ける馬鹿らしさを
こんなところで知ることになる。
「郷に入れば郷に従え」
オドオドとピリピリを解くために
2本続けてタバコをゆっくりと吸った。
ただ、あの席に戻りたくなかったからかもしれないが・・・
つづく。
9.18
6月が来て雨も多くなり
九州独特のジメジメ感が増す中、
僕は晴れ晴れとロシアへの釣行の準備をしていた。
もちろん、サラリーマンなので
一週間以上も仕事を任せることや
初めての海外釣行ということで
不安も少なからずとあったのも事実。
釣行費は当時のレートで
出発して帰ってくるまでで50万円。
なかなかのものだ。
手持ちのクレジットカードでキャッシングをした。
冬眠明けの子育て熊やダニなど
恐ろしい要素があったけれど
キャッシングして釣りに行くことが
一番怖かった。
ああ、プロ集団と付き合うと
人生崩す人がいるっていうのは
こういう事かな。
もちろん掛かる費用なんてそれだけではない。
タックルも何種類も揃えなきゃならないし
フィッシングベストやウエーダーなどのウエア類だって
それ相当のものを揃えると
とんdめおない額になる。
ましてや・・・
ターゲットとなる魚種も
いままで狙ったことのないサクラマスやイトウ。
そして海外遠征。
まったく道具を持っていないので
全部揃えると旅費と同じぐらいの金額がかかった。
でも、何かがそこにある気がしていたんだ。
この並ならぬ出費と準備。
残していく仕事へのフォロー。
出発の日が近づくにつれて
ため息の量も増えていく。
でも、きっと何かがある。
釣果だけでない、何かが。
しかし一番僕の中にあった曇り空は
愛知県にあるプロショップのオーナーさんとの関係だった。
僕なんかよりはるか前に
ほぼザウルスショップだったし
則さんや会社にも助言するような先輩ショップのオーナーさんだった。
正直いうと
ザウルスキングを始めるにあたって
かなり意識したショップだった。
もっと正直にいうと
僕のことを良くは思っていないだろうというのも思っていた。
今回の釣行を取り仕切っておられたので
度々連絡を入れるも
やはり、そんな感じが電話越しに伝わってきた。
熊やダニ、
釣果に健康、
カードローンに残していく仕事。
いろいろあったが
それが一番の不安材料だった。
つづく。
9.17
2001年の春バスは
大分県の、といってもほぼ宮崎県に近い
北川ダムへの遠征だった。
則さんたちが到着する前に
前入りしてチェックをいれたのだけど
これがまた減水期とはいえ
素晴らしいローケーションのダム湖だった。
初場所はいつもワクワクする。
しかも熊本のメンバーが50センチアップを釣り上げて
僕らは大いに盛り上がった。
ルアーはファンキーモンクだったかな。
次の日、早朝から車に則さんとカメラマンを乗せて
湖面へ向かう。
車の中は
「おまえ、ルアー400本を一瞬で売ったんだって?」
という明るい話題を期待していたが
そんなの微塵もなく
フィリプソン問題の暗い話題だった。
あの頃は則さんの頭はそればかりだったかもしれない。
カメラ艇を後ろにつけて
僕が操船するボートに乗る則さん。
釣りの話より愚痴の方が多かった。
たまに弱ってるなと感じるときもあったぐらいだ。
結局その日は釣果に恵まれず
僕は仕事の都合で帰ることになった。
次の日から僕に代わり
前日50アップを釣り上げた熊本のメンバーが
則さんを乗せて取材に挑むことになった。
50アップを釣りあげた「モッテる男」だ。
しかし本当に「モッテる」と思わせてくれたのは
それよりももっと先、2002年になっての事だった。
2002年のスポーツザウルス社のカタログに
バーンっと則さんを前席に乗せて
操船する彼の姿が載ったからだ。
深く濃い緑の木々。
両サイドからせりたった岩盤。
その自然の造形に両手を広げる則さん。
その奥へボートを操る赤いジャンバーを着た彼。
素敵なショットだった。
正直、羨ましかった。
憧れのスポーツザウルスのカタログに載れるなんて
なんというシアワセだろうか。
羨ましかった。
「モッテる男」とはそういうモノである。
熊本の彼とは
今でも連絡を取り合う仲だ。
優しい顔に大きなカラダ
山盛りのご飯が似合う気のいい男だ。
今度、もう一度
この時の話をゆっくりしたいものだ。
あの時の僕は
そんなに喜んでやれなかったかもしれないから。
つづく
9.16
2001年3月10日
僕にとっては待ちに待った
ココロが張り裂けんばかりの日でした。
インジェクションルアーのセラフシリーズで
ザウルスキングのオリジナルカラーの発売日でした。
ひと昔前は
ショップオリジナルルアーっていくつか存在していますが
それも創世記から支えてきたビッグな有名ショップさんでしたから。
ましてその頃はもうそういう設定は無かったので
お話を頂いたときは舞い上がりました。
工場側と何度も色合わせをして
ビッグラッシュとホッツィートッツィーの2機種に
当時ではカタログ落ちしていたカラーの
039ブルーボーン
041レッドボーン
この2色を設定しました。
90年代初めにビッグラッシュBIGサイズの専用カラーだった
そのカラーです。
各100本だったので計400本。
会社に届いた時は
もしかして下手打ったか?というぐらいの量でした。
しかし、蓋を開けてビックリ
400本はわずか1日半で完売。
スポーツザウルス社には
いくつかのショップ様から
ザウルスキングで売っているルアーを入れてくれと
連絡が入ったと聞いています。
あの頃は発送用の箱なども持ってなく
みんなで手分けして
近所のホームセンターなどを回って
ダンボールや箱をもらって
それを出荷ように使っていた頃で
通販業の大変さを痛いほど感じました。
それにしても
どこよりも先駆けて
自分の設定で色を塗ってもらったことは
とても嬉しかったな。
数日後には某オークションサイトに
出品されていて
すごい高値になったのを見つけて
複雑ではありましたけれど・・・
今でも僕は持っています。
つづく
9.15
2001年
則さんからの年賀状にはこうありました。
謹賀新世紀。
高校二年生の夏。
初めてバスを釣ってから35年。
つくづくバス釣りをやっていて良かったと思える去年一年でした。
全国にバスが増え、と同時に息子のような友人がたくさんできました。
こんなことは35年前はとうてい考えられなかったことです。
云々・・・
則さんにとっても友の会との出会いは
貴重だったに違いない。
前に書いたけど
突然出てきたアメリカのフィリプソン問題では
今まで付き合っていた人たちが手のひらを返すように離れていった。
実は僕はこの時、隠密行動をしていました。
フィリプソンの登録商標とかで揉めていた最中に事が起こりました。
スポーツザウルスって
なんという王様ぶりだこと。
バルサファイブオーのすべてのルアー名など
まったく商標をとっていなかったのです。
この頃僕は
偽名でネットの中をウロウロしていて
ザウルスのことを「アチラ」と呼ぶ人を見つけてコンタクトをとりました。
その人と話し込んでいると
その未登録のままの商標を「コチラ」で登録してやろうという計画を聞き出し
ザウルス社に連絡し、弁護士さんが動いて
事なきを得ました。
結局は長年、それを使用して販売してきたので
他人に取られても対処はできるそうだんだけど
大好きなルアーが改名とかしたら
嫌ですよね。
あの時は真剣だったな。
普段、自分の書いたものを見直しもせずに
送信ボタンをすうに押してしまうけど
返信文面を何回も読み直して
ザウルスファンということを悟られないように
男であるkとを悟られないように
やり取りをしていた。
則さんにめちゃくちゃ褒められたな。
100点とった子供のように嬉しかった思い出がある。
そして「春バスを一緒に行こうな」
とお誘いをいただいた。
つづく
9.14
楽しかった木更津の忘年会を終えて
地元に帰る。
前の夜、
則さんが言ったことが頭を支配している。
「お前をシベリア鉄道に乗せてやりたいんだ。
いいもんだぞ シベリア行こうな」
来年、ロシアへ釣りをしに一緒に行こうということだ。
則さんの言葉には魔法のチカラがある。
サラリーマンの身でも
行けそうな気がしてくるし
行かなきゃならない、そんな気持ちになる。
まあ、そんなやって人生をロストした人もいるらしいが
僕はそれを人生の何かにしたい。
帰ってきてからの営業周りは
初日からロシアの川のことで頭がいっぱいだった。
ネットショップのザウルスキングも
とにかくザウルス情報を発信することの
使命感に燃えてやっていた。
その頃には様々な人たちとも交流ができて
則さん、営業さん、工場の職人さん、
その取り巻きの人たち
またこの頃には
様々なルアーメーカーのファンサイトも存在していた。
バルサファイブオー好きだけでなく
他メーカーの応援サイトとの付き合いも増え
人生で一番、友人が増えていた時ではなかろうか。
そうなると協賛依頼も数多くくることになる。
公言していたわけではないが
その手の依頼はなぜか僕のところに来てたようだ。
ご近所ではなく全国にメンバーがいる会だし
付き合っているのは僕。
知らないメンバーに負担をかけるのも嫌なので
僕ひとりで協賛を出していたのだけど
それが会で問題になった。
その時、どうして問題にされるのか
理解できなかった。
スポーツザウルス10周年記念ルアーもそうだった。
僕は友の会の忘年会で
則さんい進言したから
友の会でそれを進めようと思ったが
その話を出した時に
「それ小野山さんが言い出したこと」と
素っ気なく切られた。
そっか、ならば僕とザウルスとで話そう。
ポジティブな僕はなんのためらいもなく
一瞬でひとりで前進態勢になったけどね。
やはり
メーカーに気に入られた友の会から
ひとりだけショップを始めたことを
気いらなかった人もいたのかな。
いま思えば、
もうちょっと大人の配慮をしなきゃいけなかったんだな。
会が大きくなるにつれて
問題も多くでてくるのも
どの会も一緒だった。
そういうネット付き合いの難しさを感じた年でもあったな。
そしてミレニアムイヤーは幕を閉じる。
つづく
9.11
2000年11月5日
この日は早くから
忘年会ということで全国各地から
会の人たちが集まってきた。
2000年はというと
2月のザウルス九州展示会、
7月に北山ダムでのセミナーと
バスワールドの宮崎取材
10月に福岡の遠賀川での50ミーティングなど
結構、則さんと一緒に居れたので
今年の忘年会は並木さんのバスワールドの取材もあり
去年の酒乱事件のこともあり
僕はおとなしくしておこうと考えていた。
実際はどうだったか覚えてないけどね。
10月中旬にあった
福岡での50ミーティングは
遠賀川の河川敷で
ザウルスの道具を体験できるようになっていたり
ボートで釣り体験ができたりと
メーカーがユーザーさんにしっかりと寄り添う
とても素敵なセミナーとなった。
初日の午後からは
地元誌の取材で則さんとふたりで出船。
とんでもなくデカいバスを出したけど
ランディング失敗で逃がしてしまうという失態。
則さんいわく
「おまえはツメがあまい」
らしい。
そのあとはちゃんと釣りましたけどね。
沢山、話しをして
沢山、笑って
ふたりで川バスを楽しんだな。
17時に帰ってきてくださいと
営業さんに言われていたのに
気が付くと18時30分。
護岸を埋め尽くす沢山のお客さんは
則さんが帰ってくるのを待っていた。
スミマセン・・・
則さんを独り占めして
ごめんなさい
でも、、、楽しかった。
そんな話も含め
僕は木更津のスポーツザウルス社での忘年会で
仲間たちに沢山報告をしていた。
あまりアルコールを飲まずに・・・たぶん。
そしてその日は
その年、たくさん則さんと接していたので
ちょっと控えめにちゃんとしてたと思う。
控えめにしていたのが良かったのかな。
突然、閃いたんだ。
僕が持っている
スポーツザウルスの一番古いカタログに
スポーツザウルス元年と書いてあったのを思い出した。
あまり厚コールが入っていない(たぶん)お陰で
完璧な引き算ができた。
今年2000年、引くことの1991年
ぴぴぴぴ
「則さーん!来年、ザウルス10周年ですよ!
何かやりましょう!」
「そうなのか!」の好反応。
そして、ザウルス10thアニバーサリー計画が
始動することになる。
つづく
9.10
お客さんも帰って
則さんのロッジに静かな夜が訪れた。
ダイニングテーブルから
オーディオ横のソファに写り
猟銃を磨く則さん。
アメリカの山奥では
こういう光景が当たり前なんだろうな。
でも則さんって
どっぷりアメリカかと思ったら
意外とアメリカ嫌いだった。
学生のときに原子力空母の入港で
反対派として佐世保に来てたときの話も聞いた。
湾岸戦争が始まった時だって
アメリカという国が大嫌いだよって言ってた。
アメリカ人からアメリカ流の釣りを覚えて
それを日本に広めた人がそう言うものだから
返答に困ったものだった。
猟銃を構えて則さんが言う。
低い声で、淡々と・・・
「おい、おのやま
遠方から友が来るってんで
何時間もかけて古ちゃんが料理を用意してたんだ。
それを台無しにしたんだよ。
そういう”もてなし”ってのは
大事だし、大事にしなきゃならないんだよ」
ギリギリで1本釣っていい気になってたのかな。
「ザウルスと名がつく取材、仕事よりもですか?」
と、言おうとしたけれど
どうせ怒られるから黙ってうなづいた。
猟銃も手にしてるし・・・
でも当時の則さんの年齢を追い越した今、
それがとても大切な事だと感じてる。
釣りはまったく教えてくれないけど
人として円熟味を増すことをいつも教えられていた。
「おい、そこの林檎を剥いてくれ」
右奥のキッチンをみると
見たこともないような小ぶりの林檎が置いてあった。
不思議そうに眺めていると
「東北の天然に近い林檎だ、拾ってきたんだよ」
落ちてたのね。
かわいい見た目とは対照的な
硬いガリッとした赤い皮をナイフでそいでいく。
身はザクザクしてて水分もあまり出てこない。
「食ってみろよ」と即されて
人切れ口に入れる。
なかなかの噛みごたえだ。
甘さよりも酸っぱさが先にたつが
嫌な酸っぱさではない。むしろ懐かしい。
昔の林檎ってこんなんだったんかな?と聞くと
「そうかもな」とそっけない。
銃身のくすみのほうが気になるみたいだった。
ブサイクな8当分にして皿に盛って
則さんに持っていくと
「おれはいい」
食わんのかい!
いつも後から気付くんだけど
則さんって意外と不器用なところがある。
いつもは命令口調で上から言われるけど
たまにこんな時があるんだ。
僕が感じたのは
その人のことを思って
押し付けないでいてくれるんじゃないかなって。
ブイブイしてた頃の則さんはどうだか知らないけど
僕が出会った頃というのは
フィリプソンの問題や
バスブームに陰りが見えてきたぐらいの時で
言葉は悪いけど
それまで仲がよかった人に裏切られたり(と感じたり)
人が離れていったりで
淋しかったんだと思う。
そkに応援する友の会がでてきたり。
僕みたいな鉄砲玉がでてきたりで
ココロの中の隙間のピースにピタッたハマったんじゃないかな。
その辺は話し込んだわけじゃないから
僕が1対1で付き合ったときに感じたことだ。
「今日、釣れてよかったな」
突然の嬉しい不意打ちに
うん、と一言だけ返して
ニマーーっと笑い則さんを見る。
「明日は早くからみんな来るんだろ?」
ほら、不器用だ。
そう明日は友の会の忘年会がまたここで開催される。
2階の寝室に上がる雰囲気だった則さんに
「ぼく、風呂入らないと寝れないんっすけど?
今日ほら、釣りも頑張ったし」
まだ言ってる。
「つかるのかよ」
「うん、つかりたい」
舌打ちもせずに左奥のバスタブにお湯を張り始めた則さん。
秋の夜のやさしい風や
程よく入ったアルコールのせいではなくて
友達を大事にする
不器用で優しい熊みたいな人なんだよ。
僕は今でもそう思っている。
つづく。
9.9
ロッジの、いつにも増して重たい扉を開けると
則さんの愛犬から吠えまくられました。
詳しくないので犬種は分かりません。
ただ狩りにつかう大きな犬です。
第一声が
則さんの「バカヤロー」だと想像していたから
大きな犬に慣れていない僕はビビりましたね。
ロッジには他にもお客さんがいて
もう食事をされていました。
則さんはこちらを向きません。
取材、なんとか一本出しました!との報告も
無視。
こんな時の無視は辛い。
怒鳴られたほうがよっぽどマシですよ。
僕は負けません。
たしか、何か冗談を言ったと思います。
無視。
となりで友人が小さな声で
「マズい、マズいって」とつつきます。
僕の存在を外しての宴は静かに続きます。
ま、いいか
諦めの早い僕は
ならば、食って飲んでやろうと
シーバスで有名な古山さんが作ったばかりの
鴨のローストか何かを大皿から自分の皿にとった。
たしか、どこかで則さんが猟でしとめたという話。
そうだ、ココで
「こんな美味い鴨は初めて〜」と
キャピキャピ声で言えばウケるかも!
ヌロンっとした柔らかそうなお肉からは
肉汁が溢れ出て、なんと美味しそうなことか。
明るく、明るく、いただきますの挨拶。
元気に、元気に頬張ります。
ガリッ!
周りが驚くぐらいの硬い音がしました。
ふんが!はんが!と
オッサンが鼻毛を抜くときに出すような
変な声を出したと思います。
それがまたなかなかの大きさ。
口の中に指を入れて取り出してみると
ナ、マ、リ???
鉛みたいな物でした。
それを見たとたん
「ガハハハハハハーーッ」
と豪快に笑う則さん。
「そりゃあオマエ、散弾銃の玉だ、ガハハ」
と笑いが止まらない様子。
「オレの弾だな」
「どうだ、美味いだろ?ガハハ」
ココはしてやられた感を出しておかないとね。
苦い顔で「う、うまいです・・・」
先ほどまでとは電圧が上がったように明るいロッジになりました。
ニコニコして料理を頬張った。
則さんは椅子から立ち上がり
シェーカーを振り始めた。
「ほら、飲め」と
お得意のマルガリータがでてきた。
ココは九州男児を見せておかないとと
一気に飲み干す。
「ったく、オマエは品がないなぁ」
とニコニコ顔。
「いい酒も台無しだ、ガハハハ」
もうここまで来れば大丈夫。
さて料理を腹いっぱい頂きましょう。
あの則さんが作ったパスタ
なんだったんだろ。
すっげー美味かったなぁ。
壁には魚の剥製に
無造作に置かれた釣り道具。
高そうなオーディオの金属感だけが今風で
あとは木の温もりに満ちたロッジ。
時間を忘れる空間だ。
夜のとばりとともに
誰かの気の利いた「そろそろ」という言葉で
素敵な時間も、おひらきとなった。
家主を残して挨拶をしながら皆表に出ると
家主が叫ぶ。
「おのやまー!」
ん?と振り向くと
「オマエはココに泊まっていけ」
監禁である。
夜はまだまだ眠らないようだ。
つづく
9.8
2000年もまた
木更津のスポーツザウルス社で忘年会のお誘いを頂きました。
去年と違ったのは
バスワールド誌から取材をしたいと申し出があり
千葉の友人の並木さんが受けることになりました。
僕も忘年会前日に千葉に入り
その取材に同行。
その取材に来たのは
のちにトップウォーター専門誌を立ち上げることになる
エバトヒロシさんでした。
並木さんの取材が進み
午後、近所の川で釣りをすることに。
それは釣りクラブだから当然ですよね。
そして夜には
則さんがロッジで飯作ってるから来い!
とのお誘いを頂いてたので
ちゃちゃっと釣って行けば間に合うだろうと
タカをくくっていました。
そうです。
こういう時には問屋が卸さないものなんですね。
遡上しながらよさげなポイントをみんなで打ち込んでいきますが
川は静かに眠っていました。
マズい。もう間に合いませんよと
ボートを反転して下りながらルアーを打ち込んでいくも
さっぱりブラックバスからの応えはありません。
あたりも薄暗くなり始めた頃、
高圧電線の下、ブッシュに囲まれた小さな流れ込み。
手前には孟宗竹だったか、細い竹が覆いかぶさり
とてもルアーを中に入れることはできない小川でした。
打てるところはすべて打った。そして居ない。
居るなら打てない所しかない。
パロット色のダンプティークリンカーを結び
高い軌道で奥へ放り込みました。
当然、ラインは竹に引っ掛かり宙に浮いたまま。
ルアーが上を向いて浮き上がらないように
ゆっくりリトリーブすると
カチカチと音を立てていたルアーが聞こえなくなると同時に
笹がゆさゆさを揺れ始めました。
きた!(と思う)とロッドを立てて強引に引き釣り出したバスは
30センチぐらいだったかな。
普段なら気にもとめないサイズだけど
その時は貴重な1本。
暗闇の革の上で
みんなでワーワー喜んだのを覚えています。
1本釣れていい気になったのか
僕は前回の宮崎での取材で
則さんが言った言葉を覚えていました。
取材ではこういうカッコイイ言葉が出るものなんだな。
いつか使えたらカッコイイだろうな。
僕が持つバスにカメラをかまえるエバトさんに言いました。
落ち着いて、低く確実に言いました。
「光量、だいじょうぶ?」
いかにも取材なれしたような
いかにもカメラに詳しいような口ぶりでね。
エバトさんは
「あー大丈夫っすよ」と軽く受け流し
シャッターを押して淡々と仕事をされております。
重い言葉も
軽いヤツが言えばこんなものです。
とにかく魚の写真はおさえられたので
僕らふたりはボートの片付けも任せて
則さんのロッジに急ぎます。
則さんが料理を作って待っているロッジ。
僕はなんとなく
釣るという仕事を完結させてきたのだから
釣りの神様は怒らないだろうと
またタカをくくっていました。
そしてポツンと灯りがともる
則さんのロッジに着いたのです。
約束の時間はとうに過ぎている。
いざ、釣り神様のロッジ、
いざ、恐怖の館へ。
つづく。
9.7
入荷数は少なかったけど
最初のルアー抽選販売は続けることにした。
月末に来月分のオーダー表がきて
ホームページでアップ。
ご予約を受け付けて入荷後、個数を確認して
抽選をして発送のスタイルを続けた。
入荷してアップ、完売したら終わりが一番楽なのだろうけど
当時はバスルアーブーム。
なるべく手に入らない人に回してあげたかったからだ。
とは言うもの僕の人の子。
ルアーの抽選希望に
「当選したらロッドを一緒に買います」なんて書いてあると
当選させた事もあります。
ルアーを手にしてもらいたいという思いも
とにかく会社のいち部門として稼働していたので
売上を上げたいという思いも
両立させていかなければならない状況でした。
当時は大手ショッピングサイトもなく
釣り具屋のネット通販もすくなく
全国から凄い注文が入って来てましたね。
ファイブオーはたまに遅れて仕上がって来る分があって
営業さんもそれをまた振り分けるのも面倒なので
ごっそりうちに回してくれてました。
バルサ50オリジナルサイズのピンクコーチドッグは
通常1、2個の入荷でしたが
遅れて仕上がってきた分が全部うちに回ってきました。
たしか30個ほどあったと思います。
営業さんから
「売れなかったらなんとかしますから」と言われたものの
もちろん一瞬で完売しました。
一緒にと言ってはなんですが
その時、ウッド製のホッツィーBigが
売れなくてもの凄い数が余っていたんですよ。
いいルアーなのにね。
その相談も聞いていたので
うちに注文をくれてた人だけにメールを送って
秘密の販売ページでセットで売ったと思います。
ですから、うちだけに30個入荷したのは
バレてないはずです。
ここのホットラインも
オープン当初から書いているので
もう20年書き続けているのですね。
自分が驚いています。
スタート時は「ブログ」や「SNS」なんてシステムが無かったので
アップするのも随分と手間が掛かりましたが
九州営業所や関東営業所の営業の方々や
工場の方々、そして則さんから沢山の情報を集めていたので
スタート当時は書く苦労はまったくなかったです。
何よりもホットラインを読んでくださった方々から
「こうだ、ああだ」と反響のメールが嬉しかったですね。
そういうメールの返事も楽しい仕事でした。
自分が発信したことにダイレクトに思いを聞ける。
これは僕にとっては、楽しく、大きく、
ココを続ける大きな原動力になたことは言う間でもありません。
そしてミレニアムイヤー2000年の忘年会がまた開催されました。
つづく。
9.4
もうひとつ
ザウルスキングのオープン前にあった。
セミナーと同じ7月にバスワード誌の取材。
宮崎県でやるということなので「来い」との事だった。
こうやって則さんがひと月に2回も九州に足を運んでくれるのは
新設された九州営業所の若い2人の努力にほかならない。
現地についてボートをセッティングし終わると
「オレはおのやまの船に乗る」と
則さんがドカドカと泥のついたブーツで乗り込んできた。
え、え、え
ってなものである。
サポート艇と思って来ただけに
メイン艇となってしまった。
あー新艇フルセット買ってよかった。
と内心思いながらも初の雑誌取材。
八郎潟の苦い思いをしたくないので
欲は捨てた。
操船に徹する。
ボートを湖面に滑らせる。
前席には則さんの大きな背中。
前が見えない。
雨が上がった山奥のリザーバーは
所々に立木や浮遊物がある。
それが真正面にあるとまったく見えない。
則さんがゆっくりと大きく手で進路を示す。
右手が伸びると「進路を右にとれ」の合図だ。
これがまたなんともカッコ良く
いつか真似したいと思っているのだけど
船を出す身なのでいまだにやったことがない。
鋭角に切れ込んだワンドを奥に進んでいくと
最奥に生きている流れ込みがあった。
アンクルスミスの連続アクション。
ガボ、ガボ、ガボ
ルアーが浮いてこない。と思った瞬間に
則さんのフィリプソンBC60Mが空に立った。
上がってきたブラックバスは
サイズこそ満足いくものではなかった。
則さんは後ろを振り返り僕の顔を見て
「な、言っただろ?」
何を言ったっけ?
まあ良い、内心ホッとしたのは事実だ。
夕方の釣りを終え
宿に帰ると土砂降り
山の天気は変わりやすく容赦ない。
翌日は釣りもできず
温泉とうなぎでのんびり
ザウルスキングのオープン前ということで
釣具店とはの話が多いかと思えば
鍋の作り方、その後の雑炊の作り方
そんな話ばかりだった。
なんとも贅沢な6日間の取材だったな。
地元に帰ってきて
ボートを洗っている時に
釣りの仕事一本でやっていきたいと
真剣に考えていた。
そして来月オープンへの気合いも乗ってきた。
しかしながら今はサラリーマン
1週間の溜まった仕事を片付けるのが先だった。
つづく
9.3
ザウルスキングがネット上にアップされる前の月
7月1、2日に佐賀県北山ダムで
則さんを迎えてザウルスセミナーが開催された。
友の会もこのイベントをサポートした。
邪魔もしたけどね。
電話ではいつも話していたけれど
2月以来、久しぶりに会った則さんは
シベリアのトラウトフィッシングから帰ってきたばかりで
その土産話に聞き入ってた。
「おのやまも来年一緒に行こうな」
普通のサラリーマンであっても
則さんからこんな風に言われると
不思議と行けるような気がしてくるもんだ。
いやいやどう考えても
1週間も仕事を空けるなんて無理だ。
と胸の内を伝えると
「バカヤロー!」
久しぶりに怒られる。
どうしてバカヤローっすか
どれだけ仕事できると思ってんすか?
「オマエがいなければ仕事が回らない」は
何も偉くない。
「オマエがいなくても回るようにオマエが準備していない」
それはオマエの怠慢だ。
これにはグウのネも出ませんでした。
自分がいなければこの会社は・・・
と言っていたのが恥ずかしくなった。
こういう釣り以外の事を教わるのが
とても楽しかったな。
それ以来、仕事に対する考え方が変わった。
セミナーでは
沢山のザウルスファンと
楽しい時間をご一緒させていただいた。
今でも何人かのセミナー参加者の方とは
仲良くさせてもらっている。
トップウォーターバスフィッシングを通して
できた友人の数はもの凄い数だし
なにより今でも付き合ってくれる友人も多い。
つづく
9.2
とにかく20年前のその日
スタートしたわけだ。
しかしながら
釣具店で働いたことがあるわけでもなく
業界のことが詳しいわけでもなく
ただ単にザウルスが好きで始めた釣具屋
そんなに上手くいくわけがない。
毎月どれぐらいの数が割り当てられるのかも分からず
予約なんかを取り始めたものだから
もの凄い数の注文メールが入る。
電卓でその数を単価で掛けて
ニヤニヤしていたら
入荷数はほんの数個。
それでも九州営業所の友人たちは
頑張ってくれてたんだと思う。
社長とどんなに親しくても
経験不足の新参者であった。
おまけに名前の大きさである。
僕のところに直接は何も来ないのだが
次第にあちらこちらにクレームが入り始めた。
ザウルスは直営を始めたのか?
ザウルスのネームやロゴ文字を無断で使用している。
我々(他店)の知らない情報を知っている、流している。
ザウルスの社員さんたちには随分と迷惑をかけていたが
顔見知りの社員さん達からは行け行けと逆に応援してもらった。
クレームは最終的に則さんの一言で収まっていた。
「オレが良いって言ってるんだから良いんだよ」
「出る杭は打たれる」
ならば
「打たれないぐらい突き出る」
そう思っていた。
後にネットの巨大な匿名掲示板で
「座右菌」と表示され叩かれまくることになるが
その時でさえ楽しく読んでいた。
それが生きる力にもなっていた。
まあ、しかし
始まった当初、
右も左も分からない新参者は
少し天狗になっていたのかもしれないね。
つづく
9.1
それからというもの
バルサファイブオーはいいよー
則さんはすごいよー
と釣り仲間に語りかけていた。
それはまるで宗教さながらだっただろう。
ある釣り人の言葉
「それは分かるけど、手に入らないじゃない」
そうなのだ。
当時はバスブーム。
ハンドメイドの製作数の少ないルアーや
人気のルアーは店頭で殆ど見かけることもなく
常連さんたちや
ロッドやリールなどの高額購入者のモノになった。
僕の頭の中には
バルサファイブオーを買えるようにしたい
則さんの、この会社の魅力を伝えたい
そればかりだった。
・・・やはり宗教みたいだ。
僕ができることといえば
友の会で知ったパソコンの使い方と
則さんや仲良くなった社員さんたちと電話で話せること。
商品だけでなく
情報を発信できるサイトを作ること。
スポーツザウルス社専門の通販サイトが
具体的に成り始めたのは春も終わり
蒸し暑さが増してきた頃だった。
当時の僕といえば
営業会社のサラリーマン。
インターネットによる個人での出店は
まだまだ認められる時代ではなかったので
その会社でインターネット事業部を立ち上げ
そのいち部門として通販業務を行うことを条件に
スポーツザウルス社からの商品提供契約が結ばれた。
さてさて店の名前を何にする。
実は早い段階でどうするのか決めてあった。
則さんに店の生をつけてもらおう。
そのことも伝えておいたのだけど
まったくその話がこない。
ヤキモキしていると
力強く住所が書かれた封書が届く。
則さんだ。
開けてみると
店の名前は「ザウルスキング」にしろよ
どうだ。
ぶるぶると震える手で
則さんに電話をかける。
「則さん、名前、僕には大きすぎます」
と、挨拶もせずに僕。
「大丈夫だ」
何が大丈夫かさっぱり分からなかった。
出店に向けて走り出してから
この名前をもらった時が
一番、不安に襲われたときになった。
つづく
8.31
西暦2000年、ミレニアムイヤー。
この年は僕にとって大変大きな意味を持つ一年だった。
スポーツザウルス社も2000年ということで
主要都市で単独の展示会をすることになった。
福岡は2月27日
ここで友の会は
スポーツザウルスの新製品展示会に
バルサファイブオールアールアーのコレクションを
展示してはどうかと持ちかけた。
社長である則さんは
「おお、いじゃないか」と軽くひとつ返事だったが
営業サイド側は当然、NGである。
今年の売れ行きを左右するかもしれない展示会に
いわば「遊び」を持ち込まれては困るということだ。
今の僕ならこのNGは理解できるが
当時の僕にはさっぱり分からず
少々強引な手段を使ってなんとか了承をもらった。
もらいはしたが
会場設営時からピリピリしていた事を覚えている。
とにかくお客さんに喜んでもらえるよう
頑張るしかなかった。
会場がオープンしてどっとお客さんがなだれ込む。
たしか入場制限がかかったと思う。
僕は友の会のブースの前で準備していたが
すぐに則さんに呼ばれることになる。
「おのやまー!バスロッドの説明をしてくれ」
当日、午前の部は業者時間
釣具店や問屋さんにバスロッドの説明をしろと・・・
僕はいちユーザーなんですけど
などとぶつぶつ言いながらも
お役に立てるのならとすぐに背筋を伸ばして
展示ブースのほうへ向かった。
周りを見れば
各ブースにテスターさんや社員さんたちが
説明をしていたが
バスロッドのコーナーには誰もいなかったのだ。
普段からヘビーユーザーでもあり
また開発秘話や、こだわりを聞いていたので
意外とどうにかなるもんだ。
説明した新製品のロッドに対して
「納品はいつ?」と聞かれたときは
さすがにそこは営業の方を呼んだけど
後ろ手にグッと拳を握って嬉しさを殺していた。
「好きなものを人に説明して売るって面白い」
説明しながら陳列してあるロッド群越しに
友の会のルアーブースに目をやると
凄い集客をしている。
嬉しかった。
沢山の来客があり
則さんもご満悦のようだった。
夕方になり片付けを済ませ
みんなと別れを告げる。
どっと疲れがでる。
遠方からきた友人たちとあまり話していない
意外といっぱいいっぱいだったみたいだ。
「好きなものを人に伝える」
そればかりを考えていた。
ここでスイッチが入ったのかもしれないな。
つづく
8.28
ぐでんぐでんに酔っていながらも
宴会での吉田幸二さんの話はしっかりと覚えている。
「いいものは100年残る、かならず残る」
この言葉は
バルサファイブオーや道楽のルアーの話だったと思うけど
僕はこのお話を聞いたときルアーは作っていなかったので
その言葉を「言葉」や「行動」と捉えた。
今でもしっかりとこの言葉が僕の中にある。
あんなに酔っていたのに
この言葉だけはしっかりと覚えている。
次の日の朝
早々に帰る長崎組のために
矢木くんが羽田まで車で送ってくれるというので
6時にホテルのロビーに集まる。
驚いたのは
そこには藤原ユーイチの姿も
あんなに酔っていたのに早朝から
見送りに出てきてくれた。
今でも付き合いがある大切な悪友である。
会のイベントから帰るたびに
僕の中で則さんやスポーツザウルスのために
何かできないかと常に思うようになる。
則さんに憧れて
バルサファイブオーが好きで
この釣りが好きだった、いちユーザーが
こんなに濃密で素晴らしい経験ができたことは
会のみんなのお陰ほかならない。
インターネットの普及とともに
様々な新しい事が起きる前触れだったのだろう。
世紀末問題などと大騒ぎをしながら
1999年は幕を閉じた。
つづく
8.27
千葉県木更津にある
スポーツザウルスで
忘年会をやろうということになった。
たぶん、則さんからのお誘いだったと思う。
行くよね、絶対行くよね。
バルサファイブオーが作られている
工場を見学できるチャンスなんて
こんなチャンス!行くよね。
そして、
その奥には
男の憧れというか夢というか
釣り道具やら、すっげーオーディオやら
詰め込んである
則さんのログハウスがある。
絶対行くよね。
それまで仕事を必死でこなして
11月27日に羽田空港に降り立った。
そこには関西のメンバーと
恐ろしいたたずまいであの「藤原ユーイチ」が、
仲が良かったサーフェイスバンデットの「KAZ」もいた。
いつも迎えに来てくれる関東のメンバーの車に飛び込み
東京湾に浮かぶ「海ほたる」に驚くきながら
対岸の木更津へ向かう。
道路からそれ雑木林の中を走ると
あの本で見慣れたスポーツザウルスの社屋が現れる。
そしてその奥にはあのログハウス。
車から降りて人の多い方へ向かうと・・・
「おのやまー!」
みんなの会話をつんざく野太い則さんの声
「もう、ったく・・・」なんて言いながら
ニヤニヤして駆け出したのを覚えている。
ひととおり挨拶をしたあと
しばらくは則さんのとなりで飲んでいた。
吉田幸二さんがいる、道楽の山根さんがいる、
松本さんに山科くんもいる
トップウォーターバスフィッシングの牽引者たちが集う。
が、
やっぱり気になるのはロッジ
中を見ていいですか?と了解を得て
ドキドキしながら中に入る。
誰もいないと思いきや
関西のメンバーと藤原ユーイチがどーんっと座って
持ち込んだラム酒を飲んでいた。
ここでユーイチと意気投合
怒涛の飲み合いになる。
持ち込んだ酒はすぐに空となり
ココに沢山あるやんかと
則さんのお酒のコレクション棚を勝手にあけ
ブッシュブッシュと栓を抜く。
のちに
「あの二人を揃えるな」と語り草になった事件である。
だけどこの無断飲酒事件について
則さんから怒られたことはない。
話はそれるけど
則さんの奥さんに初めてお会いした時に
「あなたね!うちのお酒を飲み干したのは!」
とこっぴどく怒られた。
お酒が足りなくなって
その日、山根さんが則さんに手土産に持ってきた
高級シャンパン2本も飲み干した。
これは栓を開ける前にかなり止められたけど
二人が止まるはずもなく
栓を開けて飲みだしたら
周りから人が離れていったのを覚えている。
淋しがり屋の二人も外の皆に合流した。
外で飲んでいると
則さんからドンペリを渡された。
もちろん則さんはロッジのお酒がなくなっていることを知らない。
僕はかなり酔っているもんだから
なかなかスムーズにドンペリを開けきれすに手こずった。
手こずった挙句が
開けた途端に噴水となって
半分はこぼしてしまうという大失態をやらかす。
誰と何を話したかまったく覚えていない
とにかく藤原ユーイチと飲んだ記憶しかない。
そこから夜の宴会場があるホテルにバスで移動するのだけど
吉田さんと山根さんに挟まれておとなしくしていたのではないかと思う。
たぶん。
おでこに山根さんに落書きされていたので
おとなしくしていたのだと思う。
たぶん。
夜の宴会場では
ユーイチとふたり、ドロ酔いをすぎて
ドロになってぐっちゃりしている写真が残っている。
あんなに飲んだのは久しぶりだった。
まったく貴重な宴会だったのにね。
つづく
8.26
地元に帰ってきてから数日は
夢のような現実に仕事に身も入らず
だらだらとしていた。
そこに届いた一通の封書。
則さんからだった。
「オマエの中に熱い物を見つけた」
そう書いてあった。
なぜか、その一行を見て
うるうるとココロが揺れたのを覚えている。
最後の言葉は
「漁夫、二竿を持たず」で締めくくってあり
それは
ひとつの事を必死でやれというメッセージだった。
目が覚めた。
この人から呼ばれたら
すぐに飛んでいって役に立てるようになろう。
そのためには今の仕事を一生懸命やろう。
則さんの携帯電話の番号が書いてあった。
書いてあるってことは
電話してこいってことなのであろうから
恐る恐る手紙のお礼も兼ねて電話してみる。
「はい」
憮然とした起こっているような声。
うむ、タイミングを間違えたか。
「長崎の小野山」と伝えると
「おーおー!」
何かあったら
何もなくても電話してこいと言われた。
則さん、電話をかけると喜ぶのである。
これ以降は僕の番号を登録したみたいで
およそ神様とは思えない軽くかわいい声で
「あいよ」
と出てくれるようになった。
そうして夏の暑さも緩み始めた9月
もう一度、八郎潟で釣りをすることになったけれど
サラリーマンの中間管理職。
そう安安と出ていけるものではなく
とても残念。
だけどまた
会のほうにビッグニュースが入る。
つづく
8.24
次の日の午前中
仲間たちと釣りを楽しみ
我々、九州組は飛行機の関係で
先に上がることになっていた。
バタバタと身支度を整えていると
「おのやまー!」
則さんがこちらにやってきた。
呼び捨てされて昨日の挽回が
夢ではなかったと感じる。
茶髪のロン毛、アロハ姿のチャラ男に
右手を差し出してくる則さん。
有難うございます。と手のひらを握る。
「おのやまー、握手というものはな
こうやってするんだ」
親指の付け根、奥と奥をグッと合わせてしっかり握る。
則さんは「うんちく」が多い。
思い返せば
あまり釣りの事を教わっていない。
「男として」大事なことだったり
「人生を歩んでいく」ことに大切だったりもする。
もちろん、つまらないことも多かったけどね。
握手。
則さんから沢山の事を教わったが
それが最初に教わったことだったかも知れない。
ずんぐりとした肉厚の握りにくい手だった。
車で来ていたメンバーの方に
秋田の空港まで送ってもらう。
思い出話で盛り上がってはいたが
頭の中は何かこう
ジグソーパズルが完成しつつあった。
地元の友人から
ブラックバス釣りとバルサファイブオー
そして則さんという人がいて、と教わって
そこから何年もその釣りを楽しんでいたら
則さんと会い、釣りをし、酒を飲んだ。
夢が叶った。
夢が叶った?
叶ったというのはココがゴールなんだろうか。
僕の頭の中は充実感というより
この先の期待感のほうが大きかったように思える。
バルサファイブオー、そして則さん。
自分がとてつもないシアワセな時間を過ごさせてもらったから
何か役に立つことをしたい。
そのことで頭がいっぱいであった。
1999年7月18日のことである。
つづく
8.21
北国のラーメン屋
前髪がないと食事がしやすい。
太陽が出ている時間
まったく冴えなかった反動で
ラーメン屋ではずいぶんと大騒ぎしたのを覚えているが
大量に流し込む酒のせいもあって
話の内容はあまり覚えていない。
ただ、お調子者の僕は
神様、則さんのことを「オヤジ」と呼んでいた。
実は則さん、あとで聞いたのだが
「オヤジ」と呼ばれることはあまり好きではなかった。
理由は色々あるけれどね。
歳が離れていようが
釣りという趣味で知り合った「友達」「仲間」でいようと。
だけどこの頃には
僕がどんだけ調子に乗ろうとハズそうと
にこにこして「うんうん」と聞いてくれ
間違ったことをするとすぐに「バカヤロー」と
直してくれた。
最初に「バカヤロー」を言われたとき
素直に嬉しかった。
それに喜んでいると「オオバカヤロー」と
上級バカを頂きました。
宴が進み
則さんも酒が入っていたのだろう。
向かいに座る○○ちゃんと僕に
「オマエら、俺が死んだら棺桶をかつげ」
そう真顔で言われた。
そう言われた人はそこそこ居るのだろうけど
さっきまで神様だった人から
真顔で言われちゃ
胸の奥にあるしっかりと組み立ててきたパズルが
バラバラと崩れていったような感覚だった。
21年前の色あせてきた写真に
ふたりがまるで怒られたいたずらっ子のように
目を真っ赤にして泣いてる写真がある。
僕はその辺でこと切れて
則さんに足を向けて寝てしまった。
どれぐらい経ったのか
ふと気が付くと
初めて釣りをした大分から宮城に移住したメンバーが
そろそろ帰るというところだった。
そう、彼は宮城から秋田県八郎潟まで車を飛ばしてきていた。
「オヤジー!車にサインしてやって!」
と、復活したお調子者の僕。
「おうよ!」と自動車のボンネットいっぱいにデカデカと
則 弘祐とマジックペンでサインする、さらにお調子者の神様。
みんなの笑い声は暗い空へと響き、そして吸い込まれていく。
つづく
8.20
真夏の桟橋。
冷えたワインを皆に振舞う神様。
僕にはまわらず。
ココロに北風。
クチビルは動かず
ただただタックルボックスの中のルアーを見てるだけ。
確かにね
茶髪のロン毛
ヒゲにアロハシャツ
首や手首にはジャラジャラ輪っか。
それに付け加えマナーも悪ければ
振舞われないワインよりも冷えた言葉を発する。
こんなヤツは煙たがられるんだろう。
それでも一発デカイ魚を釣れば
釣り魂を見てもらえると思えど不発に終われば
僕に認めてもらえる手段はもうない。
もう何もない。
何もないのか?
円の宴は僕以外は盛り上がったまま。
話の内容は今となっては忘れてしまったが
何かが「できるか、できないか」だったような気がする。
何もないのか?
何もないのか?
ある。
あった!
凹んでも2秒で立ち直れるハートの強さ。
「お、俺は!・・・」
則さんはこちらを向かないどころか反応もしない。
「俺は前髪だけバッサリ落とせますよ」
「バッサリ」の段階で言いながら
ああ、またスベる。やっちまった。そう思った。
「やってみろよ!」
語尾を荒らげ、則さんが僕を初めてちゃんと見た。
いや、見たというか睨みつけた。
その眼光は「口ばかりの軽い男」としての睨みだ。
僕が持ってるものはまだあるぞ。
諦めの悪さ。
そして、有言実行力。
「やってやるよ!」
とまでは言わなかったけれど
確か、雷魚用のラインカッターのハサミだったと思う。
ハサミで自分の前髪を鷲掴みにして根元から切り落とした。
茶髪のロン毛、おまけにチャラ男が、である。
どうだ!とばかりに則さんを見返す。
沈黙。
相手は笑顔にならない。
あー終わったな。
もういいや、九州まで帰るか。
則さんは前かがみになって
足元にある自分のタックルボックスをガサガサと探る。
「オマエ、これやるよ」と
通常のラインナップに無いカラーの
ペンシルベイトルアーを僕に差し出した。
「コレはな、特別に塗ってもらったんだよ、ほら」
この人
僕がこのルアーをじっと見ていたことを気づいていたんだ。
確か茶髪のロン毛でアロハジャラジャラなチャラ男は
前髪がなくても、ちゃんとお礼は言ったと思う。
夕方まで釣りをして
八郎潟湖の近くのラーメン屋だったか
みんなで飯を食おうということになり
風呂で汗を流したあとに店ののれんをくぐる。
「おのやまー!こっちこいよ」
則さんの野太い大きな声。
則さんの座るテーブルが空けてあった。
ま、たぶん、みんな則さんと同じテーブルでは
飯も喉に通らないだろうから空いてたんだと思うが
なによりも
「おのやま」と呼び捨てされたのが嬉しかった。
容赦ない夏の太陽が隠れて
成りを潜めていた北国の涼しい風が
僕のココロにもそっとそよいできた瞬間だった。
「よし、飲もう!」
つづく
8.19
北国とはいえ
7月18日の太陽は容赦なく釣り人を焦がし続けた。
午前のここち良い風はすっかりどこかに行ってしまった。
交代で乗せてもらったボートで帰ってくると
桟橋ではすでに則さんを囲んで盛り上がっていた。
仲間たちの背中を見ながら道具をまとめ陸に上がる。
そのうちの一人が僕に気づき
「どうだった?」と声をかけられるも
首を横に振るしかない。
僕からは遠い円の中心にいる則さんの
「だろうな」の顔。
僕を見もしないで
「アイツがボートを降りたとたんだよ
ドッカーンっと魚が出てさ・・・
アイツ疫病神だな、ガハハ」
どうやら僕が降りたあと
一緒に乗り込んだ相棒が釣ったらしい。
ココロの落ち込みを見せるのもシャクなので
ふっふっと笑ってみせる。
円の外にいるなんて
何十年ぶりだろう・・・
仲の良い友人が冷えたワインを持ってきた。
満面の笑みで喜ぶ則さん。
「おお、○○ちゃん分かってるね〜」
そっか、彼はもう名前を覚えてもらってるんだ。
しかも「ちゃん」付けかぁ。
すると○○ちゃん
「あざーっす、俺の血はワインが流れてますから!」
なんとも薄い普通の返しだこと、と思った。
しかし則さんは「そうかそうか」と笑っておられる。
どうも機嫌が良さそうだ。
もしかして挽回のチャンスか!
僕は円の隙間に半ば強引に入り込み
則さんの足元にあるタックルボックスの前に腰を下ろした。
何か、何か言わなきゃ始まらない。
「お、俺の血はファイブオーっす!」
それまでの人生で、いや、
生まれてから今日のこの日までの人生で
一番シラケた瞬間だった。
なんていうことを言ってしまったんだ。
則さんはワイングラスを見たまま
「ん」
「うん」ではない、短い「ん」
それは返事ではなかったな。
ハイハイ分かったからもういいから的な
まるで句読点だった。
1999年の夏は帰ってはこなかった。
今すぐ帰りたい・・・
つづく
8.18
則さんが操船するG3ボートは
桟橋を離れ北進する。
なんとか落ち着きを取り戻そうと深呼吸。
ここまで追い込まれては
そう簡単に落ち着くものではない。
そしてまたしくじる。
バッグからタバコを取り出しライターで日をつける。
とりあえずライターはスポーツザウルスのターボライター。
則さんに見えるように火をつけたのを覚えている。
今、考えればなんとも恐ろしい。
則さんは嗅覚の優れた犬のために
タバコをやめた人だ。
もちろん、俺の前で吸うな、という野暮な人ではない。
しかし神様というか、雲の上の人というか
そういうの抜きにしても
目上の人が操船してくれているのに
前で断りもなくタバコを吸うなんて
そんなマナーをミスる僕ではないのに
なんでアソコで吸ったのか・・・
たぶん、緊張やアガることに慣れていない人間が
極度にそういう状態を経験すると
こうなるという悪い見本だったんだろう。
桟橋を出てからボートの中は終始無言だった。
湖面を吹き抜ける乾いた風が生まれた北国の夏の空は
高く、青かった。
僕の頭上以外は。
ボートは
ジュンサイの浮き葉が広がるポイントの手前に止まり
風に任せてゆっくりと流れていく。
「ここは昨日、50センチアップが出たんだ」
当然、釣り師
この言葉に反応する。
後ろの神様も釣り師。
ここでガツン!っとデカイ魚を釣れば
僕に対する冬の木枯らしも止むだろう。
認めて貰いたかったんだろうな。
こういう広いポイントはロングキャストをして
探っていくに限る。
ウイードレス効果のあるダブルフックに変更した
ホッツィートッツィーをテイクバックした。
「行け!僕の名誉!」
固く引き締まった筋肉がボロンの竿に力を与えた。
ホッツィーの初速よりもはるかにリールの回転のほうが優った。
バッグラッシュ。
普段、やったこともないような特大のライントラブル。
必死で対処するも解いてるのか、もつらかしてるのか。
夏の空に遊ぶカッコウの声。
ようやくもつれたラインを解き
流されたラインを回収する。
と同時にボートは対岸に移動する。
そこで釣りをしていた仲間のボートに近づく。
僕は今まで何事もなかったように
背筋を伸ばして余裕の笑みを振り絞る。
則さんが言う。
「もう交代していいんじゃないか?」
僕は暗い闇にすっぽりと覆われたココロを隠しながら
仲間に明るく「代わろう」と声をかけた。
1999年の夏が終わった。
今すぐ帰りたかった。
つづく
8.17
「そんな熱い連中がいるのなら
一緒に釣りをしないか?」
縁が縁を呼び
この釣りの神様
則さんから会に声がかった。
縁が円になった。
「八郎潟にいるからさ、来いよ」
近々の誘いに喜び驚いたものの
その時、僕はサラリーマン。
八郎潟は秋田県
週末を利用しても簡単な距離ではない。
金曜日の最終便で羽田に降りると
会でチャーターしてもらったバスに乗り込み
夜中に八郎潟へと向かう。
たしか、バスの中では
道楽さんのビデオを見ていたような(笑)
修学旅行みたいで楽しかったなぁ。
朝方、八郎潟の湖畔に着き
桟橋に目をやると
いた。
沢山、人がいたけれど
すぐに見つけた。
見慣れたカウボウイハットにアロハシャツ。
カーキの半ズボンにブーツ。
雑誌で見慣れた人そのまんまだった。
僕が釣りを始めるキッカケとなった
「バルサファイブオーってルアーがあってね」
「則さんって人がいてね」
師匠たちから散々聞かされた人が
目の前にいた。
デレクターチェアにドンっと座り
周りには使用しているタックルが並ぶ。
足元には雑誌で見慣れたタックルボックス
グリーンのアムコが両ウイングを開いて
まるで雑誌の1ページを撮影しているようだった。
僕はいがいとカチコチだったかも知れない。
紹介を即されて後ろから出て行くと
「よく来たな」と右手を出された。
僕も右手を出し
則さんの手のひらを掴んで握手すると
ふっと冷めた感じにかわった。
カチコチながらも営業管理職。
僕はそれを感じとった。
「で、どうすんだ?」
則さんが社員さんたちに言うと
「一緒にボートで釣りを」ってことになり
これまた皆に即されて
トップバッターで則さんが操船するジョンボートに乗り込んだ。
バスを降りたてで遠足気分だった僕は
当然、道具の準備もやってなく
気持ちと道具の整理に
思いっきりドタバタしたのを覚えている。
そして最悪の釣行が始まった。
つづく
8.12
今日はザウルスキング20周年の日です。
20年ですよ!
1997年にインターネットの売買掲示板に
アンバサダー5000Cを売りに出したのがすべてのキッカケです。
それを買ってくれたのが縁で
千葉に住む彼と色々と話していると
お互いバルサファイブオーが好きだった。
そこから「50友の会」というのを
ネット上に彼が立ち上げて始まりました。
まだまだそんなにインターネットが普及しているわけでもなく
また僕が知識を持っているわけでもありませんでした。
僕のパソコン自体のレベルはまったくのゼロ。
「50友の会」には交流の場としてのレンタル掲示板があって
そこは一週間書き込みがなかったら削除されるという
規則があった。
僕はカウンターを上げるために何をしたかというと
「F5」を押せば済むのを
そんなことは知らないので
一回一回、パソコンの電源を落としてアクセス数を稼いでました。
信じられないでしょ?
もっと信じられないのは
パソコンの電源の落とし方を知らないので
デスクトップの電源ボタンをブチッを切ってました(笑)
会社のパソコンごめんなさい・・・
そんなこんなで続けていると
全国からファイブオーファンが集まってきました。
各地でオフ会や釣行会も開催され
ネットの中で楽しい毎日を過ごしてました。
ネットで知り合った人と初めて会ったのは
大分県のメンバー。
一緒に釣りがしたいねとの話から
ジョンボートを車に乗せて大分まで走りました。
ネットで毎日のように話していたから
ぜんぜん初めて会った感がなくて
忘れっぽい僕でも
あの時の湖上のシーンは今でもしっかりと覚えている。
なにより、
彼は宮城県に引っ越したり、
東京で単身赴任している今でも
時折、電話で話をする仲だ。
たぶんずっとこのままの感じで
付き合っていくのだろうな。
歳を重ねても
こうやって永く付き合える友人ができるなんて
今となっては驚きだ。
そんなネットの世界で
同じ好きなモノ同士が集まって遊んでいたら
1999年、あの暑い夏がやってきた。
つづく